とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

学問なるもの

 夏休みになってこれまでになくダラダラした生活を送っている。

 そんな夏休みは自分の学びたいことの玄関を覗くに限る。

 なんの役に立つかわからない、しかしまるっきり無駄どいうほどでもない、そういう分野の入り口を見てみるのがなんとも楽しい。

 大学では一級河川の本流とその支流を学ぶ。

 休みの日は田舎の小川を学ぶ。

 どちらも学問である。

 そして案外田舎の小川のほうが面白かったりする。

 

 

 私はなにかを学ぶということは世界のルール・仕組みを知ることだと思っている。

 法律を学べば秩序のルールがわかる。パソコンを学べば隠された内部の膨大で緻密な処理の仕組みがわかる。心理学を学べば人間の心の仕組みがわかる。物理を学べば地球のルールがわかる。

 学べば学ぶほど色々な分野にある多くのルールの存在を知ることができる。

 これらを知らなくても生きていくことはできる。

 しかしこれらを知らなければ豊かに生きていくことはできない。

 誰かがゲームをやっているのを見るのはそのゲームのルールを知らなくても可能だ。

 だがそれを楽しむためにはルールがわからなければ面白くない。

 人生というゲームをより楽しむためには世界というフィールドの仕組みをより多く知る必要がある。

 

  

 学びというのものはこれだけ大きなものである。

 だから「学び」という行為からも学べることがある。

 それは「学べないものの存在」である。

 以前述べたように学べば学ぶほど、世界の広さがわかる。

 知識を積み上げその高みから見渡すと、地上にいた時に見えていた範囲の狭さと新たに見えるようになった世界の広大さに気づく。

 とても世界の端までは行けるはずがない。そう思える。

 「知れば知るほど知れないものが増える」ということになる。

 皮肉にも既知が新たな未知を生み出すのだ。

 故に「学ぶ」とは逆説的に未知への接し方を知ることになる。

 

 学びが足りない人ほど新たな世界に対峙した時、自分の持つカードで解決しようとする理由はここにある。

 安易な演繹をし、不正確なレッテルを貼り、傲慢に相手を結論付ける。

 わかっていない人ほどわかった気になる。

 なぜなら未知との接し方を知らないからだ。そもそも「未知」を知らない。未知が怖いのだ。

 だから無自覚に未知を排除しようとする。相手が埒外にあることを無意識に忌避する。

 無意識な傲慢が正しい認識を阻害する。

 自分のルールのために世界のルールを捻じ曲げようとする。

 そして未知より厄介な「わかった気でいる」状態が生まれる。

 

 

 

 夏休みに色々な分野の門戸を叩く。

 だからこそ未知に対していつでも真摯でいなければならない。

 既知への帰着という諸刃の剣を使いこなすにはまだ私は幼い。

 だから人生を豊かにするためには小川の一つから未知を既知に変えていかなければならない。

 

 これを私は学問だと思う。