余裕、自信、力
先日成績発表があった。
私は留年するということはなかったが、余裕で卒業できそうというわけではないというような悲喜交々な結果だった。(GPAとかを考え出すと悲が割合多そうだが)
他の人の話を聞く。
ある人は余裕で卒業単位が揃いそうだから気楽だと。
ある人は留年決まったけどまぁいいやと。
ある人は私と同じくらいだけど大丈夫でしょと。
ある人は私より単位を持っているが気を抜けないと。
色々な感情で成績表を受け取っていたようだった。
時間、お金、心、単位、勇気、等々。
人は色々なものに対して余裕があり、様々なものに対して余裕がない。
人によって「余裕」の感じ方は違うだろうし、同じ人でも年齢によっては「余裕」の定義は変わってくるだろう。
私は思う。
余裕を持つというのが人生を楽しむ第一歩なのだ。
単位なんていう人生に置いて大学生活4年間でしか使わないようなものですら余裕のある人とない人の見え方が全く異なる。
実際に単位を持っているかではない。単位に対する、大学生活に対する余裕の違いが問題なのだ。
実際は単位に余裕があるわけでないとしても、どっしり構えている人は傍から見ると頼りがいがあるように、魅力的に見える。
きっとそれは本質を見ているわけではない。
だが余裕のある人にはそう思わせる力がある。
余裕とは何だろう。
ある人にとっては余裕を感じられる状態でも、ある人にとっては余裕に感じられないというものは往々にしてある。
私の貯金を見て、余裕を感じる人もいれば、よくこんなので大丈夫だねと言ってくる人もいるであろうことは想像できる。
余裕とは真に主観的な感情である。
十人十色千差万別、私と同じ「余裕」の定義の人はこの世にいない。
さらに相対的なものである。
今の私と10年後の私の余裕は全く違うものになっているだろう。
つまり余裕とは純度100%の感情である。ただの気の持ちよう、なんの根拠もない感情である。
しかし、完全なる根拠なき感情故に人生の楽しさに直結してくる。
楽しさに根拠はない。
楽しいから楽しいし、辛いから辛いのだ。
あいつのせいでとか、あの件のせいでとか、色々外的要因はあるがそれらを受け止めるのはいつでも心であり、その出力は感情である。
単位がいい例であって、私の単位を十分あるじゃないかと捉えるのも、切羽詰まってるじゃないかと捉えるのも、その人の心次第である。
この心は性格と言い換えてもいいかも知れない。
ただなんとなく性格と言うと不変な感じがするからここでは心といいたい。
花を見て綺麗と思うのも雑草が生えて迷惑と思うのも、他人の快挙を見ておめでとうと思うのもなんであいつだけ注目されやがってと思うのも、どれもその人の心の持ちようで決まり、その心を決定するものこそ「余裕」なのだと私は思う。
心の余裕が他者への余裕になる。
一つの余裕が次なる余裕を呼ぶのだ。
ではその「余裕」はどうしたら持つことができるのだろうか。
これに対する簡単な答えはないだろう。
だが列挙はできるかもしれない。
例えば自分に自信を持つこと。
自分に自信があればその自信を持つ何かに対しての余裕が生まれ、それが新たな余裕を生み出す。
じゃあその自信はどこから生まれてくるんだとなるが、それはもう「力」だろう。
他の人に負けない卓越した能力、誰にも真似出来ないような努力、どんなものにも動じない胆力。
この世界には様々な「力」がある。
きっとなにかひとつでもいい。
なにかひとつでもこれだけは、という「力」があれば、それが人間の支柱になり、自信になり、余裕になるのだろう。
今の日本にはどこか余裕がないように感じられる。
まあ私が言えた義理ではないのだがもしかしたら理由は同じなのではないかと思うときがある。
何か、何でもいいからこれなら世界で負けないという「力」を見失っているのではないか。
根拠のない若者の自信を持てるほど国が若者ではなくなってしまったのではないか。
本当のところはわからない。今の日本を知っているとはとてもじゃないが言えない。
だが案外こういう個人のミクロな感情と国というマクロな現状が一致することもあるかもしれない、なんて思うときもある。
相変わらずよくわからない着地をしてしまったがとにかく今の私の余裕に関する所感をここにメモした。
余裕を与えてくれるものは様々あるだろう。
今の私は力くらいしか思いつかない。
力は余裕を与えてくれる。
余裕がないと嘆く前に自身の力を見てみるといい。
きっとそこにはなんの力もない。
努力が人に自信を与えてくれる。それが余裕になる。
その心の余裕が他者への余裕になり世界への余裕になり人生への余裕になるのだ。
だから私は早く努力できる何かを見つけるべきなのだ。
最近いつもこんな結論になってる気がするが、まぁ徒然なるブログなのでこういうのもいいだろう。
早く人生を楽しむ余裕を手に入れたいものである。