とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

その闇照らすべからず

 先日母と話していたとき、母が好きな俳優についての噂を私に教えてきた。

 噂の内容については、とても信用できないような下世話なものだったのだが、私はそもそもそんな噂を母がどこで知ったのかが気になった。

 母はSNSなどやっていない。いくら今のテレビでもさすがにやらないような内容だ。

 だから話の内容の是非よりどこでそれを知ったのかをまず聞いた。

 答えは「youtubeのおすすめに出てきた動画のサムネイル」だった。

 私はぞっとした。

 

 

 昔を語れるほど昔を知らないから安易な比較はしないでおくが、絶対的に見ても今の世の中は知りたくもないのに受動的に入ってくる情報が多い。

 ネットに疎い母でも、いや疎いからこそなのか、ネットから多くの情報を受動的に受け取っている。

 この出来事でふと思った。

 情報を安易に持つことは危ういのではないか、と。

 

 

 知らないことは怖い。多くのことを知っているということは見える世界が広がるからいいことだ。

 

 これは間違っていないと思うし私もそう思う。

 やはりたくさんの情報を持っていることは持っていない状態より豊かだとは思う。

 少なくとも情報を持っていることは悪いと思っている人は少ないだろう。

 しかしこの出来事を通してこの考えに固執するのは、盲信するのは良くないと思うようになった。

 ネットの情報を簡単に信じるのは良くないとかそういった情報リテラシーの話をしたいわけではない。

 ただ純粋に情報の海を泳ぐ自分を考えているのだ。

 

 この例では信じるに値しない噂だった。

 これが知らなくてもいい真実だったらどうだろう。

 知らなくても友達の情報だったらどうだろう。

 間違いなく自分が持つ情報量は増える。

 だかこれはいいことなのだろうか。

 その曇りは晴らす必要があるものなのだろうか。

 

 情報量が増えたということは発言者の種類も、情報の大切さ、質も、多様化しているということを忘れてはいけない。

 受け取る側の我々は果たしてその多様化についていけているのだろうか。

 

 

 知るということは安心感を得ることができる。

 なぜなら世界が見えるようになるからだ。

 暗闇の道を歩くのは怖い。明るければ先が見えるから怖くない。懐中電灯があれば安心だ。

 知らないという状態は確かに不安定で脆い状態なのだ。

 ただ、だからこそ、手にする懐中電灯はちゃんとしたものを持つべきだ。

 世界の色を反転させる懐中電灯を持った日には、暗闇よりも危険な状態になる。

 

 今はどういう世界だろうか。

 あちらこちらに情報という名のいろいろな種類の懐中電灯が落ちている。

 正しくそれらの懐中電灯を見極められる人にとっては、最高の世界だろう。

 しかし、残念ながら私はそれを見極められるだけの目を持っているという自信がない。

 だからあえて言いたい。

 

 

 照らせない闇があってもいいじゃないか、と。

 明るすぎる世界も案外不安なものだろう。

 

 

 

 

 

 

 と言っても足元を掬われないくらいの明るさは欲しいが。