お箸のお話
前回は私の他人観についてまとめた。
つまり私が他人をどう考えているか、についてまとめた。
しかし偉そうに他人を語る以上、前回の記事だけでは不十分にすぎる。
「他人」がものであれば前回で十分であったかもしれないが実際は違う。
そう、相手も人間なのだ。
要するに「私」も「他人」にとっては「他人」なのである。
こうなってくると「私から見る他人」だけでは不十分だ。
他人がみる私と私が見る他人の相互の関係、見え方、関わり方についても考える必要がある。
今日はこの関係、つまり「相互の見方・接し方・考え方」を重点に考えていきたい。
まずは「相手が私をどう見ているか。」を考えたい。
だが、これに関しては『世界の交差』の記事で書いた考えが私の底流にあるので詳しくは当記事を参照してほしいのだがそれではまとめにならない。
端的に言うと「私が見ている他人というのは『私が結んだ他人の像』である。だから私が他人を考えようとしてもそれは結局『私が考える他人』を越えることはできない。」という考えである。
この考えの元「相手が私をどう見ているか。」を考える。
はたして考えることに意味があるのだろうか。
そう。「他人の考え」を考えることは無意味なのだ。
想像することもできる。考えることもできる。
しかしそれは結局「自分の世界」で「他者の世界」を想像しているだけなのだ。
いやいや。相手を考えることが無意味なはずがない。
相手を慮ることが共同体の基本理念ではないのか。
その通り、無意味ではない。
私はあえて前提を隠して論を展開した。
上記の考えはあくまで「私」という個人単位で、孤独論の元考えられたとてもミクロで自分勝手な考え方だ。
前回同様「社会に属する私」という前提で同じものを考える必要がある。
社会という共同体にいるならば、相手を想像することは無意識的にしていると言ってもいい。当然私もしている。
だから相手が私をどう見ているか考えることは大いに有意義なことだ。
だがいきなり相手の見え方を考えるのは難しい。
となると実はもうひとつの議題「自分が相手をどう見ているか」を考える必要がここで出てくる。
自分の相手の見え方から相手の自分の見え方を演繹するのが自然だろう。(ここにも他者の思考の不可侵性があると感じられる。)
私が相手を、いい言い方をすれば知ろうと、悪い言い方をすれば品定めしているか考えてみた。
実はそれを考えさせられるいいきっかけが今日あった。
ネットのある書き込みで箸の持ち方などの躾に意味があるのかというのが話題になった。
躾の代表格といってもいい箸の持ち方。
これを子供にしつける意味は本当にあるのか改めて考えさせられた。
誰もが子供の頃思うだろう。私はその経験がある。
箸の持ち方だの座り方だの親にしつけられた。
こんなのなんの意味があるんだ、『こんなこと』どうでもいいじゃないか、そう思っていた時期は決して短くなかった。
しかし、今はちゃんとしつけられてよかったと親に感謝している。
なぜなら箸の持ち方はまさに「相手が私をどう見ているか。」に使われるパラメーターだからだ。
確かにどうでもいいことには変わりないのだ。
相手の箸の持ち方座り方食べ方で自分の体調が悪くなるわけでもない。
だが、見ていて気分がよくないと感じる人は少なくないだろう。
気分が悪くならない人も昔しつけを受けていた人はきっと心のどこかでこう感じる。
「『こんなことも』もちゃんとできないのか。」 と。
他人の思考・感覚を正確に想像することは不可能である。しかしだからといって傍若無人に振舞っていいわけでもない。
なぜなら社会では相手は少ない情報から相手を知ろうと品定めしているからだ。
その情報とはなんだろうか。
そう、口調・礼儀・所作だ。
悲しいことに人間性はこういった細かい行為にどうしても現れる。
そして人はそれを他人の判断材料にする。
だが、一応言っておくが私はこういうマナーとかしつけを盲信しろと言いたいわけではない。
その人がマナーの何たるか、なぜしつけが存在するかを理解したうえなら箸を3本使おうがその人の自由だ。
ただここは私のブログなのでこう言い切りたい。
不躾は損をする。