とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

不自由主義

 お久しぶりです。

 コロナのおかげで引きこもりが加速し、精神がダークサイドに落ちていましたが何とか帰ってきました。

 

 

 さて、今のコロナによる種々の自粛で多くの人が時間を持て余していると思う。

 働いている時、勉強している時は時間がほしいと思っていたのに、いざまとまった時間が降ってきたら手持ち無沙汰になる。

 

 私はこの機会に自由とはなにかを考えた。

 なんの束縛もない状態、と言ってしまえばそれまでだがそれではつまらない。

 なんてったって時間は山ほどある。

 

 まず思ったことは「自由」に肯定的な定義を与えることが難しいということだ。

 束縛がない、拘束がない、支配がない、強制がない。

 どれも不自由の補集合として「自由」を言い表している。

 不自由でない状態があってこそ自由があるのだろうか。

 不自由が自由を規定しているのだろうか。

 本当は自由は非"不自由"と言うべきなのだろうか。

 とにかく「自由」は案外掴みどころのない概念のように思われる。

 

 

 次に思ったことは、果たして上で述べた状態、つまり拘束・支配などがない状態が普遍的な自由なのかということである。

 実はこの疑問が自由を考える端緒になったと思っている。

 なぜなら今の日本の状態を考えた時、それまでの日常と比べて明らかに束縛がなくなった。

 時間的束縛も身体的束縛も減った(私がインドア派だからかもしれないが)。

 外出自粛といっても家を出たら殺されるわけではない。

 確かに外で活動することが趣味の人という人は不自由になったと思うだろう。

 しかし家の中でも自由はある。少なくとも束縛・支配はない。

 だがなぜだろう、自由を積極的に感じることがほぼ無い。

 何もないという状態は自由ではないのだろうか。

 何かの否定が自由を肯定するわけではないのだろうか。 

 

 最後に私は考えた。

 では自由を感じる時はいつだったか。自由と言われているものは何だろうか。

 私は一つ思いついた。

 学校の自由時間。

 たしかに自由と呼ばれているし、当時はあの時間に不自由を感じたときはなかった。

 間違いなく(勉強という)束縛はなかったし、自由に外で遊んだり、自由に教室で友達と話したり、自由に図書室で本を読んだりできた。

 そう、あの時は確かに自由を感じていた。

 だが今考えるとあれは自由だっただろうか。

 外と言っても校庭どまり、自由と言っても教室でゲームができたわけではない。

 そこにあるのは手遊びのボールや少しばかりの土地と遊具くらいである。

 でも確かにあの時私は自由を享受したと思っていた。

 それはなぜだろう。

 授業がなかったからだ。

 

 学校という空間がイコール世界だと思っていたあの頃、椅子に座って授業を聞くという状態が「不自由」の総体でありそれ以外が明確な自由だった。

 教師が決めたルール、社会が決めた枠組み、他人が決めたうちでの「自由」、それが私にとっての自由だった。本当は面白いほど不自由なのに。

 

 

 自由というものを考える時、絶対的なものとして自由を捉えようとすると誤った結論に至りかねない。

 自由とは例えて言うなら温度なのだ。

 本州の冷蔵庫が食材を冷やすためのものであるのに対し、北海道の冷蔵庫は食材が凍るのを防ぐためのもの(=食材を温かい状態にする)であるように。

 この時本州の食材が不自由とか北海道の食材は自由とか、そういう話をしても意味がないのと同じで、自由も環境との、過去との、他人との相対的評価で初めて規定されるものなのではないだろうか。

 

 

 ここで面白いことが見えてくる。

 まずは「自由と不自由の距離」だ。

 自由とは相対的である。

 つまり状態・時はいつでも自由になり、いつでも不自由になれるのだ。

 これは以前も似たような記事を書いたが、真の自由とは玉ねぎのようなものであり不自由という皮をいくらむいても自由という実体は残らない。

 ここまでがたまねぎ(の内部)と判断したところがたまねぎであり、いつまでも真のたまねぎは手に入らない。

 つまり真の自由(=絶対的自由)とは無限遠に存在する概念であるのだ。

 しかし自由はどこにでもある。その不自由を自由と思えるようになったその瞬間から。

 

 

 

 そしてもうひとつ。

 わかりやすい自由・用意に手に入る自由とは誰かの用意した自由ということである。

 

 今そこにあるスマホもパソコンは、インターネットのサービスは、果たして私たちに「本当の自由」を与えてくれる道具・環境なのだろうか。

 それとも「自由」と思わせるための、思考を奪うための道具なのだろうか。

 

 

 この記事でただひとつ確信を持って言えることは、そういう道具・環境を売っている人は、深く考えないでお金を払ってくれる人を上客と呼んでいる。