数学は考え方の学問である
私は理系の大学生だが数学が苦手である。
世間一般ではおそらくできる方なのだろうが、いかんせん通っている大学が大学なのですぐに授業についていけなくなる。
なにより授業が楽しくない。
謎の文字が踊る数式をいじくりまわして謎の計算結果が出てくる様を楽しむすべがない。
こんな数式いつ使うんだとか計算ゴリゴリやって何が面白んだとかどうしても考えてしまう。
だから数式を嬉々として解いている人とはそりが合う気がしない。
しかし「数学的な考え方」の素晴らしさは敬服している。
定理の証明には一分の隙もない。誰も文句のつけようがないほどの完璧。導出の様は芸術であるような定理や証明もある。
感性は人それぞれだが、完全性は確かにある。
その完全性はどこに起因しているのだろうかと考えてみると、小学校から算数として数学を習う意味がわかった気がした。
主張には根拠が要る。
この1文の強制力を、大切さを、絶対性を教えてくれるのが数学なのだ。
我々は生まれながらにして脳という工具箱を持っている。生まれた時は空っぽだが、次第に言語という強力な道具を獲得する。(ここでの言語は脳内で思考するために使用される言語を主に指している)
しかし言語自体は使い方を教えてくれない。日常から得る情報で「使われ方」は学ぶが「使い方」は教わらない。
そこで言語の使い方を指南してくれる科目が必要になってくる。
その側面が特に強いのが「国語」と「数学」なのだ。
他の科目も因果関係は登場する。その中でも特に「因果関係の絶対必要性」を教えてくれるのは数学と国語なのだ。
一見まるで対照的な科目に見えるかもしれないが実はどちらも似たようなことを授業で行っている。
国語は「書物の中でどのように因果関係が潜んでいるか、日本語を用いて読み解くやり方を教える科目」である。
対して数学は「定理の必然性を他の定理と定義を用いて示す方法を教える科目」である。
どうだろうか。
媒体となる言語が違うだけでどちらも主張には必然性があるということを教えているのだ。
「今日は晴れている。だからAさんは死んだ。」と書いてあったらなぜ?となるし「3足す6は5である定理」があったら根拠は?となるだろう。
これらの科目は常に根拠を探している。必然性を要請しているのだ。
数字でも日本語でも、なにかを主張するとき、何かの結論に至った時には理由がいるのだ。
それを論理的に説明できて初めて主張は主張たりえる。
それが言語を使う人間に与えられた義務なのだ。
だから私は「他人に発表する主張には不必要な感情を排斥する必要がある」を言いたい。
数学には感情がないし必要でもない。
小説の登場人物の動機が「なんとなくそういう感情だったから」だったら興醒めである。
感情は説明できない。感情は個人の世界の中の必然性でしかない。
もちろん日々の生活から感情をなくすことはできないしする必要もない。
ただ「他人」に「主張」するなら感情はあってはならない。
感情は個人の世界のルールなのだ。
主張に感情が混ざるとそれは感想になる。
主張にはたくさんの根拠がいる。
そこに個人の感情を挟む余裕はない。
何かを主張するとき、何かを考え結論を出そうとするとき、その時の材料を国語から学び、フォーマットを数学から学ばなければならない。
人はそれを説得力と呼ぶ。