とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

余裕なき者の叫び声

 生きていると、どうしても納得できない言葉、どうやっても反りが合わない人に出会うことが多い。

 ネットが発達したおかげでその頻度は増したかも知れない。

 そういう相手の存在は何をやっても変えることはできない。

 しかし自分の心の持ちようはいくらでも変えられる。

 今回は「余裕」と「攻撃性」の関係についての私の考えをまとめたい。

 

 

 自分と気が合わないものと対峙した時、どれだけスルーできるかというのは無用な不幸の回避にとても重要であることは明白であろう。

 世界にその人とふたりきりというわけでもない限り、別にその相手と戦う必要はない。

 ただ目を伏せてスルーすればいい。

 そんな当たり前のことをなにをいまさらと思うかも知れないが、現状のネットを見てみるとこれを忘れている人が山ほどいることがわかる。

 自分と意見を異にする存在をスルーできない、自分が気に食わないものを排除しないと気がすまない、そういう不寛容な人がたくさんいる。

 いや、昔からいたというのが正確だろうか。

 少なくともネットの台頭がそういう人に発言権を与えた。力を制御する方法を知らない(する気がない)人にも平等に力が与えられたのだ。

 与えられた力を、自らを抑制することに使わず他者を攻撃することだけに使う人が過度に存在感を得てしまったのだ。

 

 なぜ彼らはスルーできないのか。なぜ嫌いな他者を攻撃・排除しないと気がすまないのか。なぜ自分以外の正義を認められないのだろうか。

 どれも「余裕」がないからである。

 他者を攻撃するという行為でしか自分を正当化できない。他者を排除しないと自己を防御できない。

 なぜなら他者を受け入れられるほどの余裕がないからである。

 なぜ余裕がないか。受け入れてもなお確固として存在できるだけの自分がないから排除するしかないのだ。

 どれも余裕がないのだ。自分に余裕がないから他人にも寛容になれない。

 そういう人はこれもまた自分への自信のなさから何かしらの大義名分を被って自身の攻撃を正当化する。

 自分が嫌いなものに色々な理由をつけて攻撃し続ける。

 そういう人には論理的な解決を見込めない。

 なぜなら攻撃することが自身を確立する唯一の方法であり、攻撃が目的であるからだ。

 変革を求める攻撃ではない。余裕のないものの悲痛な叫びなのだ。

 叫び声に論理性などない。

 ただ、ただ自分の存在に対する自信のなさがそうさせている。

 余裕のなさが次なる余裕のなさを呼ぶ。

 

 

 余裕のなさが攻撃性につながるとすると問題はどうすれば余裕を持ち続けることができるか、ということだろう。

 この答えはいくつかあると思う。

 そのうち今の私が思っているふたつを挙げたいと思う。

 ひとつは自信を持つこと。

 以前から言っているが、なにか1つ誰にも負けないと言うような自らの軸になるような自信を持つことは、大きな余裕を持つことにつながると思っている。

 

 しかしそれを持つことが難しいというのは痛いほど知っている。

 だからもうひとつの答えを示したい。

 それは「諦める」ことだ。

 他人に対して、未知に対して、諦めるということは余裕につながると思う。

 もちろん安易な諦めは向上心を失うことになり良いとは言えない。

 しかし、特に他人に対しては諦めは寛容さにつながる。

 本当にわかってほしい相手ではない限り、相互理解を諦めることは悪いことではない。

 わからない人とはどこまで行ってもわかりあえないのだ。

 そういうときは諦めてもいいのではないだろうか。

 「どうでもいいじゃん」の一言で解決する相手は結構いると思うのだ。

 諦めたら試合終了と言うが、するべきではない泥試合を回避するには諦めというのは実に有効に思える。

 

 諦めるためには世界を広く見ていないとできない。

 ここを諦めてもまだ分かり合える世界があると思っていないと一つのコミュニティー固執してしまいがちだ。

 学生が自殺したニュースを見て「生きていれば楽しいことが色々あるのに」という意見をするのは実は見当違いで、それが言える人と自殺した人は同じ日本だとしても見えている世界・生きている世界が全く違う。

 

 今の世の中昔より選択肢の多さという観点ではかなりの余裕がある。

 それでも余裕がないように感じられるのは個々人の自信の喪失が一因に思えてならない。