とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

学問なるもの

 夏休みになってこれまでになくダラダラした生活を送っている。

 そんな夏休みは自分の学びたいことの玄関を覗くに限る。

 なんの役に立つかわからない、しかしまるっきり無駄どいうほどでもない、そういう分野の入り口を見てみるのがなんとも楽しい。

 大学では一級河川の本流とその支流を学ぶ。

 休みの日は田舎の小川を学ぶ。

 どちらも学問である。

 そして案外田舎の小川のほうが面白かったりする。

 

 

 私はなにかを学ぶということは世界のルール・仕組みを知ることだと思っている。

 法律を学べば秩序のルールがわかる。パソコンを学べば隠された内部の膨大で緻密な処理の仕組みがわかる。心理学を学べば人間の心の仕組みがわかる。物理を学べば地球のルールがわかる。

 学べば学ぶほど色々な分野にある多くのルールの存在を知ることができる。

 これらを知らなくても生きていくことはできる。

 しかしこれらを知らなければ豊かに生きていくことはできない。

 誰かがゲームをやっているのを見るのはそのゲームのルールを知らなくても可能だ。

 だがそれを楽しむためにはルールがわからなければ面白くない。

 人生というゲームをより楽しむためには世界というフィールドの仕組みをより多く知る必要がある。

 

  

 学びというのものはこれだけ大きなものである。

 だから「学び」という行為からも学べることがある。

 それは「学べないものの存在」である。

 以前述べたように学べば学ぶほど、世界の広さがわかる。

 知識を積み上げその高みから見渡すと、地上にいた時に見えていた範囲の狭さと新たに見えるようになった世界の広大さに気づく。

 とても世界の端までは行けるはずがない。そう思える。

 「知れば知るほど知れないものが増える」ということになる。

 皮肉にも既知が新たな未知を生み出すのだ。

 故に「学ぶ」とは逆説的に未知への接し方を知ることになる。

 

 学びが足りない人ほど新たな世界に対峙した時、自分の持つカードで解決しようとする理由はここにある。

 安易な演繹をし、不正確なレッテルを貼り、傲慢に相手を結論付ける。

 わかっていない人ほどわかった気になる。

 なぜなら未知との接し方を知らないからだ。そもそも「未知」を知らない。未知が怖いのだ。

 だから無自覚に未知を排除しようとする。相手が埒外にあることを無意識に忌避する。

 無意識な傲慢が正しい認識を阻害する。

 自分のルールのために世界のルールを捻じ曲げようとする。

 そして未知より厄介な「わかった気でいる」状態が生まれる。

 

 

 

 夏休みに色々な分野の門戸を叩く。

 だからこそ未知に対していつでも真摯でいなければならない。

 既知への帰着という諸刃の剣を使いこなすにはまだ私は幼い。

 だから人生を豊かにするためには小川の一つから未知を既知に変えていかなければならない。

 

 これを私は学問だと思う。

意志薄弱はかく語りき

 初志貫徹という言葉がある。

 だがあいにく私はこれを実践したことがない。

 初志を持つほどの大きな目標を持ったこともなければ、貫徹する強さもない。

 この記事はそんな私が開き直った結果の産物である。

 

 

 「一度決めたことなら最後までやれ。」

 私は正直そんなこと思ったことがない。

 意志が弱い人への訓戒というか脅しというかそんな感じで使われる言葉というのはわかる。

 それでもこの言葉をあまりにも額面通りに受け取るのは良くないと思う。

 初志というものはそんなに信頼していいものなのだろうか。

 はっきり言って実際にやる前に決めた志にそこまで信頼性があるとは思えない。  

 実際やってみないとわからないこともあるだろう。それらを受けてもなお目標を変えないのは意志が固いというより、頭が固いのではないだろうか。

 変わらないこと、初志を貫き通すことへの過大評価がないか。これは一考の余地があるように思われる。

 

 

 変わらないということは危うい。

 その都度、変わるべきか変わらざるべきかの判断が必要になってくる。

 不変を盲信すると、決断に固執すると、いつか決心に裏切られる。

 いつでも努力が正しい方向を向いているかの確認を怠ってはいけない。

 

 変わらないことより変わることのほうが勇気がいる。

 だが変わらないでいるためにも変わりつづける必要があるのだ。

 なぜなら世界は変わり続けている。時が流れ続けている。そんな世界に「現状維持」などない。

 「変わらない」ことを逃避の手段にしてはいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 こんな記事を何も成し遂げていない人が書いている。

 なんとも滑稽である。

 真に逃避しているのは果たして誰だろうか。

 なんとも愚かである。

 

 この記事を見て一笑に付すことのできる人に私はなりたい。

 

「思惟」からの護身術

 夏休みは時間がある。

 だから無駄に考えて無駄に気分が沈む。

 人は得てして考えるから不幸になる。

 わからぬ未来、漠然たる将来、得体のしれない不安。

 考えるだけでは何も解決しないのに、考えずにはいられない。

 なにか打ち込めるものがあればいいが生憎それもない。

 

 しかし、だからといっていつも考えないというのも問題だろう。

 それもそれで不幸になりかねない。

 「考えるべき時」と「考えるべきでない時」というものが確かにある。

 言い換えるとある事柄と対峙した時、考えたほうが幸せになれるか、考えないほうが幸せになれるか、その事柄を分類するための分水嶺を与えたい。

 

 

 

 考えるべき時、それは「考えるに足る情報を持っている事象を相手にしている時」だと思う。

 これはある意味で「具体的なことを考える時」と言えるかもしれない。

 具体的になればなるほど必要な情報は限定的になる。

 そして「時間的に近い事柄を考える時」とも言える。

 なぜならそのほうが必要な情報が手に入りやすいからだ。

 具体例を挙げると例えば高校3年生の進路。

 自分の成績、大学の情報、過去問。

 考えるのに必要な情報は十分ある。

 

 自分が考えられるだけの状態(資格)である事柄は、私は考えるべきだ。

 

 

 対して考えるべきでない時。

 これは考えるべき時の補集合である。

 そう言ってしまうと質素だが、この補集合を考えると案外大きいことに気づくだろう。

 

 遠い将来、生きがい、何を考えているかわからない他人との人間関係、そして「どうしたら幸せになれるのか」、我々は果たしてこれらを考える資格があるのだろうか。

 

 考える相手はわからないことばかりだ。

 しかしわからなすぎることを考えることは意味があるのだろうか。

 時間があるから考える、なんて軽い気持ちでしていいほど考えるという行為は易しいものではない。

 偉大な思索をするためには偉大な準備が必要なのだ。

 

 

 

 考えることはいい、悩むことはいい、迷うことはいい。

 本当にそうだろうか。

 そんな事を言う人は本当に迷ったことがあるのだろうか。

 少なくとも私はそんなに強くない。

 強くないからこそ、考える相手には慎重でいたい。

 この記事を書いてそう考えることができた。

 

 もし将来の私がなにかに悩んているとしたら、それが本当に悩むべきことなのかを今一度悩んでほしい。

 

 その悩みはきっと「悩み」から私の身を守ってくれる。

 

その闇照らすべからず

 先日母と話していたとき、母が好きな俳優についての噂を私に教えてきた。

 噂の内容については、とても信用できないような下世話なものだったのだが、私はそもそもそんな噂を母がどこで知ったのかが気になった。

 母はSNSなどやっていない。いくら今のテレビでもさすがにやらないような内容だ。

 だから話の内容の是非よりどこでそれを知ったのかをまず聞いた。

 答えは「youtubeのおすすめに出てきた動画のサムネイル」だった。

 私はぞっとした。

 

 

 昔を語れるほど昔を知らないから安易な比較はしないでおくが、絶対的に見ても今の世の中は知りたくもないのに受動的に入ってくる情報が多い。

 ネットに疎い母でも、いや疎いからこそなのか、ネットから多くの情報を受動的に受け取っている。

 この出来事でふと思った。

 情報を安易に持つことは危ういのではないか、と。

 

 

 知らないことは怖い。多くのことを知っているということは見える世界が広がるからいいことだ。

 

 これは間違っていないと思うし私もそう思う。

 やはりたくさんの情報を持っていることは持っていない状態より豊かだとは思う。

 少なくとも情報を持っていることは悪いと思っている人は少ないだろう。

 しかしこの出来事を通してこの考えに固執するのは、盲信するのは良くないと思うようになった。

 ネットの情報を簡単に信じるのは良くないとかそういった情報リテラシーの話をしたいわけではない。

 ただ純粋に情報の海を泳ぐ自分を考えているのだ。

 

 この例では信じるに値しない噂だった。

 これが知らなくてもいい真実だったらどうだろう。

 知らなくても友達の情報だったらどうだろう。

 間違いなく自分が持つ情報量は増える。

 だかこれはいいことなのだろうか。

 その曇りは晴らす必要があるものなのだろうか。

 

 情報量が増えたということは発言者の種類も、情報の大切さ、質も、多様化しているということを忘れてはいけない。

 受け取る側の我々は果たしてその多様化についていけているのだろうか。

 

 

 知るということは安心感を得ることができる。

 なぜなら世界が見えるようになるからだ。

 暗闇の道を歩くのは怖い。明るければ先が見えるから怖くない。懐中電灯があれば安心だ。

 知らないという状態は確かに不安定で脆い状態なのだ。

 ただ、だからこそ、手にする懐中電灯はちゃんとしたものを持つべきだ。

 世界の色を反転させる懐中電灯を持った日には、暗闇よりも危険な状態になる。

 

 今はどういう世界だろうか。

 あちらこちらに情報という名のいろいろな種類の懐中電灯が落ちている。

 正しくそれらの懐中電灯を見極められる人にとっては、最高の世界だろう。

 しかし、残念ながら私はそれを見極められるだけの目を持っているという自信がない。

 だからあえて言いたい。

 

 

 照らせない闇があってもいいじゃないか、と。

 明るすぎる世界も案外不安なものだろう。

 

 

 

 

 

 

 と言っても足元を掬われないくらいの明るさは欲しいが。

 

無題

 これでいいのだろうか。

 

 時々今のままでいいのかと思う時がある。

 自分では現状に満足している。

 家でダラダラ過ごす時間が好きである。

 しかし周りの人々はもっと活動的だ。

 ゴールもレールも違う他人だが、なぜだろう、自分より先を進んでいるような焦燥感に襲われる。

 他人は他人だと思い続けて言い続けた。

 頭ではそう思っても心はそうではないらしい。

 

 自立心と依存心が交錯している。

 自己矛盾の中にいる。

 

 そんな中でも変わろうとは思えない。

 

 

 現状に満足しているのだ。

 これでいいのかと思う心と別にこれでいいだろと思う心が共存している。

 そこになにかしらの不自由さを感じれば現状を改善する気も起きるだろう。

 だが今、なにか不自由なことはあるだろうか。

 何が不足しているだろう。

 

 これでいいのかという漠然とした不安に形を与えてくれるものがない。

 視野が狭すぎて何が足りていないのかすら気づけない。

 見ようとする努力が私には足りていないのだろうか。

 

 見えるものが増えているこの世界で、ひとり盲目でいるような気分でいる。

 

  

知の所在、私の知

 長かったような短かったようなテスト期間が終わった。

 今という時代はなんと便利だろう、テスト範囲の単語を検索するとそれを解説したわかりやすいサイトがたくさん出てくる。

 それらや教科書をテスト前は必死に知識を頭に叩き込んでいた。

 もちろんやっているときはそれに集中していて他のことを考える暇などなかったが、後になってふと思うことがあった。

 

  

 「知らない」という状態はなんだろうか。

 

 今や知らなくても調べれば5秒で答えが出てくる。

 スマホを使えばすぐにでも知っている人と知らない人の間の知識量の差はなくなる。

  掌に全人類の知が乗っている今、「私が何かを知っている」ことの意味は失われたのだろうか。

 

 

 

 そのまま考えるにはあまりに掴みどころがないのでまずは今の自分の経験から考える。

 どういう時知識が役に立ったと言えるだろうか。

 卑近な例だとクイズ番組で普段使いもしない難読漢字を知っていたとき答えられて少し幸せになれる。

 これは間違いなく知っているかどうかの違いのみに依存している例だ。知っていれば答えられる。知らなければ答えられない。

 しかしこれも学校のテストと同じことが言える。

 結局ネットで調べればすぐに出てくる。

 「そんなこと調べればすぐに出てくるよ。」

 そう言われたらそうだねとしか返せない。

 

 だがこれは漢字の読みだからすぐに知ることができた。

 これが物理の問題だったらどうだろうか。

 途中の数式の解き方は出てくるだろう。なんなら動画でわかりやすく出てくるかもしれない。

 しかしそれがどう物理の系にはたらいているかや、そもそもこの物理問題の答えをどう活かすかは非常にパーソナルな問題である。

  ネットの答えはいつでも結果の知識なのだ。

 ハンマーとはなんなのかは詳しく書いてある。使い方も書いている。だが私の人生でどこでどう使うといいかは自分で考えなければいけない。

 難読漢字の知識は言ってみれば「知っているという結果が目的」だ。

 知っていれば知っているという結果を得る。

 だから「そんなこと調べればすぐに出てくるよ。」と言われたらそれまでなのだ。

 結果だけなら今や脳を使わなくれも手のひらの小さな板に詰まってる。

 しかし、多くの知識は知っていることだけでは結果にならない。

 

 

 

 「何か」の全体とはこの世界にある知識の総体だが、これらには「知識の完結度」というべき尺度があるのだ。それらの両端は「内容そのものが結果の知識」と「道具としての知識」と表現できるだろう。

 これはもしかしたらその知識がどれだけ役に立つかと相関があるかもしれない。

 箸の使い方を調べればわかるやろという人は少ないだろう。知っていることより箸を正しく使えることが求められる結果だからだ。

 しかしこれに関しては個人差があまりに大きいので断言は避けたい。

 役に立つかどうかはあくまで未来的だからだ。

 とにかく知識には完結度という指標がある。

 

 

 そしてここから「知っている」という状態も説明できる。

 「知っている」とは「何か」の従属変数なのだ。「何か」が難読漢字の読みなら「知っている」とは単に頭にその読み方が入っているかどうかということになる。これが数式となると数式が解けることよりも数式の活かし方を「知っている」かが重要である。

 

 

 スマホで埋められる差はあくまで知識量の差であって、知恵の差ではないのだ。

   

 

 

 

 データは活かすためにある。活かさないで終わる知識などスマホに置いておけばいい。

 真に知るべき、覚えておくべき知識とは活かせる知識なのだ。知恵なのだ。

 

 

 

 ただひとつ、重大な問題がある。

 我々には知識と知恵を見分けるすべがない。

 だから結局我々は知ることをやめられないでいる。

 

 

 

 

 いや、

 本質的には両者に違いはないのかもしれない。

 

 これは私という視点と今という制限があるからわからない。

 何年後かに難読漢字の知識が私の人生を大きく変えるかもしれない。

 

 それはわからない。

 

 

 果たしてこの答えはネットで知ることができるのだろうか。 

 

脳を耕す

 早くも前期テスト期間が近づき、一般教養から専門科目まで広く勉強している。

 日頃から勉強していればここまで必死にやらなくてもいいのだが、それができない。

 こんな感じで毎年テスト期間が近づくと慌てて大学の勉強をしているわけである。

 

 

 勉強というのはしばしば運動と対比されるが私は同じようなものだと感じている。

 なぜならどちらも人間の体を使ったのという分類ができるからだ。

 運動では競技をやっていなかった期間にブランクという名前が付いている。

 同様に勉強もブランクがあると結構厳しい物がある。

 やはり知識を忘れるという点が大きい。

 覚えなおせばいいと思っていしまうがこれが難しい。

 数学なら数学の、科学なら科学の脳(考え方)を忘れてしまうのだ。

 勉強のブランクはこの脳を失う危険がある。

 そうなると1から脳を作っていかないといけなくなる。

 当然初学よりは早く回復できるが、初学ではないという驕りから学習が浅くなりがちであるように感じる。

 ブランクは脳という畑を放置するに等しい。

 それを再び畑にするためには案外時間がかかる。

 

 

 

 そしてもうひとつ重要なことがある。

 ブランクというのは言わば縦の視点である。時間という縦の軸を考えている。

 それならば横の軸も見る必要がある。

 つまり科目間の脳である。脳の幅と言ってもいいだろう。

 

 私はこちらの視点のほうが大切だと思う。

 理由はこの横軸は無限だからである。

 時間という軸は2つの意味で有限と言える。

 1つは人生が有限であるという意味。もう1つは時間というものが私固有の視点であるという意味。

 しかし科目は無限である。

 そもそも世界には科目なんて区切りは存在しない。

 世界のすべては有機的に絡み合って、1であり無限大である。

 だから我々の学びというのは、「無限」の世界を「有限」の私的世界に取り込むことと言える。

 つまり、有限で無限と対峙しなければいけない。

 そのためには何が必要だろうか。どういう準備をしておくべきだろうか。

 

 私は「脳を常に耕しておく」必要があると思う。

 

 結局私が知れることなんて有限なのだが、有限でも、いや、有限だからこそ大小がある。

 知識が多ければいいというわけではないのはわかる。

 知識を持つことと活かすことは別問題である。(いずれこれについても触れたい)

 しかし知識を持っていないと始まらないのは事実である。

 たくさん武器を持っていても手は2つしかないので使いこなせる武器を持っていないと意味はないが、丸腰でいるのは論外である。

 「知っているだけでは意味がないよ」と言えるのはたくさん知っている人だけである。

 故に私は常に学べる姿勢でいることが重要であると思う。

 そのためには脳を耕すことを止めてはいけない。

 知らないことに相対した時、知らないことに遭遇することに慣れていないといけない。

 そうすれな知らないの程度が大きくなっても(横軸の幅が大きくなっても)対応できる。

 未知になれるために既知を深める、つまり今ある脳を耕すことが大切なのである。

 

 

 

 大学の勉強をしているとふと思うのだ。

 この勉強がなんの役に立つんだよと。

 

 でも、きっと勉強の内容はさほど重要ではない。

 大学は何かを学ぶ姿勢を学ぶ場所なのだろう。

 

 学びの軽視は未知への軽視に繋がる。そして自分の取り巻く環境を、現状を軽視する。

 そういう人は軽視されるような人間になるだろう。 

歴史の面白さ

 これまでの人生、理系ぶっていたのであまり歴史を真剣に学ぶ機会がなかった。

 そもそも理系に関係なく歴史を学ぶモチベーションがなかった。

 しかし二十数年生きてみてようやく歴史を学ぶ意味がわかった気がしたのでメモを残す。

 

 

 「歴史を学ぶ」とは「経験せずして失敗を知る」ことなのだ。

 私は歴史を学ぶことを人類の失敗例を抽出する行為だと思っている。

 もちろん成功例もある。

 しかしそれらは真に歴史とは言えないと思っている。

 

 ここで自然言語を厳格に定義するのは愚行だと思うが、私の歴史の定義を言いたい。

 歴史とは過去の出来事の集合であるが、全ての過去の出来事ではなく現在と切り離された(切り離されるべきだと思われている)出来事を指していると考えている。

 具体例で説明する。

 なにかの災害を考える。

 その災害に被災して今も仮設住宅などに住んでいる人にとってはそその災害は歴史とは言えない。

 しかし、直接被災していない人にとってはその災害は一時的な出来事でありすでに歴史の中にある。

 つまり現在視点での有り様で過去の出来事は歴史にも始まりにもなる。

 

 

 これらの考えを前提に成功の歴史を考える。

 そう考えると成功の歴史というのがそもそもおかしく感じられるのではなかろうか。

 現在視点で成功と捉えられている時点で、その過去の出来事は現在の開始時点であるだけでまだ歴史にはなっていない。

 歴史の大前提、既に完了していることに反している。

 これにより私は歴史を失敗例(現在視点で完了している出来事)の総体と捉えることにした。

 

 

 

 そう捉えると歴史の面白さが途端に判然とした。

 言ってしまえば人類のNG集なのだ。

 こうすれば失敗すると教えてくれる、こうすると不幸な結末になると伝えてくれる。

 人生という無限の選択肢のうち、取るべきでない選択肢を身をもって過去の人々は教えてくれているのだ。

 

 これが面白くないわけがない。

 どんなテレビ番組のお役立ち情報より役に立つ。

 

 

 

 

 

 私の歴史の定義と異なる考え方の人もいると思う。

 私が私の歴史を増やす過程でこの考えが変わるかもしれない。

 いずれこんな考え方も私の中で歴史になるかもしれない。

 それでも今はこの視点で歴史を楽しみたい。

 

 

 なぜなら歴史は往くべき選択肢は教えてくれないが、往かざるべき選択肢は教えてくれるから。

 

 今のうちに考え方の「歴史」を増やすのも悪くないだろう。

 

既知への帰着

 自分の知らない言語、例えば私の場合フランス語で書かれた文を読もうと思った時、当然自分の知っている言語、つまり日本語に翻訳しなければ理解することはできない。

 つまり「未知の言語」を「既知の言語」に帰着しているということになる。

 人は知っていることよりも知らないことのほうが多い。

 だからこの「既知への帰着」ということは日常半ば無意識的に行っている。

 

 この「既知への帰着」という行為についての反省が今回の記事の主題である。

 そのためには「既知への帰着」という行為自体をまずは考えたい。

 既知への帰着自体は未知に対しての正当なアプローチだということは疑いようもない。

 掛け算を習うときはすでに習った足し算に帰着して教わった。

 英語の授業をスペイン語で行う学校は一般の日本の学校ではない。

 未知を取り込むためには既知による説明がいるのは自明であろう。

 一般に未知に対するアプローチとして既知への帰着は正攻法だ。

 

 

 しかし既知への帰着はもっと悲観的に捉えるべきだというのが今回の反省なのだ。

 つまり未知へのアプローチは既知への帰着“でしかできない”のだ。

 翻訳された本をよんだことのある人は同じようなことを思ったことがあるかもしれない。

 我々が翻訳された本を読むというのは、翻訳された本を読まざるを得ないという悲しい現実なのだ。

 もちろんその言語を勉強すればいいだけだという意見は尤もだ。これはあくまで一例である。

 しかし世界には翻訳できない言語を使う異国というものがある。

 それが「他者」だ。

 

 私達は他人を知ろうとするときどうしても自分の世界のルールや言語に帰着して考えざるを得ない。

 なぜなら私から見て他人はどこまでも未知であり、私の既知は私を超えることはないからだ。

 しかしこれはとても危険である。

 あまりにも文法が違って自分の言語に帰着できない他人というのは確かに存在するからだ。

 それでも、それでもなお私達はそういう他人に対するアプローチに際して「既知への帰着」という行為に頼らざるを得ない。

 なんと悲しいことだろうか。

 なんと危ういことだろうか。

 いつでも他人の考えが私の言語に翻訳できるものとも限らないのに。

 

 

 「既知への帰着」の危うさを知りながらも「既知への帰着」に頼らなければならないというのが人間なのである。

 知りえないことを知らないで済ませてくれないのが社会なのである。

 

 どうしても「既知への帰着」という行為に頼らければいけない私はどうすればいいのだろうか。

 それは「既知」を増やすしかないだろう。

 

 他者を正しく捉えるにはまず自分が正しくあらねばならない。

 

世界画一化仮説

 今の社会は多様化していると思いますか?

 

 若い女性の間ではタピオカというものが流行っているという。

 聞くところによると何時間も並んで買うらしい。

 そんなに美味しいのかと気になる気持ちもあるが、どうやら彼女らは美味しかどうかが問題ではないらしい。

 とにかく今みんなが飲んでいるからという理由が大きいという。

 

 なんとなくその気持ちはわかる。

 行列のできている店が気になる現象は私も心当たりがある。

 人間の心理的なものがあるのだろう。

 しかしこれらを自覚している人はどれだけいるのだろうか。

 

 

 

 私がなぜこの話を取り上げたかというと、タピオカの流行は今の世界の状態と人間の心理を実に端的に表していると感じたからだ。

 今、簡単に手に入る情報はインターネットない頃の何倍あるだろうか考えたことはあるだろうか。

 間違いなく爆発的に増えている。

 世界の情報量の総量は同じだと仮定しても、手が届く情報の量は間違いなく数十倍に増えた。

 要するに我々は昔より取りうる選択肢が増えたのだ。

 自分の町内のラーメン屋しか知らなかった頃はもう終わり、今や行ったことのない県のラーメン屋の情報もものの数秒で手に入る。

 明らかに取りうる選択肢は増えた。

 選択肢は多様化したのだ。

 

 

 だが今を生きる人々の行動はどうだろうか。

 そこに多様化は見られるだろうか。

 今の人々の行動は言うなれば、行ったことのない県のラーメン屋に皆が殺到している状態だ。

 カレーでも定食でもうな重でも、美味しい店は同様に調べればすぐ手に入る。

 それでもみんながラーメンを食べるために何時間も並んでいる。

 さらにその状態を受け入れている。

 みんなと一緒の状態に心地よさすら感じているのだ。

 これは非常に面白い状態ではないか?

 選択肢の増加の先に待っていたのは人間の画一化であったのだ。

 

 

 

 私はここで仮説を唱えたい。

 

 「人が取りうる選択肢の数と実際に人が選ぶ選択肢の多様性は反比例する。」

 

 これはとても興味深いと思う。

 人というのは根本で天邪鬼なのだ。

 親に勉強しろと言われた瞬間勉強する気がなくなるように、多くの選択肢から選んでいいと言われると人は選択しなくなるのだ。

 

 

 この仮説を今のグローバル社会に当てはめると更に面白いことが言える。

 つまり、全世界という選択肢の急増が逆に自国への束縛になるのではということだ。

 グローバル化は多様性の呈示によって画一化を生む可能性があるということだ。

 きっとグローバル化が進めば進むほどナショナリズムは強くなるだろう。

 その時人々は皮肉にもこう言うかもしれない。

 「グローバル化による世界の画一化に抗わなければならない。」と。

 

 

 グローバル化については仮説による仮説なので一笑に付してもらって構わない。

 しかし、この「情報量増大による世界画一化」は案外人間心理の正鵠を射る部分があると思う。

 人間という生き物は「取れる選択肢の種類」と「実際に自分で選ぶ選択肢の種類が一致しないのだ。

 

 これはあくまで仮説である。ただの私の感想だ。

 それでも最後にもう一度問いたい。

 

 

 

 今の社会は多様化していると思いますか?

「わかりやすい」とはいいことなのか

 先日久しぶりに梅田の駅に行くと案内板が増えていて驚いた。

 昔は梅田ダンジョンの異名通り、目的の出口に出るだけで一苦労だった。

 それが今では行きたい場所へあっという間に行ける。

 なんともわかりやすくなっていた。

 

 

 しかし、なぜだろう、わかりやすくなって良くなったはずの梅田駅が寂しく感じられた。

 

 

 

 

 最近日本はわかりやすすぎないかと思う。

 本は文字が大きくなり、参考書は図が増え、サイトは大文字や色のついた文字が多用されている。

 実にわかりやすい。作者の言いたいことがすぐにわかる。

 ただそれは本当にいいことなのだろうか。

 

 

 これは私の感想なのだが、どうも今の情報媒体は何かを伝えることに必死だと感じる。

 直接的な言葉や技法で、自分の伝えたいことを言い過ぎていると思う。

 例えるなら、絵画の下に「この絵は〜を表現するために書かれた絵です。そのためにはxxの距離からyyの角度で見てください」と書いてあるような感じだろうか。

 別に悪いことではないだろうし、そもそも私が勝手に感じているだけのたわ言である。

 だが、どうしてもいろいろな媒体から聞こえてくるのだ。

 作者からの模範解答が。

 

 これもまた決して悪いことではないし、おそらく言わされているのだろうが、スポーツ選手の「皆さんを感動させられるようなプレーをします」みたいな挨拶も私は変に思う。

 こちらはあなたのプレーを勝手に見ているだけだ。

 そしてスポーツ選手も実際のところ勝つために(私とは無関係に)プレーしている。

 なぜ感動させるためになんて言うのだろうか。

 お互い自由にプレーしたり感動したりでいいではないか。

 

 つまるところ、最近「自分勝手さ」を許さない風潮があるのだろう。

 いや、「自分勝手」が許されないというより「わかりにくいもの」が受け入れられないという方が正確かもしれない。

 情報の即時性が至上とされる今、わかりにくさは悪なのかもしれない。

 わかりにくさ、わからない状態、迷う時間、深読みする時間。

 これらは過去の遺物なのかもしれない。

 

 

 

 きっとわかりやすいことはいい。間違いなく悪ではない。

 わかりやすいとは短絡だ。

 いい意味でも悪い意味でもそこに受け取る側の自由がない。

 迷う余地がない。

 だからわかりやすい。

 

 だが、わかりにくいことは果たして悪なのだろうか。

 本を読む時くらい、スポーツを見る時くらい、私は迷いたい。

 表現者というダンジョンに迷うことも悪くないとどうしても思ってしまう。

 迷った末に意図せぬ出口に出てしまうくらいの自由があっても面白いのではないか、そう思ってしまう。

 

 

 こんな私は平成時代の考え方なのだろうか。

 

 

数学は考え方の学問である

 私は理系の大学生だが数学が苦手である。

 世間一般ではおそらくできる方なのだろうが、いかんせん通っている大学が大学なのですぐに授業についていけなくなる。

 なにより授業が楽しくない。

 謎の文字が踊る数式をいじくりまわして謎の計算結果が出てくる様を楽しむすべがない。

 こんな数式いつ使うんだとか計算ゴリゴリやって何が面白んだとかどうしても考えてしまう。

 だから数式を嬉々として解いている人とはそりが合う気がしない。

 

 

 しかし「数学的な考え方」の素晴らしさは敬服している。

 定理の証明には一分の隙もない。誰も文句のつけようがないほどの完璧。導出の様は芸術であるような定理や証明もある。

 感性は人それぞれだが、完全性は確かにある。

 その完全性はどこに起因しているのだろうかと考えてみると、小学校から算数として数学を習う意味がわかった気がした。

 

 

 主張には根拠が要る。

 

 

 この1文の強制力を、大切さを、絶対性を教えてくれるのが数学なのだ。

 我々は生まれながらにして脳という工具箱を持っている。生まれた時は空っぽだが、次第に言語という強力な道具を獲得する。(ここでの言語は脳内で思考するために使用される言語を主に指している)

 しかし言語自体は使い方を教えてくれない。日常から得る情報で「使われ方」は学ぶが「使い方」は教わらない。

 そこで言語の使い方を指南してくれる科目が必要になってくる。

 その側面が特に強いのが「国語」と「数学」なのだ。

 他の科目も因果関係は登場する。その中でも特に「因果関係の絶対必要性」を教えてくれるのは数学と国語なのだ。

 一見まるで対照的な科目に見えるかもしれないが実はどちらも似たようなことを授業で行っている。

 国語は「書物の中でどのように因果関係が潜んでいるか、日本語を用いて読み解くやり方を教える科目」である。

 対して数学は「定理の必然性を他の定理と定義を用いて示す方法を教える科目」である。

 

 どうだろうか。

 媒体となる言語が違うだけでどちらも主張には必然性があるということを教えているのだ。

 「今日は晴れている。だからAさんは死んだ。」と書いてあったらなぜ?となるし「3足す6は5である定理」があったら根拠は?となるだろう。

 これらの科目は常に根拠を探している。必然性を要請しているのだ。

 数字でも日本語でも、なにかを主張するとき、何かの結論に至った時には理由がいるのだ。

 それを論理的に説明できて初めて主張は主張たりえる。

 それが言語を使う人間に与えられた義務なのだ。

 

 だから私は「他人に発表する主張には不必要な感情を排斥する必要がある」を言いたい。

 数学には感情がないし必要でもない。

 小説の登場人物の動機が「なんとなくそういう感情だったから」だったら興醒めである。

 感情は説明できない。感情は個人の世界の中の必然性でしかない。

 もちろん日々の生活から感情をなくすことはできないしする必要もない。

 ただ「他人」に「主張」するなら感情はあってはならない。

 感情は個人の世界のルールなのだ。

 主張に感情が混ざるとそれは感想になる。

 

 

 主張にはたくさんの根拠がいる。

 そこに個人の感情を挟む余裕はない。

 

 何かを主張するとき、何かを考え結論を出そうとするとき、その時の材料を国語から学び、フォーマットを数学から学ばなければならない。

 人はそれを説得力と呼ぶ。

 

  

先人の足跡をたどる

 大学に入るとまとまった自由時間ができる。

 おかげで多少は新しいことをやろうという気分になる。

 だから現代っ子のテレビっ子の私も本を読もうと思う機会が増えた。

 そんなことでまだ読書歴の浅い私なのだが、本の大切さに気づいたのでメモを残しておく。 

 

 悩みが解決しない時は本に頼ったほうがいい。

 

 私達は所詮人生1回目だ。

 しかもたかだか数十年しか人間をやったことがない。

 そう考えると自分の脳だけですべてを賄おうというのはあまりに危険だと思えてくるだろう。

 

 私ごときの悩みや思考など先人がとっくの昔に考えていることが多い。しかも私より深く考え尽くしている。

 だからこそ本にはできるだけ多く触れたほうがいい。

 そこにはきっと人生のヒントがある。

 

 

 おそらく多くの人にとってはこの記事は当たり前のことを言っている滑稽なものだろう。

 だが忙しい時ほど本は読まなくなる。

 私は特に意識しないと読まないだろう。

 だから未来の自分に向けてメモを残しておく。

 

 

 本は読んだほうがいい。

 名著は人生のナビになりうるだろう。

 

 

 

 

 それともうひとつ、

 自身の無知を晒したくなければ、本が嫌いと自称しないほうがいい。

 

私、家族、友達、他人

 『私と私以外の話』の記事で「他人とはなにか」、『お箸のお話』の記事で「他人をどう見ているか/他人にどう見られているか」をどう考えているかをまとめた。 

 今回は他人観の結「私にとって他人とは何か」について考えをまとめたい。

 

 まずは「他人」の幅を明言しておきたい。

 私は常に「私以外他人」と思っている。きっとこの考えはこれまで私のブログを読んでくれている人はわかると思う。

 私以外他人。文字だけでは当たり前のことを行っているだけに思える。

 まあ当たり前のことなのだが、この事実を「常に」忘れないよう意識している人はそう多くないだろう。

 言われれば当たり前、でも言われないと考えない。

 このあたりの事実は往々にして見落とされがちである。

 実際、この事実を理解していない人はおそらく世界中に一人もいないはずなのに日々仲違いや喧嘩や口論が発生している。

 本当にわかっているならこれらは起こるはずがない。

 他人は他人だ。どうして私の考えが共有できよう。

 

 だが人々はそうしない。他人は他人とわかっておきながら私と違いをすっと受け入れられない。

 なぜだろう。

 

 相手に期待しているからだ。

 

 「どうして私のことがわかってくれないの」の裏には「この程度のことくらいわかるでしょ」が潜んでいる。

 喧嘩するほど仲がいいというが、きっとそこには「お前には俺のことを理解していてほしい」という気持ちがある。

 どうでもいい相手なら喧嘩しない。

 結局人は人に頼り、期待し、安心したい生き物なのだ。

 

 もちろんこれらを馬鹿にする意図はない。むしろ健全な生き方だと思う。

 しかし残念ながら私はそういう人とは出会えなかった。

 この人にはわかってほしいという人がいないのだ。

 だからこう考えてしまうのだ。

 「俺のことは俺がわかればいい。」と。

 

 共感を諦めた世界には私一人が立っていた。

 

 その結果「私以外は私ではない他人である」という気持ちが人一倍強いようだ。

 これまた残念なことに現状はこれでいいと思っている。

 今を悪と感じていない人に改善は訪れない。

 

 だがこれも結構メリットがある。今や私だけに向けたブログではないだろうから明文化しておく。

 それは無駄な争いはなくなるということだ。

 他人への過度な期待は裏切りになり諍いになる。

 勝手に期待しておいて勝手に裏切られているだけなのだが、この性癖は心当たりがあるのではなかろうか。(関連『他人に期待するなかれ』)

 人の行動は突き詰めれば損得勘定に基本すべて帰結できると思っている。

 誰かと話すのも、話すのが楽しいと自分の気分が良くなるという得があって行われる。

 そんなことないという人も、一度「話していてつまらない人」というのを考えてみれば私が言う意味での損得がわかると思う。

 「話していてつまらない人」と話さない理由はつまらないという損をするからだ。

 すべての行動は意思に基づく。意思は感情に基づく。感情は自分の心だ。自分の損得を考えるのは当然だろう。

 損得を越えた献身があるとしたら、それを人は愛と呼ぶのかもしれないがまだ私にはわからないので触れないでおくことにする。

 要するに損得が期待を呼び裏切りを生む可能性があるということだ。

 

 

 ただ、私は思うのだ。

 多くの人はこんなこと考えない。

 もしかしたら私はひとりに慣れすぎたのかもしれない。

 もしかしたら私は他人を知らなさすぎるのかもしれない。

 

 

 私は他人を知らずに他人を語っていたようだ。

 私と他人の境界まで来て二の足を踏んでいるらしい。

 これでは偉そうなことは言えない。

 

 だから長々と話してきた他人観は不格好だがこう締めくくりたい。

  

 

 いつか私は「私」でも「他人」でもない人に出会えるのだろうか。

 

お箸のお話

 前回は私の他人観についてまとめた。

 つまり私が他人をどう考えているか、についてまとめた。

 しかし偉そうに他人を語る以上、前回の記事だけでは不十分にすぎる。

 「他人」がものであれば前回で十分であったかもしれないが実際は違う。

 

 そう、相手も人間なのだ。

 要するに「私」も「他人」にとっては「他人」なのである。

 こうなってくると「私から見る他人」だけでは不十分だ。

 他人がみる私と私が見る他人の相互の関係、見え方、関わり方についても考える必要がある。

 今日はこの関係、つまり「相互の見方・接し方・考え方」を重点に考えていきたい。

 

 

 まずは「相手が私をどう見ているか。」を考えたい。

 だが、これに関しては『世界の交差』の記事で書いた考えが私の底流にあるので詳しくは当記事を参照してほしいのだがそれではまとめにならない。

 端的に言うと「私が見ている他人というのは『私が結んだ他人の像』である。だから私が他人を考えようとしてもそれは結局『私が考える他人』を越えることはできない。」という考えである。

 この考えの元「相手が私をどう見ているか。」を考える。

 

 はたして考えることに意味があるのだろうか。

 

 そう。「他人の考え」を考えることは無意味なのだ。

 

 想像することもできる。考えることもできる。

 しかしそれは結局「自分の世界」で「他者の世界」を想像しているだけなのだ。

 

 

 

 

 いやいや。相手を考えることが無意味なはずがない。

 相手を慮ることが共同体の基本理念ではないのか。

 

 その通り、無意味ではない。

 私はあえて前提を隠して論を展開した。

 

 上記の考えはあくまで「私」という個人単位で、孤独論の元考えられたとてもミクロで自分勝手な考え方だ。

 前回同様「社会に属する私」という前提で同じものを考える必要がある。

 

 

 社会という共同体にいるならば、相手を想像することは無意識的にしていると言ってもいい。当然私もしている。

 だから相手が私をどう見ているか考えることは大いに有意義なことだ。

 だがいきなり相手の見え方を考えるのは難しい。

 となると実はもうひとつの議題「自分が相手をどう見ているか」を考える必要がここで出てくる。

 自分の相手の見え方から相手の自分の見え方を演繹するのが自然だろう。(ここにも他者の思考の不可侵性があると感じられる。)

 

 私が相手を、いい言い方をすれば知ろうと、悪い言い方をすれば品定めしているか考えてみた。

 実はそれを考えさせられるいいきっかけが今日あった。

 ネットのある書き込みで箸の持ち方などの躾に意味があるのかというのが話題になった。

 躾の代表格といってもいい箸の持ち方。

 これを子供にしつける意味は本当にあるのか改めて考えさせられた。

 

 誰もが子供の頃思うだろう。私はその経験がある。

 箸の持ち方だの座り方だの親にしつけられた。

 

 こんなのなんの意味があるんだ、『こんなこと』どうでもいいじゃないか、そう思っていた時期は決して短くなかった。

 

 

 しかし、今はちゃんとしつけられてよかったと親に感謝している。

 なぜなら箸の持ち方はまさに「相手が私をどう見ているか。」に使われるパラメーターだからだ。

 確かにどうでもいいことには変わりないのだ。

 相手の箸の持ち方座り方食べ方で自分の体調が悪くなるわけでもない。

 

 だが、見ていて気分がよくないと感じる人は少なくないだろう。

 気分が悪くならない人も昔しつけを受けていた人はきっと心のどこかでこう感じる。

 

 

 

 

 「『こんなことも』もちゃんとできないのか。」 と。

 

 

 

 

 

 他人の思考・感覚を正確に想像することは不可能である。しかしだからといって傍若無人に振舞っていいわけでもない。

 なぜなら社会では相手は少ない情報から相手を知ろうと品定めしているからだ。

 その情報とはなんだろうか。

 そう、口調・礼儀・所作だ。

 悲しいことに人間性はこういった細かい行為にどうしても現れる。

 そして人はそれを他人の判断材料にする。

 

 だが、一応言っておくが私はこういうマナーとかしつけを盲信しろと言いたいわけではない。

 その人がマナーの何たるか、なぜしつけが存在するかを理解したうえなら箸を3本使おうがその人の自由だ。

 ただここは私のブログなのでこう言い切りたい。

 

 不躾は損をする。