私、家族、友達、他人
『私と私以外の話』の記事で「他人とはなにか」、『お箸のお話』の記事で「他人をどう見ているか/他人にどう見られているか」をどう考えているかをまとめた。
今回は他人観の結「私にとって他人とは何か」について考えをまとめたい。
まずは「他人」の幅を明言しておきたい。
私は常に「私以外他人」と思っている。きっとこの考えはこれまで私のブログを読んでくれている人はわかると思う。
私以外他人。文字だけでは当たり前のことを行っているだけに思える。
まあ当たり前のことなのだが、この事実を「常に」忘れないよう意識している人はそう多くないだろう。
言われれば当たり前、でも言われないと考えない。
このあたりの事実は往々にして見落とされがちである。
実際、この事実を理解していない人はおそらく世界中に一人もいないはずなのに日々仲違いや喧嘩や口論が発生している。
本当にわかっているならこれらは起こるはずがない。
他人は他人だ。どうして私の考えが共有できよう。
だが人々はそうしない。他人は他人とわかっておきながら私と違いをすっと受け入れられない。
なぜだろう。
相手に期待しているからだ。
「どうして私のことがわかってくれないの」の裏には「この程度のことくらいわかるでしょ」が潜んでいる。
喧嘩するほど仲がいいというが、きっとそこには「お前には俺のことを理解していてほしい」という気持ちがある。
どうでもいい相手なら喧嘩しない。
結局人は人に頼り、期待し、安心したい生き物なのだ。
もちろんこれらを馬鹿にする意図はない。むしろ健全な生き方だと思う。
しかし残念ながら私はそういう人とは出会えなかった。
この人にはわかってほしいという人がいないのだ。
だからこう考えてしまうのだ。
「俺のことは俺がわかればいい。」と。
共感を諦めた世界には私一人が立っていた。
その結果「私以外は私ではない他人である」という気持ちが人一倍強いようだ。
これまた残念なことに現状はこれでいいと思っている。
今を悪と感じていない人に改善は訪れない。
だがこれも結構メリットがある。今や私だけに向けたブログではないだろうから明文化しておく。
それは無駄な争いはなくなるということだ。
他人への過度な期待は裏切りになり諍いになる。
勝手に期待しておいて勝手に裏切られているだけなのだが、この性癖は心当たりがあるのではなかろうか。(関連『他人に期待するなかれ』)
人の行動は突き詰めれば損得勘定に基本すべて帰結できると思っている。
誰かと話すのも、話すのが楽しいと自分の気分が良くなるという得があって行われる。
そんなことないという人も、一度「話していてつまらない人」というのを考えてみれば私が言う意味での損得がわかると思う。
「話していてつまらない人」と話さない理由はつまらないという損をするからだ。
すべての行動は意思に基づく。意思は感情に基づく。感情は自分の心だ。自分の損得を考えるのは当然だろう。
損得を越えた献身があるとしたら、それを人は愛と呼ぶのかもしれないがまだ私にはわからないので触れないでおくことにする。
要するに損得が期待を呼び裏切りを生む可能性があるということだ。
ただ、私は思うのだ。
多くの人はこんなこと考えない。
もしかしたら私はひとりに慣れすぎたのかもしれない。
もしかしたら私は他人を知らなさすぎるのかもしれない。
私は他人を知らずに他人を語っていたようだ。
私と他人の境界まで来て二の足を踏んでいるらしい。
これでは偉そうなことは言えない。
だから長々と話してきた他人観は不格好だがこう締めくくりたい。
いつか私は「私」でも「他人」でもない人に出会えるのだろうか。