とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

知の所在、私の知

 長かったような短かったようなテスト期間が終わった。

 今という時代はなんと便利だろう、テスト範囲の単語を検索するとそれを解説したわかりやすいサイトがたくさん出てくる。

 それらや教科書をテスト前は必死に知識を頭に叩き込んでいた。

 もちろんやっているときはそれに集中していて他のことを考える暇などなかったが、後になってふと思うことがあった。

 

  

 「知らない」という状態はなんだろうか。

 

 今や知らなくても調べれば5秒で答えが出てくる。

 スマホを使えばすぐにでも知っている人と知らない人の間の知識量の差はなくなる。

  掌に全人類の知が乗っている今、「私が何かを知っている」ことの意味は失われたのだろうか。

 

 

 

 そのまま考えるにはあまりに掴みどころがないのでまずは今の自分の経験から考える。

 どういう時知識が役に立ったと言えるだろうか。

 卑近な例だとクイズ番組で普段使いもしない難読漢字を知っていたとき答えられて少し幸せになれる。

 これは間違いなく知っているかどうかの違いのみに依存している例だ。知っていれば答えられる。知らなければ答えられない。

 しかしこれも学校のテストと同じことが言える。

 結局ネットで調べればすぐに出てくる。

 「そんなこと調べればすぐに出てくるよ。」

 そう言われたらそうだねとしか返せない。

 

 だがこれは漢字の読みだからすぐに知ることができた。

 これが物理の問題だったらどうだろうか。

 途中の数式の解き方は出てくるだろう。なんなら動画でわかりやすく出てくるかもしれない。

 しかしそれがどう物理の系にはたらいているかや、そもそもこの物理問題の答えをどう活かすかは非常にパーソナルな問題である。

  ネットの答えはいつでも結果の知識なのだ。

 ハンマーとはなんなのかは詳しく書いてある。使い方も書いている。だが私の人生でどこでどう使うといいかは自分で考えなければいけない。

 難読漢字の知識は言ってみれば「知っているという結果が目的」だ。

 知っていれば知っているという結果を得る。

 だから「そんなこと調べればすぐに出てくるよ。」と言われたらそれまでなのだ。

 結果だけなら今や脳を使わなくれも手のひらの小さな板に詰まってる。

 しかし、多くの知識は知っていることだけでは結果にならない。

 

 

 

 「何か」の全体とはこの世界にある知識の総体だが、これらには「知識の完結度」というべき尺度があるのだ。それらの両端は「内容そのものが結果の知識」と「道具としての知識」と表現できるだろう。

 これはもしかしたらその知識がどれだけ役に立つかと相関があるかもしれない。

 箸の使い方を調べればわかるやろという人は少ないだろう。知っていることより箸を正しく使えることが求められる結果だからだ。

 しかしこれに関しては個人差があまりに大きいので断言は避けたい。

 役に立つかどうかはあくまで未来的だからだ。

 とにかく知識には完結度という指標がある。

 

 

 そしてここから「知っている」という状態も説明できる。

 「知っている」とは「何か」の従属変数なのだ。「何か」が難読漢字の読みなら「知っている」とは単に頭にその読み方が入っているかどうかということになる。これが数式となると数式が解けることよりも数式の活かし方を「知っている」かが重要である。

 

 

 スマホで埋められる差はあくまで知識量の差であって、知恵の差ではないのだ。

   

 

 

 

 データは活かすためにある。活かさないで終わる知識などスマホに置いておけばいい。

 真に知るべき、覚えておくべき知識とは活かせる知識なのだ。知恵なのだ。

 

 

 

 ただひとつ、重大な問題がある。

 我々には知識と知恵を見分けるすべがない。

 だから結局我々は知ることをやめられないでいる。

 

 

 

 

 いや、

 本質的には両者に違いはないのかもしれない。

 

 これは私という視点と今という制限があるからわからない。

 何年後かに難読漢字の知識が私の人生を大きく変えるかもしれない。

 

 それはわからない。

 

 

 果たしてこの答えはネットで知ることができるのだろうか。