とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

世界画一化仮説

 今の社会は多様化していると思いますか?

 

 若い女性の間ではタピオカというものが流行っているという。

 聞くところによると何時間も並んで買うらしい。

 そんなに美味しいのかと気になる気持ちもあるが、どうやら彼女らは美味しかどうかが問題ではないらしい。

 とにかく今みんなが飲んでいるからという理由が大きいという。

 

 なんとなくその気持ちはわかる。

 行列のできている店が気になる現象は私も心当たりがある。

 人間の心理的なものがあるのだろう。

 しかしこれらを自覚している人はどれだけいるのだろうか。

 

 

 

 私がなぜこの話を取り上げたかというと、タピオカの流行は今の世界の状態と人間の心理を実に端的に表していると感じたからだ。

 今、簡単に手に入る情報はインターネットない頃の何倍あるだろうか考えたことはあるだろうか。

 間違いなく爆発的に増えている。

 世界の情報量の総量は同じだと仮定しても、手が届く情報の量は間違いなく数十倍に増えた。

 要するに我々は昔より取りうる選択肢が増えたのだ。

 自分の町内のラーメン屋しか知らなかった頃はもう終わり、今や行ったことのない県のラーメン屋の情報もものの数秒で手に入る。

 明らかに取りうる選択肢は増えた。

 選択肢は多様化したのだ。

 

 

 だが今を生きる人々の行動はどうだろうか。

 そこに多様化は見られるだろうか。

 今の人々の行動は言うなれば、行ったことのない県のラーメン屋に皆が殺到している状態だ。

 カレーでも定食でもうな重でも、美味しい店は同様に調べればすぐ手に入る。

 それでもみんながラーメンを食べるために何時間も並んでいる。

 さらにその状態を受け入れている。

 みんなと一緒の状態に心地よさすら感じているのだ。

 これは非常に面白い状態ではないか?

 選択肢の増加の先に待っていたのは人間の画一化であったのだ。

 

 

 

 私はここで仮説を唱えたい。

 

 「人が取りうる選択肢の数と実際に人が選ぶ選択肢の多様性は反比例する。」

 

 これはとても興味深いと思う。

 人というのは根本で天邪鬼なのだ。

 親に勉強しろと言われた瞬間勉強する気がなくなるように、多くの選択肢から選んでいいと言われると人は選択しなくなるのだ。

 

 

 この仮説を今のグローバル社会に当てはめると更に面白いことが言える。

 つまり、全世界という選択肢の急増が逆に自国への束縛になるのではということだ。

 グローバル化は多様性の呈示によって画一化を生む可能性があるということだ。

 きっとグローバル化が進めば進むほどナショナリズムは強くなるだろう。

 その時人々は皮肉にもこう言うかもしれない。

 「グローバル化による世界の画一化に抗わなければならない。」と。

 

 

 グローバル化については仮説による仮説なので一笑に付してもらって構わない。

 しかし、この「情報量増大による世界画一化」は案外人間心理の正鵠を射る部分があると思う。

 人間という生き物は「取れる選択肢の種類」と「実際に自分で選ぶ選択肢の種類が一致しないのだ。

 

 これはあくまで仮説である。ただの私の感想だ。

 それでも最後にもう一度問いたい。

 

 

 

 今の社会は多様化していると思いますか?