とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

脳を耕す

 早くも前期テスト期間が近づき、一般教養から専門科目まで広く勉強している。

 日頃から勉強していればここまで必死にやらなくてもいいのだが、それができない。

 こんな感じで毎年テスト期間が近づくと慌てて大学の勉強をしているわけである。

 

 

 勉強というのはしばしば運動と対比されるが私は同じようなものだと感じている。

 なぜならどちらも人間の体を使ったのという分類ができるからだ。

 運動では競技をやっていなかった期間にブランクという名前が付いている。

 同様に勉強もブランクがあると結構厳しい物がある。

 やはり知識を忘れるという点が大きい。

 覚えなおせばいいと思っていしまうがこれが難しい。

 数学なら数学の、科学なら科学の脳(考え方)を忘れてしまうのだ。

 勉強のブランクはこの脳を失う危険がある。

 そうなると1から脳を作っていかないといけなくなる。

 当然初学よりは早く回復できるが、初学ではないという驕りから学習が浅くなりがちであるように感じる。

 ブランクは脳という畑を放置するに等しい。

 それを再び畑にするためには案外時間がかかる。

 

 

 

 そしてもうひとつ重要なことがある。

 ブランクというのは言わば縦の視点である。時間という縦の軸を考えている。

 それならば横の軸も見る必要がある。

 つまり科目間の脳である。脳の幅と言ってもいいだろう。

 

 私はこちらの視点のほうが大切だと思う。

 理由はこの横軸は無限だからである。

 時間という軸は2つの意味で有限と言える。

 1つは人生が有限であるという意味。もう1つは時間というものが私固有の視点であるという意味。

 しかし科目は無限である。

 そもそも世界には科目なんて区切りは存在しない。

 世界のすべては有機的に絡み合って、1であり無限大である。

 だから我々の学びというのは、「無限」の世界を「有限」の私的世界に取り込むことと言える。

 つまり、有限で無限と対峙しなければいけない。

 そのためには何が必要だろうか。どういう準備をしておくべきだろうか。

 

 私は「脳を常に耕しておく」必要があると思う。

 

 結局私が知れることなんて有限なのだが、有限でも、いや、有限だからこそ大小がある。

 知識が多ければいいというわけではないのはわかる。

 知識を持つことと活かすことは別問題である。(いずれこれについても触れたい)

 しかし知識を持っていないと始まらないのは事実である。

 たくさん武器を持っていても手は2つしかないので使いこなせる武器を持っていないと意味はないが、丸腰でいるのは論外である。

 「知っているだけでは意味がないよ」と言えるのはたくさん知っている人だけである。

 故に私は常に学べる姿勢でいることが重要であると思う。

 そのためには脳を耕すことを止めてはいけない。

 知らないことに相対した時、知らないことに遭遇することに慣れていないといけない。

 そうすれな知らないの程度が大きくなっても(横軸の幅が大きくなっても)対応できる。

 未知になれるために既知を深める、つまり今ある脳を耕すことが大切なのである。

 

 

 

 大学の勉強をしているとふと思うのだ。

 この勉強がなんの役に立つんだよと。

 

 でも、きっと勉強の内容はさほど重要ではない。

 大学は何かを学ぶ姿勢を学ぶ場所なのだろう。

 

 学びの軽視は未知への軽視に繋がる。そして自分の取り巻く環境を、現状を軽視する。

 そういう人は軽視されるような人間になるだろう。