とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

余裕、自信、力

 

 先日成績発表があった。

 私は留年するということはなかったが、余裕で卒業できそうというわけではないというような悲喜交々な結果だった。(GPAとかを考え出すと悲が割合多そうだが)

 他の人の話を聞く。

 ある人は余裕で卒業単位が揃いそうだから気楽だと。

 ある人は留年決まったけどまぁいいやと。

 ある人は私と同じくらいだけど大丈夫でしょと。

 ある人は私より単位を持っているが気を抜けないと。

 色々な感情で成績表を受け取っていたようだった。

 

 

 時間、お金、心、単位、勇気、等々。

 人は色々なものに対して余裕があり、様々なものに対して余裕がない。

 人によって「余裕」の感じ方は違うだろうし、同じ人でも年齢によっては「余裕」の定義は変わってくるだろう。

 

 私は思う。

 余裕を持つというのが人生を楽しむ第一歩なのだ。

 

 単位なんていう人生に置いて大学生活4年間でしか使わないようなものですら余裕のある人とない人の見え方が全く異なる。

 実際に単位を持っているかではない。単位に対する、大学生活に対する余裕の違いが問題なのだ。

 実際は単位に余裕があるわけでないとしても、どっしり構えている人は傍から見ると頼りがいがあるように、魅力的に見える。

 きっとそれは本質を見ているわけではない。

 だが余裕のある人にはそう思わせる力がある。

 

 

 余裕とは何だろう。

 ある人にとっては余裕を感じられる状態でも、ある人にとっては余裕に感じられないというものは往々にしてある。

 私の貯金を見て、余裕を感じる人もいれば、よくこんなので大丈夫だねと言ってくる人もいるであろうことは想像できる。

 余裕とは真に主観的な感情である。

 十人十色千差万別、私と同じ「余裕」の定義の人はこの世にいない。

 さらに相対的なものである。

 今の私と10年後の私の余裕は全く違うものになっているだろう。

 

 つまり余裕とは純度100%の感情である。ただの気の持ちよう、なんの根拠もない感情である。

 しかし、完全なる根拠なき感情故に人生の楽しさに直結してくる。

 楽しさに根拠はない。

 楽しいから楽しいし、辛いから辛いのだ。

 あいつのせいでとか、あの件のせいでとか、色々外的要因はあるがそれらを受け止めるのはいつでも心であり、その出力は感情である。

 単位がいい例であって、私の単位を十分あるじゃないかと捉えるのも、切羽詰まってるじゃないかと捉えるのも、その人の心次第である。

 この心は性格と言い換えてもいいかも知れない。

 ただなんとなく性格と言うと不変な感じがするからここでは心といいたい。

 花を見て綺麗と思うのも雑草が生えて迷惑と思うのも、他人の快挙を見ておめでとうと思うのもなんであいつだけ注目されやがってと思うのも、どれもその人の心の持ちようで決まり、その心を決定するものこそ「余裕」なのだと私は思う。

 心の余裕が他者への余裕になる。

 一つの余裕が次なる余裕を呼ぶのだ。

 

 ではその「余裕」はどうしたら持つことができるのだろうか。

 これに対する簡単な答えはないだろう。

 だが列挙はできるかもしれない。

 例えば自分に自信を持つこと。

 自分に自信があればその自信を持つ何かに対しての余裕が生まれ、それが新たな余裕を生み出す。

 

 じゃあその自信はどこから生まれてくるんだとなるが、それはもう「力」だろう。

 他の人に負けない卓越した能力、誰にも真似出来ないような努力、どんなものにも動じない胆力。

 この世界には様々な「力」がある。

 きっとなにかひとつでもいい。

 なにかひとつでもこれだけは、という「力」があれば、それが人間の支柱になり、自信になり、余裕になるのだろう。

 

 

 

 今の日本にはどこか余裕がないように感じられる。

 まあ私が言えた義理ではないのだがもしかしたら理由は同じなのではないかと思うときがある。

 何か、何でもいいからこれなら世界で負けないという「力」を見失っているのではないか。

 根拠のない若者の自信を持てるほど国が若者ではなくなってしまったのではないか。

 本当のところはわからない。今の日本を知っているとはとてもじゃないが言えない。

 だが案外こういう個人のミクロな感情と国というマクロな現状が一致することもあるかもしれない、なんて思うときもある。

 

 

 相変わらずよくわからない着地をしてしまったがとにかく今の私の余裕に関する所感をここにメモした。

 余裕を与えてくれるものは様々あるだろう。

 今の私は力くらいしか思いつかない。

 力は余裕を与えてくれる。

 余裕がないと嘆く前に自身の力を見てみるといい。

 きっとそこにはなんの力もない。

 努力が人に自信を与えてくれる。それが余裕になる。

 その心の余裕が他者への余裕になり世界への余裕になり人生への余裕になるのだ。

 だから私は早く努力できる何かを見つけるべきなのだ。

 

 最近いつもこんな結論になってる気がするが、まぁ徒然なるブログなのでこういうのもいいだろう。

 早く人生を楽しむ余裕を手に入れたいものである。

十知るよりも一動け

 生まれて20余年、色々なことを知った。

 その一部のさらに一部はこのブログにしたためたが、それでも学びは尽きないだろう。

 大学の勉強のような専門的なもの、哲学のような普遍的なもの、人間関係のような流動的なもの、そして自分のこと。

 どれも全体の片鱗しか理解できていない。

 だからこれからも学びという知的活動は死ぬまで終わらないと確信している。

 

 

 

 これまではそう思っていた。

 しかし現状の私はまだなにも学んでいなかった。

 

 書籍・テレビ・会話を通して考えを改めることは多くあった。

 気付いたことをメモして忘れないようにもした。

 だがそこに何か行動が伴っていたことはあっただろうか。

 知っただけで学んだ気になっていたということはないだろうか。

 

 恐らく私はそのへんの人に比べて頭に知識を取り込むことに長けている。

 私自身はそう思っていないが、これまでの世間の評価を見るときっとそうなのだろう。

 だから知らないことを知ることも、知っていると思っていたことをアップデートすることも、きっと得意なのだと思う。

 だが、いや、それ故に、知ることに比重を置きすぎているように思った。

 私より知識に厚みのない人でも、私より思考が浅い人でも、私より行動している。私より結果を出している。

 私は何をしただろうか。知識を備えるばかりで知識を腐らせてはいないだろうか。

 頭にはちょっとした知識があるかもしれない。だか手は何かを掴んでいるだろうか。

 どうも今の私の手のひらは空っぽに思えてならない。

 

 知識が全て活かせるとは思っていない。むしろ活かせる一部のために行かせない大多数を受け入れているとさえ思える。

 しかしそれでも知識とは活かして初めて意味がある。

 知識をどれだけ実践知に変えられるか、それが本当の頭の使い方だろう。

 頭は保管庫ではない。司令塔なのだ。

 どれだけ四肢に有効な行動を司令することができるか、それが大事だと心の底から思う。

 「知る」ということは「学ぶ」ということの第一歩に過ぎないのだ。

 

 皮肉にも色々知れば知るほど臆病になる。

 いや、臆病だから知を求めたのだろうか。

 それはわからないが、これまでの私はあまりに頭でっかちになっていた。

 行動の伴わない学びに甘んじていた。

 今日からそれを改めよう。

 これから座右の銘は「待てば海里の日和あり」から「十知るよりも一動く」に変えたいと思う。

 

 

人を敬うということ

 小中学生の頃、私はお世辞にも優等生ではなかった。

 おそらく学校の中でも上位数%に入るくらいに勉強はできたし、周りの友達よりいつもテストの点数は良かった。

 それを鼻にかけることはなかったが、心のどこかで驕っていたのは間違いない。

 その驕りは他人を軽視することにつながっていた。

 特に教師には、今思うとかなりひどい態度をとっていた。

 ただ年上というだけで偉そうにしていることが気に食わなかった。

 実際は俺より頭悪いのになんて思ったことも少なくない。

 それくらい驕っていて、それくらい他人を小馬鹿にしていた。

 

 高校に入り周りの友達も同レベルの頭になり、反抗期も次第に終息していった。

 自分より頭のいい人がたくさんいる事実を知り、絶望し、そして自分の考え方や振る舞い方が変わった。

 人間の価値は勉強だけではないことを悟り、そもそも人の価値を測れるほど自分は大層な人間ではないことを悟った。

 だから私は人の性格を見るようになった。

 人当たりのいい人とは友好的に、攻撃的な人とは敵対とはいかないまでも関わりを絶った。

 そもそも勉強のレベルについていくのに必死で全体的に人付き合いが希薄になっていったような気もする。

 だが今思うとやはりここでも多少の驕りはあったのだろうと思う。

 人を見る目はあると思い込み、表面的な人当たりだけで他人の本質を見抜いた気になっていた。

 

 

 

 大学に入り、周りは自分より優秀な人しかいない環境に人生で初めて立たされることになった。

 私が過去バカにしていた「頭の悪い人」の役が自分に回ってきたのだ。

 こうなるともう人を測るどころではない。

 しかしこうなると勉強とか知能とかそういう呪縛から解放されて人と接することができるようになった。

 解放というか自分がその尺度で戦えなくなって逃げただけなのだが。

 とにかく驕り昂りは一切なくなり、初めて人とのかかわりに敬いが生まれた。

 だがその敬いは実態がなかった。

 相手を敬うのではなく、自分を卑下することに起因する尊敬の視線だった。

 その敬いは相手を知ろうとする前に盲信する、形を変えた軽視だったのだ。

 

 

 大学生になってしばらく経った今、ようやく他人という存在を許容できるようになった。

 長所を見つけ、それをリスペクトできるほど人間はできていないが、少なくとも攻撃的な感情も全面的な拒絶せず、フラットに接することのできるくらいの余裕はできた。

 そう余裕なのだ。

 私はようやく対人関係においての余裕を手に入れることができた。

 これまでは余裕がなかった。

 勉強が多少できるというただそれだけにすがっていたあの頃も、自分より勉強できる人がこの世にはごまんといるという事実を知ったあの頃も、自分が勉強できない役回りをすることになったあの頃も、ただただ余裕がなかった。

 昔の私に余裕がなかったのはなぜだろうと考えると、やはり当時の私は何も知らなかったのだ。

 もちろん今も知らないことは多いが、少なくとも知らないことが多いと言えるくらいには知っている。

 当時は見えている世界があまりに狭く、あまりに自分本位だった(年齢的にしかたないところもあるかもしれないが)。

 世界の中心の世界の頂点で周りを俯瞰しているような錯覚にとらわれていた。

 驕りが目を曇らせ、視界の狭さに気づけないほど心が狭かった。

 

 

 私は弱い人間なのでこの驕りに再び視界を遮られる可能性は否定できない。

 なんてったって今は情報社会。調べればすぐ知った気になれるし、発言しようと思えばスマホ1つで世界に発信できる。

 世界の中心にいる錯覚はいつもすぐそばの足元に転がっている。

 さらに自分より優秀な人の存在が世界規模で把握できる。

 いつでも驕れ、いつでも絶望できるのが今の時代なのだ。

 そのときまた私は人を敬えなくなるかもしれない。

 他人を許容できる余裕と他人の深層を推し量るリスペクトがなくなるかもしれない。

 

 

 だから戒めのために記事を書いた。

 

 他人に対する余裕は自分の心の余裕に比例しているということを忘れてはならない。

 他人の見え方はいつでも己の鏡なのだ。

0は1と100を見つめる

 朝、起きてスマホを開くとそこには知り合いのツイートが流れている。

 昼、大学には顔だけ知っている学部の知り合いがたくさんいる。

 夜、サークルの飲み会には仲のいい人が数人いる。

 寝る前、ツイッターにたくさんいる知り合いを見ながら独りに戻る。

 

 我々の人生の場面の多くは一対多である。

 多くの人と関わり、多くの評価をされ、多くのものに興味を持ち、多くのことを学び、多くのことを忘れ、多くの人に忘れられる。

 SNSのおかげで学部の人、それ以外の人とのつながりはそれなりにできた。間違いなく人生で最も知り合いが多い。ツイッターで呟けばいいねされることも多い。

 しかしなぜだろうか、時々そのつながりが虚しく感じる。

 その虚無感は不思議にも孤独でいるときよりも強い。

 私は考える。

 私は多くの人から何かを得ているのだろうか。それとも多くの人に奪われているのだろうか。

 

 多くの人と知り合うことはできた。それは間違いない。

 ただしそれがあまりにも希薄なのだ。

 誰が書いても同じ文字列と誰が推しても変わらないいいねしか届かない。

 人間とコミュニケーションしているのか、システムとコミュニケーションしているのか、もはやわからない。

 さらに悪いことにSNSでは他人同士のつながりも可視化される。

 希薄なつながりはむしろ孤独を浮き彫りにしてくる。

 これは私の錯覚なのだろうか。

 

 今や100人とつながることはさほど難しくない時代になった。

 ただ私はこのつながりの意味を問う。

 その100は実体なのだろうか、と。

 本当に見るべきはそこにはいない1なのではないだろうか、と。

 勉強だってそうだ。

 100個の分野の窓は休日1日でもあれば余裕で覗くことができる。

 だがその知識の広さに価値はあるのだろうか、「何でも知っている何も知らない人」になる意味はあるのかと考えだすとまた私は0に戻ってしまう。

 

 人はいつだって0だ。そして100にもなれる。

 しかし本気で愛せる1を見つけることは今も昔も未来も容易なことではない。

 

 もしかしたらその1を見つけることが人生の意味なのではないだろうか。

 その1を人は幸せと呼ぶのではないだろうか。

 それは今の私はわかるはずがない。

 

 しかし、これだけは常に感じている。

 0から見ると1を持つ人はとても輝いて見える。

 

 

受け流すこと柳のごとし

 あけましておめでとうございます。

 社会人になるデッドラインが日々近づいている事実にただ震えています。

 

 正月ということで実家では親戚が一堂に会して宴会が行われた。

 その時は私の酒を飲んでいたので何を話したのか何を聞いたのかあまり覚えていない。

 しかしそんな中でも祖父の話はとても記憶に残っている。

 

 「どうでもいいことを聞き流せるようになるくらいには色々話を聞いておけ」

 

 前提として人の話は本気で聞く必要がない。

 理由のひとつはその発言者がどこまで深い思考を経ているか怪しいからである。

 世界の多くの人は哲学者ではない。経験談+αくらいの世間話が発言の主たるものであろう。

 それを全力で受け止めるとこちらが痛い目を見る可能性がある。

 もうひとつの理由は発言者が他人ということそのものである。

 その意見がどれだけ正しいとしてもその正しさが約束されているのはその発言者が生きる世界の中である。

 

 

 では人の話なんてまるっきり聞く価値がないのだろうか。

 決してそういうことではない。

 祖父の話はむしろこちらの主張のほうが強いと思い。

 違う世界の違う視点の話なんて面白いに決まっている。

 それをどう活かせる知識として受け止めるかが聞き手の手腕が問われるところなのだ。

 

 その知識の変換と言うか取捨選択に必要なのはなんだろうか。

 これが皮肉にも知識なのだ。

 どういう話が聞くに値すべきか、どういう人が話す意見が活用できるか。

 これらの見分け方は他人の意見とのふれあいで培われるものである。

 自転車の乗り方と同じで自分でやってみないとわからないのだ。

 

 この話を聞いて自分を振り返ってみた。

 子供の頃は全ての意見を何のフィルターも通さず受け入れていた。

 中学生になって全ての意見を受け入れない時代を経験した。

 今は受け入れるか受け流すか、自分ではバランスが取れていると思っている。

 しかしこのバランスが完璧とは思っていない。

 今や情報の取捨選択の量は夥しいものになっている。

 情報の正しさは多くの人が重要だと思っているだろう。

 だが情報の有用さはどうだろう。

 この尺度は未だ過小評価されているのではないだろうか。

 いくら正しくても受け流すべきものもあるし、世間的に正しくないと思われていなくてもそういう考えもあるという新たな視点としての有用さがある情報もある。

 

 そういった「情報の審美眼」をもっと磨いていきたいと思いこれを新年一発目の記事とした。

 今年も私の心の枝が折れない程度の穏やかな風が吹く1年になってほしいものである。

 

 

精神的に向上心のないものの年越し

 年号が変わるというただそれだけの理由で始めたブログだが、気づけばもう9ヶ月目となり、今年も終わるらしい。

 なんともまあ早いものだ。

 正直こんなに続くとは自分でもびっくりである(最近頻度がガタ落ちしているが)。

 

 さてこの時期になるとやはり考えることは来年のことだろう。

 どんな1年になるかといろいろ考えたくなる。

 なにかをしたいとか、こんな人になりたいとか、そういう目標や抱負を掲げたくなってくる。

 

 だが私はあえて何も考えないでおきたい。

 

 

 まず、自分の性格を考えるとだいたい大層な目標を立てても何も達成できない。

 それほど人生に真剣ではないし、それほど変わりたいとも思っていない。

 

 そして何より変に期待しているとろくなことにならない。

 期待しているとそれを下回った時悲しい気持ちになるが、何も期待していなければ小さいことでも幸せになれる。

 ドラマや映画やアニメやゲームでこれを何回も経験している。

 たいして期待していないほうがいいのだ。何事も。

 裏切られるくらいなら裏切られる期待そのものをなくした方がいい。

 いろいろ考えた結果、何も考えないで生きていられることの尊さがわかる。

 そんな人生でいいのかは今はわからない。

 変わりたくもないのに変わらないといけなくなる時が来るかもしれない。

 考える自由も、考えない自由も、きっとかりそめの自由だろう。

 しかし、いや、だからこそ大学生のうちはもう少しこれに甘んじたい。

 実践なき思考は徒に心を疲れさせることを私はよく知っている。

 

 

 

 とまあこんな小さくて弱い人間の斜に構えた独白集ですが、何か書きたくなった折に戻ってくるくらいのペースで来年も続けていけたらなと思います。

 読んでくれる(物好きな)みなさんには来年も“期待せず”お付き合いいただけたら幸いです。良いお年を。

今日も私は興味のないことを勉強する

 お久しぶりです。

 学祭やら勉強やらその他やらで忙しく、いや現在進行形で忙しいのでなかなかブログを更新する時間が取れなくなってしまいました。

 しかしどれだけ細くなっても書きたいことが尽きるまで(つまり飽きるまで)は切れることはないと思うので、どうかみなさまも飽きるまでよろしくお願いします。

 

 第一こんなに忙しくなったのも理由は大学の勉強のせいである。

 高校までの勉強と違って専門的で、自分の興味がある分野を主にできるのはいいが、それでも「これ本当にやる意味あんの」という講義もある。しかもそういうのに限ってやたら難しかったり必修だったりもする。

 さらにそこで習う知識も現状正しいってだけで今後それが正しいままかというと怪しいものまである。

 私はふと思った。

 勉強や知識の正しい付き合い方・取るべき立場とはなんだろうかと。

 

 

 今の私は「わかっていることとわかっていないことの境界をなくす」のが正しい知識の付き合い方だと思っている。

 いや逆だろと思うかもしれないが私はむしろこの境界こそが全ての元凶だと感じている。

 以前何かの記事でも言及したが、多くの事柄では知れば知るほど知らない部分が見えてくるものである。

 周辺知識とは周辺に言ってみないと見えてこない。

 さっきまでゴールに見えていた地点も立ってみるとまだまだ道半ばということが多い。

 つまり何をいいたいかと言うと私は大抵何も知らない。

 しかし、かといって全てを知らないというわけでもないだろう。

 知っている・知っていないという秤は実は世界と対峙した時そこまで役に立たない。

 世界は絶対的かもしれないが我々は相対的で流動的なのだ。

 だが世界と我々もまたどこに境界があるかはまた難しい。

 やはりここでも私は暫定的で相対的な思考の迷宮に叩き落される。

 

 

 そうなったとき、私が取るべき立場は境界の画定をやめることだろう。

 知っていると思っていることも実はわかっていないし、わからないと決めつけているものも実は知れる可能性を秘めていると、常に確率を認めるべきである。

 そうすれば既知への傲慢も未知への嫌悪も軽減する。

 こう考えるとどんなに興味のない科目でもやっておくことの意義が見えてくる。

 確かに大人になってサインコサインを使う人なんて限られている。

 だかそれを習うことに意義があるのだ。

 「話したことはないけど話そうと思えば話しかけられるくらいの距離感の同期」のような、そういう絶妙な距離感をサインコサインのような知識に対しても取ることができる。

 だいたいそういう人は話さないまま卒業する。

 しかしもしかしたら困った時助けになってくれるかも知れないし、もしかしたら趣味があって心の友になれるかも知れない。

 それもまた流動的で確率的である。

 ただその同期に初めから敵対するのは得策ではないのは間違いない。

 「知らないことを知らない」ということの勿体なさや知識の(あるいは世界の)相対性を教えてくれるだけでも興味のない分野の勉強は意義がある・・・のかもしれない。

 そう自分に言い聞かせて私は今から今週〆切の課題レポートを書きたいと思う。

 

他人を思いやる優しい人たち

 ツイッターやその他SNS、ニュースサイト、掲示板などを見ていると自分とまるで関係のないであろうことにいちいちコメントしている人々を見かけることがある。

 まあこういう人がいるのは理解できる。昔からもそういう人種はいたしネット以外のところでもまま確認できた。

 しかし最近これの亜種というか進化系というかそういう人を見かけることが多くなった。

 それは「自分が当事者かのようにふるまう」人々である。

 

 

 そもそも彼らはどういう理由で何と戦っているのだろうか。

 自分のことでもないのに怒り叫ぶ理由は唯一つ、彼らにとっては自分のことだからである。

 他人のことを考える時、自分のフィールドへの持ってきかたは個性が出る。

 相手の立場に立つことに慣れている人は相手の立場で自分の思考ができる。

 また、自分のことに置き換えて考える人もいる。

 世界なんて大抵は自分以外である。

 だが人によってその世界への没入感はかなり違うということは留意すべきだと思う。

 まさに個人差、個性と言い表せるそれは、その人の世界と自己の線引きの方法の現れである。

 

 

 私ははっきり言ってあまり没入できていない。

 世界の事柄、剰え自分に関係あることでもどこか他人事で引いた目で見ている。

 ある意味で件の人種は未知との遭遇だ。

 彼らは自分のテリトリーへ他の事象を取り込む能力に長けている。

 私とは逆の意味で自分と自分以外の線引きが曖昧である。

 どれだけ関係なくても怒れるし、どれだけ他人の事だとしても忌憚なく発言できる。

 どれだけ色づいた世界が見えているのだろうか。

 

 

 彼らを見て私は2つのことを思った。

 1つは彼らのような存在に気をつけなければいけないということである。

 どれだけお前には関係ないと言っても彼らには通じない。

 そういう人とは議論をすべきではない。議論とは、冷静に、論理的に、そして対等に行うものだ。しかし彼らはもはや当事者である。当事者は当事者同士で話すべきだろう。

 その時私はおそらく当事者にはなれない。潔く身を引くべきだ。

 それが傍から見た時どれだけ対等に見えたとしても。

 

 他人を思いやる優しい人たちの一部には他人が見えていない可能性があることを忘れていはいけない。

 

 

 

 そして2つ目。

 そんな彼らの見えている世界が少し羨ましく見えた。

 

 自分に関係するイベントが起こる人生はどのような景色なのだろう。

 モノクロの世界に安住している私にいつかそんな世界が訪れるときが来るのだろうか。

 

 私はそんな出会いすら他人事のように見ていそうな気がする。

単純に、純粋に、まっすぐに、

 先日、テレビをつけるとフィギュアスケートを中継していた。

 しばらく見ていなかったので見てもいいかなとなんとなく視聴していた私は驚いた。

 当たり前のように画面に今のジャンプの名前や点数、難しさなど、たくさんの情報がリアルタイムで表示されたのだ。

 これまでフィギュアスケートといえば素人目線でなんかすごいジャンプに驚き、なんかすごい点数が出て喜んでいた記憶があった。

 しかしそれも今は昔。どれだけの難易度の技がどれだけの出来栄えでなされたか、技の名前とともに正確にわかった状態で観戦できるのが今のスポーツ実況なのかと感心した。

 偶然見始めた私だが、新鮮さからか好奇心からか、しっかり観戦していた。

 

 ひとりの選手の演技が終わる。

 驚きとともにチャンネルを変えた。

 そこで一つのことに気づいた。

 その選手のジャンプがほぼ頭に残っていなかったのだ。

 

 

 

 技の名前、難易度、点数、そして実況解説。

 たくさんの情報が演技をわかりやすくしていた。

 しかしそれが逆に演技そのものを覆い隠していたのだ。

 以前までの中継はなにもわからないながらも「演技だけ」を注視していた。

 今の中継はわかりやすいながらも「演技を見ていた」というより「情報を見ていた」のだ。

 真にスポーツ観戦をしていたのはどちらであろうか。

 

 

 翻ってラグビーの中継はどうだろう。

 2015年の中継では、何が反則かわからないという場面が多かった。

 しかし今年の中継は反則になるたび字幕で解説が入り、ラグビーをより楽しむことができた。

 フィギュアスケートと同じこと、つまり視覚的情報の増加が起こっているが、ラグビーは今年のほうが格段に楽しめた。

 

 情報というのは自分が思っていたより扱いにが難しいのかも知れない。

 情報は多ければ多いほど良いなんて聞くが、それはいかなる時でも正しいとは限らないと思うのだ。

 情報を通して世界を見ると、案外本質が曇っていしまう場合もあるだろう。

 ぼやけていても、裸眼のほうが意外と本質を見誤らないで済むことがある。フィギュアスケートの中継のように。

 無垢な目で見ないと忘れてしまう純粋さの存在を私ははじめて知った。

 

 とはいっても多くの情報は多いほうが良いだろう。

 情報の多さは今の時代、力だ。

 しかし、この純な存在も忘れてはいけないと思い記事にした。

 力が絶対で無いように、情報の多さが必ずしも正義でもない。

 情報によってい見えてくるものもあれば、情報によって見えなくなるものもある。

 情報に踊らされそうになった時、ふと立ち止まって情報の眼鏡を外し、自分の目で、自分の感覚で対象に触れてみることを忘れないでいたい。

 純粋な本質は純粋な目でしか捉えられない、なんてこともあるだろう。

 

 知ればいいわけでも、わかっていれば偉いわけでも、賢ければ幸せになれるわけでも決してないということを実感した。

 

ちゃんとした人になるために

 今週私はまた失敗した。

 

 前々から思っていたが、私はとにかく油断が多い。

 最後の最後で気を抜いて失敗することが人生で何度もあった。

 もうこれ以上同じ過ちを繰り返したくない。

 そういう動機で筆を執った記事である。

 もしかしたらこれは、私にとっては最も大事で私以外にとっては最もどうでもいい記事かも知れない。

 

 

 

 いつか取り返しのつかない失敗をするかも知れない。

 

 今回の失敗で強く感じた。

 もう子供ではないのに、あまりに注意力がない。

 そういう類の病気を疑いたくなるほどに油断が多い。

 

 この件で過去の失敗を振り返ってみた。

 やはりどの失敗にも「油断」がつきまとっている。

 少し早く課題が終わった時、いつも通っている道を歩く時、中のいい人といる時。

 少しの余裕と少しの慢心が生まれる時、必ず失敗している。

 

 幸運なのは私のスペックだと基本余裕はないことである。

 適度に不慣れで少し焦っている方がむしろ失敗しない。

 

 

 正直人間なんて程度の差はあれどみんなこんなもんだろうとは思う。

 思ってはいるがその程度が問題だとも思っている。

 そもそもこれは個人の問題であるから他人が同じようなものであっても不幸になる時は私1人に災厄が降ってくる。

 それこそここで油断すべきではない。

 

 ではどう対処しよう。

 これもまたありきたりだがとにかく確認するしか無いと思う。

 調子に乗っているときこそ最後の最後でしくじる。

 だから最後は立ち止まって確認する。

 発言する前、提出する前、発表する前。

 うまく言ったときほど疑ったほうがいい。

 自分はそういう人間だといついかなる時も忘れてはいけない。

 普段の道で転ぶのに慣れると、いつしか崖の前でも気づかずに転んでしまう。

 多少無様でも、傍から見たら不格好でも、決して転ばないようにゆっくり歩みを進めるべきなのだ。

 それが自然にできるようになってはじめてちゃんとした人になれる。

 私はまだその2段下にいると自覚しなければいけない。

 

 

 以上、私が自分の弱さを自覚するための儀式でした。

 

解釈に潜む本性

 日常生活で話すとき。

 テレビでおじさんが議論しているとき。

 ネットで他人の意見を見るとき。

 時折とんでもない解釈をしている人を見かける時がある。

 それはもうまるっきりこちらの想像の範疇外の受け取り方で逆に感心するレベルのものもある。

 そしてその逆もある。

 

 

 例えば「日本人がノーベル賞を取った。」という報道があったとする。

 学のない私だと、ああそれは良かったな、おめでとう、位の感想だと思う。

 もしかしたら工学の専門家だとその研究の偉大さを理解して具体的な功績を以って礼賛するかもしれない。

 しかし中にはアクロバティックな人もいるみたいだ。

 曰く、個人がすごいだけで日本人どうこうは関係ないから喜んでいる奴は程度が知れる。

 曰く、その人だけの功績ではない。奥さんはどうなんだ。奥さんへの賛美はないのか。

 私から見たら明らかな曲解を自然に行う人もいるのだ。

 

 ネットで見ただけなのでそれが本心なのかはわからない。

 わからないが、これの小規模版はしばしば日常生活で実感するのだ。

 ここまで解釈に違いが現れるというのは相手は私とどれだけ異なる人生を歩んできたのだろうかと思えるような人も稀にだがたしかに居る。

 

 人の本質は色々なところに漏れ出すものだと思うが、私は特にこの「言外の解釈」が大きいと思う。

 言外という言葉は背景とか含みとかを内包したものだと思ってほしい。

 その言外には話者がいる以上明確な答えがある。

 何かを意図しているか、はたまた何も意図していないか、言葉を発した人には伝えたい(いや、伝えたいと意識していないにしても)正解の言外がある。

 それをどれだけ読み取れるか、それは聞き手の人生の歩み方や人間性によるが、これは聞き手に閉じていることが多い。

 問題はそれからどれだけ言外を生み出したかという点だ。

 これもまた人間性によるのだが、「理解が浅い」のと「理解を生み出している」のには決定的な差があると思う。

 「理解の深度」は人間性の正の部分だとしたら「理解した風の被害妄想」はまさに人間性の負の部分だ。

 いや、実は理解すらしていないのかもしれない。

 自分の考えを言いたいだけで、その考えを言う正当性を言外に見出しているだけなのかもしれない。

 

 

 SNSというものを目にする機会が増えたのだが、これがなかなか面白い。

 オブラートに包んで言えば実に多様性に富んでいる。

 なんというか「むき出しの人間」が垣間見える。

 匿名性の妙か、個人個人が自分の理をそのまま見せている。

 発言者の人間性が短い投稿に凝縮されている。

 だからその人の言いたいことが何よりも優先される。

 話題になっていることでも容易く自分の言いたいことの枕に変える。

 

 

 

 

 故に私は思った。

 きっと私の発言にも私の情報が多分に乗っているんだなと。

 何かを理解し(理解した気になり)、考え、意見する。この一連の流れに自分の情報がどんどん上乗せされているのだなと。

 解釈一つで人間の本性など容易にわかるのだなと。

 

 論理的な考え方と個人の主張というものは水と油なのか、コインの裏表なのか、はたまた矛と盾なのか、それとも優等生と劣等生なのか。

 

 それを知るためには、今の私は人間を知らなさすぎる。

 

『自由』の囁き

 天国のような夏休みが終わり、これがあるべき姿だと言わんばかりに週5の大学生活が再開した。

 ああ自由な夏休みは終わってしまった。

 そんな嘆きを胸に毎日すし詰めの教室へ向かった10月第1週。

 

 しかしなぜだろう、週末には夏休みへの固執はすっかり無くなっていた。

 

 

 人は本質的に自由だ。

 家柄、年齢、金、時間、勇気。

 いろいろな言い訳はできるが、本質的な不自由ではない。

 意思が本能に先行している。

 人間は種が落ちたことろにしか咲けない花ということでは決してない。

 咲きたい場所から花の色まで自由に目指すことができる。

 生まれながらにして自由な存在なのだ。

 ゆりかごから墓場まで、我々の隣にはいつでも『自由』の影がある。

 

 

 しかし、この『自由』という隣人はいつでも我々と友好的なのだろうかと考えるとこれはなかなか深いテーマであると思う。

 いついかなる時も自由が至上かというとそうではないだろう。

 なにより自由というのは疲れる。

 自分で選択することが(あるいは選択肢ないという選択も)自由であり、かつ選択肢も無限大だ。

 人の持つ本質的な自由とはつまり無限大の選択肢から1つを選ばなければならないということなのだ。

 これは非常に疲れる。

 案外一度不自由に身を投じていたほうが楽だったりする。

 

 

 不自由のほうがいいとは決して思わない。

 しかし考え方が自由に囚われるのもいいと思わない。

 本質的な自由には必ず責任が伴う。

 『自由』が我々に囁きかけてくるときはいつも責任とともに現れる。

 自分で何でも選べる、だから間違えてはいけないとか、今の自分が不幸なのは環境が不自由なせいだとか、自分の幸福が自由に振り回されるのはそれこそ不幸である。

 自由による逡巡のせいで、不自由による閉塞感で、心が辛くなることはままある。

 そういう時は『自由』と距離を取ることをおすすめする。

 

 考えることを放棄することがいいとは言わないが、考えれば幸せになれるとは今の私にはどうしても考えられない。

 以前の記事でも言ったが、どうしても辛い時は、考えないことも護身術だろう。

 たまには考えずに前に飛ぶトンボになってもいいと思う。

 

 そして一息つけた時にふと『自由』の囁きを話半分で聞いてみればいい。

 

 『自由』は見えない。そのうえ近すぎても遠すぎてもダメな難しい隣人である。

 

 『自由』との正しい距離感をつかむことは幸福への一歩になるだろう。

 

  

 

嫌わない、信じない、戦わない

 世の中には多種多様な人がいる。

 いい人、悪い人、優しい人、優しくない人、面白い人、面白くない人、正しい人、正しくない人、等々。

 口に出さなくても心の中では様々な尺度で他人を測る。

 これは損得勘定という意味もあるがそれだけではない。

 この人といると楽しいとか、この人ならまた遊びたいとか、そういうポジティブな意味でも他人を無意識的に測る。

 これは私だけではないと思う。

 仲良くなるにしても、そうでないとしても、とにかく他人と関わるならどこかで他人を「極めて自己中心的」に評価する。

 もっと相手を知りたいという欲望の根源はここにある。

 もっと相手を知って他人の自己評価を正確なものにしたいのだ。

 

 

 この「極めて自己中心的な他人品評」というものは、性質上知りたいと思っている相手の評価のほうが情報が多く、評価の信憑性が増す。

 逆に言えば、知りたいと思えない相手の評価はそこまで信用に値しないと言える。

 つまり他人を嫌いと評価する、敵判定することは盲目的になり実はかなり危険なことなのだ。 

 

 

 ではどうすればこの安易な品評を避けることができるか。

 これは簡単で相手を嫌いにならなければいい。

 ・・・・・・

 確かにそうだがこれが実現可能なのかが問題だ。

 私はこれがある補題を以って実現できると思っている。

 

 

 本当に敵になるような悪意を持っている人はそう多くない

 

 一見敵に思える人が本当に自分に悪意があるかは一考の余地があると思っている。

 なぜなら悪意を持つというのはそれなりに時間と体力と動機がいるからだ。

 真に悪意のある敵というのは存外少ない。

 つまりどういうことかというと気に食わない奴の多くは真の敵ではなく「気に食わないただの他人」なのだ。

 

 そう思うと「他人を嫌わない」というのはまるっきり不可能というわけでもないと思えてくる。

 相手は自分に悪意がないのだ。ただ好意がないだけで。

 反りが合わないなら関わらないのが吉だが、そうは行っていられないのが社会だ。

 だか全人間を敵か味方かに分類する必要もない。

 安易な分類をするくらいなら安易に未分類にしたほうがよほどいい。

 

 ある意味未分類とも言える「好意なき悪意なき他人」という人々。

 接することを避けられない時どう接すればいいか。

 今の私はこう考える。

 

 

 「嫌わない、信じない、戦わない」

 

 

Xを伴う諦め

 この人が何を言っているのか理解できない。

 この文章の言っていることは考えられない。

 どうしてそんなことが言えるのか。

 どうやったらそんな考えに至るのか。

 自分の考えの及ぶところの埒外の考えに出会った時、その瞬間には人は諦めるほかない。

 

 

 これは自分の勉強不足だ、明らかにそれを理解するために必要な予備知識、経験、頭がない。

 自らの不備を悟った時、自虐的諦めを伴い理解をやめる。

 必要な材料を揃えにいくもよし、なかったことにするもよし。

 どちらにせよ、私は比較的ポジティブな気分でその諦めを受け入れることができる。

 何と比較しているかというと冷笑的諦めだ。

 

 

 あ、この人とは話の次元が違う。見えている世界に克服不可能な決定的差異がある。話していても、読んでいても仕方がない。「これはダメだ」、そういう気分になる。

 以前も何かの記事で言ったが、お互いの持っている世界観にある程度の共通部分がないと、些細な部分ですら相互理解に支障が出る。

 この世界観の違いは自然言語の使い方(理解の仕方)を生むためどうしても会話での相互理解が厳しくなる。

 

 辛辣な言い方をするとお互いかかわらないほうが幸せなのだ。

 そういう人への諦めはしばしば冷笑を伴う。

 なにを言いたいかわからない(言っている内容のレベルが低くて)、というように心のどこかで下に見ている。

 少なくとも私はそういうことを感じたことがある。

 明らかに思慮が足りていない発言をネットで見かけたり、なぜか言わんとしていることが通じない相手がいたりする時、心の中。で見限りに近い感情を抱く。

 非常にネガティブな諦めとともに理解を投了するのだ。

 

 

 しかし諦めるのは良くない。理解しようとしないのは甘えだ。

 そう言っておくのがこういう類のブログの正解なのかもしれない。

 だがこのブログは夢物語ではない。

 あくまで今の自分の考えの備忘録である。

 だから今の考えを素直に書きたい。

 

 理解不可能と思われるものからは諦めて逃げるべし。

 

 前者のポジティブな諦めはまだしも、後者は正直理解しようと奮闘しても百害あって一利なしだ。

 人類の系と比べて自身の見識の狭さを知った時、そもそも理解できない他人がいることのほうが自然に感じられるのだ。

 確かに違う考えの人との交流は新たな知見を生む。

 しかし閾値を越えた差異がある人との交流はそもそも交流出来ているか怪しい。それはどちらかというとすれ違いに近いだろう。

 

 理解できないものもあると認めてこそ理解できるものを大切にできる気がする。

 いや、理解できるものとできないものを画定することが実は真の理解、なのかもしれない。 

 

比較からの解放

 今の時代、誰でも自分を発信することが可能になった。

 何をした、何を食べた、どこに行った、そしてどれだけ楽しかったか。

 いつでもどこでも簡単に発信できる時代である。

 そして誰もがそれを見られる時代である。

 これらの情報は自分にほぼ価値のないことが多いだろう。

 友達が旅行に行って楽しもうが、家で寝ていようが、自分の幸せの感じ方にはなんの変化もないはずだ。

 だが友達がこれらを「発信」し、それを自分が「知った」時、その情報は『比較対象』になりうる。

 

 

 SNSの隆盛による情報の氾濫は比較対象の急増と捉えられないだろうか。

 いつからか、「知りたい情報を知りに行く」時代から「知りたくもない情報すら目に入ってくる」時代になってはいないだろうか。

 

 

 

 

 SNSがない時代、私はこう感じたことがある。

 それは中学生だっただろうか。

 

 

 楽しさを比較した瞬間、それは楽しくなくなる、と。

 

 いかに自分が楽しく過ごしていたとしても、ふと他人が自分より楽しそうにしていると、今までの楽しさが雲散霧消する感覚に陥る。

 もちろん他人の楽しさと自分の楽しさは全くの無関係だ。

 

 

 それでも、楽しそうにしている他人が、自分のつまらなさを嘲笑しているように思えるときが私にはあるのだ。 

 

 

 なぜそう思うのかはわかっている。

 自分に自信がないからだ。

 だから自身の楽しさを絶対評価できない。

 心の弱さから他人と比較してしまう。

 そこに待っているのは、頽廃だ。

 足元を見ながら螺旋階段をひたすら下るしかない。

 

 

 今も多分、心のどこかで同じように感じていると思うのだ。

 ただ年をとって、自分の心を偽るのが上手くなっただけで。

 

 私はいつになったら比較から解放されるだろうか。

 いつか本当の楽しさを知ることができるのだろうか。