翳りゆく足元
お久しぶりです。生きております。
本当は色々書いたり、考えたり、殴り書いたりしたいのですが、どうも最近忙しくて全く落ち着いて筆を執ることができません。
そんなわけで手短だが最近思ったことを。
幸せとは"目的を持つ"ことなのではないか。
何かを買う時、実際にその品を手に入れた時より何を買うか悩んでいる間のほうが楽しかったり、遊ぶ日当日より前日のほうがわくわくしたり、将来を見ているときのほうが今を見ているときより楽しいという事例が多々ある。
これは案外真理を捉えているのではないかと思う。なにかになりたいという夢を持っていた小学生の頃のほうが目が輝いていたように思える。目指す大学があったあの頃のほうが世界が明るかったように感じられる。
将来に希望があれば、それがどれだけ小さいものでもたしかに未来に位置していればそれは前を見させてくれる。
大学に入ったはいいもののよくわからない課題をさせられ、かと言って自由に研究していいと言われても何かしたいこともなく、しかし働きたいとは決して思わない、そんな私は何の目的もなくただ暗い足元だけを日々見続けている。きっとその影はうつむく私の影だろう。わかっていても前を見るきっかけがないのだ。
私に前を見させてくれる何かは果たしてこの世界にあるのだろうかという不安と焦燥が日々私を襲う。
好きなものを見つければいい。人はそう言う。
だが私には、その方法がわからない。
弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく
お久しぶりです。新年度になりお勉強についていけなくなった大学生です。まぁそもそも授業という授業がそんなにないんですが。
最近気付いたことがある。人間、弱っていると自分でもよくわからないことをするということだ。
正確には自己の正当化・保身のために人は無意識に色々なことをやっている(のだろう)ということである。
先日、私は何時間も中学高校向けの数学の動画を見続けていたことがある。それも無意識的に。
もちろん内容はたかが知れている。いくら不学な大学生とは言え中学高校のレベルの話は理解している。
つまり私は新しいことを学ぶためにその動画を見ていたのではない。その学び以外の何の目的もない動画を学び以外の目的で延々見ていたのだ。それはなんだろう。
我に返って、それは判明した。
「下を見て安心していたのだ」と。
先日、また有名人が炎上していた。深夜のラジオでの発言がどうとかで炎上したらしいが私は無関係のことだと思ったので特に情報を深追いすることはしなかった。
だが、ふと思った。私に無関係と言ったが、炎上させている人々に『関係者』はどれくらいいるのだろうか、と。
有名人と言っても私には関係がない。ましてや深夜のラジオだ。聞いたこともない。
あの炎上騒動で、件の深夜のラジオを聞いていた人はどれくらいいたのだろうか。
弱い人間が救われる方法には3つあると思う。
ひとつは自分が強くなること。弱い人間でなくなればそもそも問題は消滅する。それが実行できる人間が果たして本当に弱いのかは置いておいて。
ふたつめは、自分より下を見ることである。
それは確認するだけでも、思い込むだけでもいいし、攻撃まですることもあるかもしれない。
ネットであまりに荒唐無稽な攻撃をみかけたり、支離滅裂な論を声高に発信している人を見て、ちょっと考えればおかしいことくらいわかるだろと思う場面がある。
しかしそれはそう思えるだけ自分が強いのだ。
これは驕りとかではなく、人間の性質的に追い詰められれば必死になり視野が狭くなり論理的でなくなる。
彼らは必死なのだ。自分は上だと主張することが。本当に上の立場の人が決してそういうことをしないということに気づけないくらい必死に。
そしてそれは私にも常にしていることなのだ。
形は違えどはたから見れば嘲笑されるようなことをして精神の安寧を保っている。はずなのである。まぁそれが何かは本質的に気づけないのだろうけど。(このブログなんかその筆頭である)
炎上だってこれに類すると思う。
コロナのストレスのはけ口で過剰に叩かれているというのもあると思うが、そもそも誰かを叩くことがストレスのはけ口になりうるということが、弱者叩き(ここでは反論してこないという意味)という行為が持つ自己保身の側面を示唆している気がしてならない。
世界はあらゆる場面で階層構造をなしている。貧富の差もそうだし、人間的な強さもそうである。
だからいつでも私より下がいて、私を見下げている上が存在している。
しかし、そこで必死に下を探すか、少しずつでも上を見るかはその人次第であろう。
私は……まだ無意識に上を見られるほど心が強くないみたいだ。
人というものは日常的に矛盾しているもので、自分で下を見て安心しているはずなのにその行動で落ち込んだりする。
いや、それも私の弱さに起因するものかもしれないので「人」という大きな主語に仮託することはやめておいたほうがいいかもしれない。
ただしかし、これは断言できる。
どんな人間も、必ずどこか弱い心を持っている。
そうでもなければこんなにも長い間、そしてこんなにも広い世界の人間が神を生み出したり続けはしないだろう。
そう言えば3つめを言っていなかった。
弱いものが救われる方法の3つ目は、
自分より絶対的な「上」の存在を信じ崇めることである。
これからも適度な「上」を目指して行きていきたいと思う。
ではまた浮上した時に。
不自由主義
お久しぶりです。
コロナのおかげで引きこもりが加速し、精神がダークサイドに落ちていましたが何とか帰ってきました。
さて、今のコロナによる種々の自粛で多くの人が時間を持て余していると思う。
働いている時、勉強している時は時間がほしいと思っていたのに、いざまとまった時間が降ってきたら手持ち無沙汰になる。
私はこの機会に自由とはなにかを考えた。
なんの束縛もない状態、と言ってしまえばそれまでだがそれではつまらない。
なんてったって時間は山ほどある。
まず思ったことは「自由」に肯定的な定義を与えることが難しいということだ。
束縛がない、拘束がない、支配がない、強制がない。
どれも不自由の補集合として「自由」を言い表している。
不自由でない状態があってこそ自由があるのだろうか。
不自由が自由を規定しているのだろうか。
本当は自由は非"不自由"と言うべきなのだろうか。
とにかく「自由」は案外掴みどころのない概念のように思われる。
次に思ったことは、果たして上で述べた状態、つまり拘束・支配などがない状態が普遍的な自由なのかということである。
実はこの疑問が自由を考える端緒になったと思っている。
なぜなら今の日本の状態を考えた時、それまでの日常と比べて明らかに束縛がなくなった。
時間的束縛も身体的束縛も減った(私がインドア派だからかもしれないが)。
外出自粛といっても家を出たら殺されるわけではない。
確かに外で活動することが趣味の人という人は不自由になったと思うだろう。
しかし家の中でも自由はある。少なくとも束縛・支配はない。
だがなぜだろう、自由を積極的に感じることがほぼ無い。
何もないという状態は自由ではないのだろうか。
何かの否定が自由を肯定するわけではないのだろうか。
最後に私は考えた。
では自由を感じる時はいつだったか。自由と言われているものは何だろうか。
私は一つ思いついた。
学校の自由時間。
たしかに自由と呼ばれているし、当時はあの時間に不自由を感じたときはなかった。
間違いなく(勉強という)束縛はなかったし、自由に外で遊んだり、自由に教室で友達と話したり、自由に図書室で本を読んだりできた。
そう、あの時は確かに自由を感じていた。
だが今考えるとあれは自由だっただろうか。
外と言っても校庭どまり、自由と言っても教室でゲームができたわけではない。
そこにあるのは手遊びのボールや少しばかりの土地と遊具くらいである。
でも確かにあの時私は自由を享受したと思っていた。
それはなぜだろう。
授業がなかったからだ。
学校という空間がイコール世界だと思っていたあの頃、椅子に座って授業を聞くという状態が「不自由」の総体でありそれ以外が明確な自由だった。
教師が決めたルール、社会が決めた枠組み、他人が決めたうちでの「自由」、それが私にとっての自由だった。本当は面白いほど不自由なのに。
自由というものを考える時、絶対的なものとして自由を捉えようとすると誤った結論に至りかねない。
自由とは例えて言うなら温度なのだ。
本州の冷蔵庫が食材を冷やすためのものであるのに対し、北海道の冷蔵庫は食材が凍るのを防ぐためのもの(=食材を温かい状態にする)であるように。
この時本州の食材が不自由とか北海道の食材は自由とか、そういう話をしても意味がないのと同じで、自由も環境との、過去との、他人との相対的評価で初めて規定されるものなのではないだろうか。
ここで面白いことが見えてくる。
まずは「自由と不自由の距離」だ。
自由とは相対的である。
つまり状態・時はいつでも自由になり、いつでも不自由になれるのだ。
これは以前も似たような記事を書いたが、真の自由とは玉ねぎのようなものであり不自由という皮をいくらむいても自由という実体は残らない。
ここまでがたまねぎ(の内部)と判断したところがたまねぎであり、いつまでも真のたまねぎは手に入らない。
つまり真の自由(=絶対的自由)とは無限遠に存在する概念であるのだ。
しかし自由はどこにでもある。その不自由を自由と思えるようになったその瞬間から。
そしてもうひとつ。
わかりやすい自由・用意に手に入る自由とは誰かの用意した自由ということである。
今そこにあるスマホもパソコンは、インターネットのサービスは、果たして私たちに「本当の自由」を与えてくれる道具・環境なのだろうか。
それとも「自由」と思わせるための、思考を奪うための道具なのだろうか。
この記事でただひとつ確信を持って言えることは、そういう道具・環境を売っている人は、深く考えないでお金を払ってくれる人を上客と呼んでいる。
余裕なき者の叫び声
生きていると、どうしても納得できない言葉、どうやっても反りが合わない人に出会うことが多い。
ネットが発達したおかげでその頻度は増したかも知れない。
そういう相手の存在は何をやっても変えることはできない。
しかし自分の心の持ちようはいくらでも変えられる。
今回は「余裕」と「攻撃性」の関係についての私の考えをまとめたい。
自分と気が合わないものと対峙した時、どれだけスルーできるかというのは無用な不幸の回避にとても重要であることは明白であろう。
世界にその人とふたりきりというわけでもない限り、別にその相手と戦う必要はない。
ただ目を伏せてスルーすればいい。
そんな当たり前のことをなにをいまさらと思うかも知れないが、現状のネットを見てみるとこれを忘れている人が山ほどいることがわかる。
自分と意見を異にする存在をスルーできない、自分が気に食わないものを排除しないと気がすまない、そういう不寛容な人がたくさんいる。
いや、昔からいたというのが正確だろうか。
少なくともネットの台頭がそういう人に発言権を与えた。力を制御する方法を知らない(する気がない)人にも平等に力が与えられたのだ。
与えられた力を、自らを抑制することに使わず他者を攻撃することだけに使う人が過度に存在感を得てしまったのだ。
なぜ彼らはスルーできないのか。なぜ嫌いな他者を攻撃・排除しないと気がすまないのか。なぜ自分以外の正義を認められないのだろうか。
どれも「余裕」がないからである。
他者を攻撃するという行為でしか自分を正当化できない。他者を排除しないと自己を防御できない。
なぜなら他者を受け入れられるほどの余裕がないからである。
なぜ余裕がないか。受け入れてもなお確固として存在できるだけの自分がないから排除するしかないのだ。
どれも余裕がないのだ。自分に余裕がないから他人にも寛容になれない。
そういう人はこれもまた自分への自信のなさから何かしらの大義名分を被って自身の攻撃を正当化する。
自分が嫌いなものに色々な理由をつけて攻撃し続ける。
そういう人には論理的な解決を見込めない。
なぜなら攻撃することが自身を確立する唯一の方法であり、攻撃が目的であるからだ。
変革を求める攻撃ではない。余裕のないものの悲痛な叫びなのだ。
叫び声に論理性などない。
ただ、ただ自分の存在に対する自信のなさがそうさせている。
余裕のなさが次なる余裕のなさを呼ぶ。
余裕のなさが攻撃性につながるとすると問題はどうすれば余裕を持ち続けることができるか、ということだろう。
この答えはいくつかあると思う。
そのうち今の私が思っているふたつを挙げたいと思う。
ひとつは自信を持つこと。
以前から言っているが、なにか1つ誰にも負けないと言うような自らの軸になるような自信を持つことは、大きな余裕を持つことにつながると思っている。
しかしそれを持つことが難しいというのは痛いほど知っている。
だからもうひとつの答えを示したい。
それは「諦める」ことだ。
他人に対して、未知に対して、諦めるということは余裕につながると思う。
もちろん安易な諦めは向上心を失うことになり良いとは言えない。
しかし、特に他人に対しては諦めは寛容さにつながる。
本当にわかってほしい相手ではない限り、相互理解を諦めることは悪いことではない。
わからない人とはどこまで行ってもわかりあえないのだ。
そういうときは諦めてもいいのではないだろうか。
「どうでもいいじゃん」の一言で解決する相手は結構いると思うのだ。
諦めたら試合終了と言うが、するべきではない泥試合を回避するには諦めというのは実に有効に思える。
諦めるためには世界を広く見ていないとできない。
ここを諦めてもまだ分かり合える世界があると思っていないと一つのコミュニティーに固執してしまいがちだ。
学生が自殺したニュースを見て「生きていれば楽しいことが色々あるのに」という意見をするのは実は見当違いで、それが言える人と自殺した人は同じ日本だとしても見えている世界・生きている世界が全く違う。
今の世の中昔より選択肢の多さという観点ではかなりの余裕がある。
それでも余裕がないように感じられるのは個々人の自信の喪失が一因に思えてならない。
余裕、自信、力
先日成績発表があった。
私は留年するということはなかったが、余裕で卒業できそうというわけではないというような悲喜交々な結果だった。(GPAとかを考え出すと悲が割合多そうだが)
他の人の話を聞く。
ある人は余裕で卒業単位が揃いそうだから気楽だと。
ある人は留年決まったけどまぁいいやと。
ある人は私と同じくらいだけど大丈夫でしょと。
ある人は私より単位を持っているが気を抜けないと。
色々な感情で成績表を受け取っていたようだった。
時間、お金、心、単位、勇気、等々。
人は色々なものに対して余裕があり、様々なものに対して余裕がない。
人によって「余裕」の感じ方は違うだろうし、同じ人でも年齢によっては「余裕」の定義は変わってくるだろう。
私は思う。
余裕を持つというのが人生を楽しむ第一歩なのだ。
単位なんていう人生に置いて大学生活4年間でしか使わないようなものですら余裕のある人とない人の見え方が全く異なる。
実際に単位を持っているかではない。単位に対する、大学生活に対する余裕の違いが問題なのだ。
実際は単位に余裕があるわけでないとしても、どっしり構えている人は傍から見ると頼りがいがあるように、魅力的に見える。
きっとそれは本質を見ているわけではない。
だが余裕のある人にはそう思わせる力がある。
余裕とは何だろう。
ある人にとっては余裕を感じられる状態でも、ある人にとっては余裕に感じられないというものは往々にしてある。
私の貯金を見て、余裕を感じる人もいれば、よくこんなので大丈夫だねと言ってくる人もいるであろうことは想像できる。
余裕とは真に主観的な感情である。
十人十色千差万別、私と同じ「余裕」の定義の人はこの世にいない。
さらに相対的なものである。
今の私と10年後の私の余裕は全く違うものになっているだろう。
つまり余裕とは純度100%の感情である。ただの気の持ちよう、なんの根拠もない感情である。
しかし、完全なる根拠なき感情故に人生の楽しさに直結してくる。
楽しさに根拠はない。
楽しいから楽しいし、辛いから辛いのだ。
あいつのせいでとか、あの件のせいでとか、色々外的要因はあるがそれらを受け止めるのはいつでも心であり、その出力は感情である。
単位がいい例であって、私の単位を十分あるじゃないかと捉えるのも、切羽詰まってるじゃないかと捉えるのも、その人の心次第である。
この心は性格と言い換えてもいいかも知れない。
ただなんとなく性格と言うと不変な感じがするからここでは心といいたい。
花を見て綺麗と思うのも雑草が生えて迷惑と思うのも、他人の快挙を見ておめでとうと思うのもなんであいつだけ注目されやがってと思うのも、どれもその人の心の持ちようで決まり、その心を決定するものこそ「余裕」なのだと私は思う。
心の余裕が他者への余裕になる。
一つの余裕が次なる余裕を呼ぶのだ。
ではその「余裕」はどうしたら持つことができるのだろうか。
これに対する簡単な答えはないだろう。
だが列挙はできるかもしれない。
例えば自分に自信を持つこと。
自分に自信があればその自信を持つ何かに対しての余裕が生まれ、それが新たな余裕を生み出す。
じゃあその自信はどこから生まれてくるんだとなるが、それはもう「力」だろう。
他の人に負けない卓越した能力、誰にも真似出来ないような努力、どんなものにも動じない胆力。
この世界には様々な「力」がある。
きっとなにかひとつでもいい。
なにかひとつでもこれだけは、という「力」があれば、それが人間の支柱になり、自信になり、余裕になるのだろう。
今の日本にはどこか余裕がないように感じられる。
まあ私が言えた義理ではないのだがもしかしたら理由は同じなのではないかと思うときがある。
何か、何でもいいからこれなら世界で負けないという「力」を見失っているのではないか。
根拠のない若者の自信を持てるほど国が若者ではなくなってしまったのではないか。
本当のところはわからない。今の日本を知っているとはとてもじゃないが言えない。
だが案外こういう個人のミクロな感情と国というマクロな現状が一致することもあるかもしれない、なんて思うときもある。
相変わらずよくわからない着地をしてしまったがとにかく今の私の余裕に関する所感をここにメモした。
余裕を与えてくれるものは様々あるだろう。
今の私は力くらいしか思いつかない。
力は余裕を与えてくれる。
余裕がないと嘆く前に自身の力を見てみるといい。
きっとそこにはなんの力もない。
努力が人に自信を与えてくれる。それが余裕になる。
その心の余裕が他者への余裕になり世界への余裕になり人生への余裕になるのだ。
だから私は早く努力できる何かを見つけるべきなのだ。
最近いつもこんな結論になってる気がするが、まぁ徒然なるブログなのでこういうのもいいだろう。
早く人生を楽しむ余裕を手に入れたいものである。
十知るよりも一動け
生まれて20余年、色々なことを知った。
その一部のさらに一部はこのブログにしたためたが、それでも学びは尽きないだろう。
大学の勉強のような専門的なもの、哲学のような普遍的なもの、人間関係のような流動的なもの、そして自分のこと。
どれも全体の片鱗しか理解できていない。
だからこれからも学びという知的活動は死ぬまで終わらないと確信している。
これまではそう思っていた。
しかし現状の私はまだなにも学んでいなかった。
書籍・テレビ・会話を通して考えを改めることは多くあった。
気付いたことをメモして忘れないようにもした。
だがそこに何か行動が伴っていたことはあっただろうか。
知っただけで学んだ気になっていたということはないだろうか。
恐らく私はそのへんの人に比べて頭に知識を取り込むことに長けている。
私自身はそう思っていないが、これまでの世間の評価を見るときっとそうなのだろう。
だから知らないことを知ることも、知っていると思っていたことをアップデートすることも、きっと得意なのだと思う。
だが、いや、それ故に、知ることに比重を置きすぎているように思った。
私より知識に厚みのない人でも、私より思考が浅い人でも、私より行動している。私より結果を出している。
私は何をしただろうか。知識を備えるばかりで知識を腐らせてはいないだろうか。
頭にはちょっとした知識があるかもしれない。だか手は何かを掴んでいるだろうか。
どうも今の私の手のひらは空っぽに思えてならない。
知識が全て活かせるとは思っていない。むしろ活かせる一部のために行かせない大多数を受け入れているとさえ思える。
しかしそれでも知識とは活かして初めて意味がある。
知識をどれだけ実践知に変えられるか、それが本当の頭の使い方だろう。
頭は保管庫ではない。司令塔なのだ。
どれだけ四肢に有効な行動を司令することができるか、それが大事だと心の底から思う。
「知る」ということは「学ぶ」ということの第一歩に過ぎないのだ。
皮肉にも色々知れば知るほど臆病になる。
いや、臆病だから知を求めたのだろうか。
それはわからないが、これまでの私はあまりに頭でっかちになっていた。
行動の伴わない学びに甘んじていた。
今日からそれを改めよう。
これから座右の銘は「待てば海里の日和あり」から「十知るよりも一動く」に変えたいと思う。
人を敬うということ
小中学生の頃、私はお世辞にも優等生ではなかった。
おそらく学校の中でも上位数%に入るくらいに勉強はできたし、周りの友達よりいつもテストの点数は良かった。
それを鼻にかけることはなかったが、心のどこかで驕っていたのは間違いない。
その驕りは他人を軽視することにつながっていた。
特に教師には、今思うとかなりひどい態度をとっていた。
ただ年上というだけで偉そうにしていることが気に食わなかった。
実際は俺より頭悪いのになんて思ったことも少なくない。
それくらい驕っていて、それくらい他人を小馬鹿にしていた。
高校に入り周りの友達も同レベルの頭になり、反抗期も次第に終息していった。
自分より頭のいい人がたくさんいる事実を知り、絶望し、そして自分の考え方や振る舞い方が変わった。
人間の価値は勉強だけではないことを悟り、そもそも人の価値を測れるほど自分は大層な人間ではないことを悟った。
だから私は人の性格を見るようになった。
人当たりのいい人とは友好的に、攻撃的な人とは敵対とはいかないまでも関わりを絶った。
そもそも勉強のレベルについていくのに必死で全体的に人付き合いが希薄になっていったような気もする。
だが今思うとやはりここでも多少の驕りはあったのだろうと思う。
人を見る目はあると思い込み、表面的な人当たりだけで他人の本質を見抜いた気になっていた。
大学に入り、周りは自分より優秀な人しかいない環境に人生で初めて立たされることになった。
私が過去バカにしていた「頭の悪い人」の役が自分に回ってきたのだ。
こうなるともう人を測るどころではない。
しかしこうなると勉強とか知能とかそういう呪縛から解放されて人と接することができるようになった。
解放というか自分がその尺度で戦えなくなって逃げただけなのだが。
とにかく驕り昂りは一切なくなり、初めて人とのかかわりに敬いが生まれた。
だがその敬いは実態がなかった。
相手を敬うのではなく、自分を卑下することに起因する尊敬の視線だった。
その敬いは相手を知ろうとする前に盲信する、形を変えた軽視だったのだ。
大学生になってしばらく経った今、ようやく他人という存在を許容できるようになった。
長所を見つけ、それをリスペクトできるほど人間はできていないが、少なくとも攻撃的な感情も全面的な拒絶せず、フラットに接することのできるくらいの余裕はできた。
そう余裕なのだ。
私はようやく対人関係においての余裕を手に入れることができた。
これまでは余裕がなかった。
勉強が多少できるというただそれだけにすがっていたあの頃も、自分より勉強できる人がこの世にはごまんといるという事実を知ったあの頃も、自分が勉強できない役回りをすることになったあの頃も、ただただ余裕がなかった。
昔の私に余裕がなかったのはなぜだろうと考えると、やはり当時の私は何も知らなかったのだ。
もちろん今も知らないことは多いが、少なくとも知らないことが多いと言えるくらいには知っている。
当時は見えている世界があまりに狭く、あまりに自分本位だった(年齢的にしかたないところもあるかもしれないが)。
世界の中心の世界の頂点で周りを俯瞰しているような錯覚にとらわれていた。
驕りが目を曇らせ、視界の狭さに気づけないほど心が狭かった。
私は弱い人間なのでこの驕りに再び視界を遮られる可能性は否定できない。
なんてったって今は情報社会。調べればすぐ知った気になれるし、発言しようと思えばスマホ1つで世界に発信できる。
世界の中心にいる錯覚はいつもすぐそばの足元に転がっている。
さらに自分より優秀な人の存在が世界規模で把握できる。
いつでも驕れ、いつでも絶望できるのが今の時代なのだ。
そのときまた私は人を敬えなくなるかもしれない。
他人を許容できる余裕と他人の深層を推し量るリスペクトがなくなるかもしれない。
だから戒めのために記事を書いた。
他人に対する余裕は自分の心の余裕に比例しているということを忘れてはならない。
他人の見え方はいつでも己の鏡なのだ。
0は1と100を見つめる
朝、起きてスマホを開くとそこには知り合いのツイートが流れている。
昼、大学には顔だけ知っている学部の知り合いがたくさんいる。
夜、サークルの飲み会には仲のいい人が数人いる。
寝る前、ツイッターにたくさんいる知り合いを見ながら独りに戻る。
我々の人生の場面の多くは一対多である。
多くの人と関わり、多くの評価をされ、多くのものに興味を持ち、多くのことを学び、多くのことを忘れ、多くの人に忘れられる。
SNSのおかげで学部の人、それ以外の人とのつながりはそれなりにできた。間違いなく人生で最も知り合いが多い。ツイッターで呟けばいいねされることも多い。
しかしなぜだろうか、時々そのつながりが虚しく感じる。
その虚無感は不思議にも孤独でいるときよりも強い。
私は考える。
私は多くの人から何かを得ているのだろうか。それとも多くの人に奪われているのだろうか。
多くの人と知り合うことはできた。それは間違いない。
ただしそれがあまりにも希薄なのだ。
誰が書いても同じ文字列と誰が推しても変わらないいいねしか届かない。
人間とコミュニケーションしているのか、システムとコミュニケーションしているのか、もはやわからない。
さらに悪いことにSNSでは他人同士のつながりも可視化される。
希薄なつながりはむしろ孤独を浮き彫りにしてくる。
これは私の錯覚なのだろうか。
今や100人とつながることはさほど難しくない時代になった。
ただ私はこのつながりの意味を問う。
その100は実体なのだろうか、と。
本当に見るべきはそこにはいない1なのではないだろうか、と。
勉強だってそうだ。
100個の分野の窓は休日1日でもあれば余裕で覗くことができる。
だがその知識の広さに価値はあるのだろうか、「何でも知っている何も知らない人」になる意味はあるのかと考えだすとまた私は0に戻ってしまう。
人はいつだって0だ。そして100にもなれる。
しかし本気で愛せる1を見つけることは今も昔も未来も容易なことではない。
もしかしたらその1を見つけることが人生の意味なのではないだろうか。
その1を人は幸せと呼ぶのではないだろうか。
それは今の私はわかるはずがない。
しかし、これだけは常に感じている。
0から見ると1を持つ人はとても輝いて見える。
受け流すこと柳のごとし
あけましておめでとうございます。
社会人になるデッドラインが日々近づいている事実にただ震えています。
正月ということで実家では親戚が一堂に会して宴会が行われた。
その時は私の酒を飲んでいたので何を話したのか何を聞いたのかあまり覚えていない。
しかしそんな中でも祖父の話はとても記憶に残っている。
「どうでもいいことを聞き流せるようになるくらいには色々話を聞いておけ」
前提として人の話は本気で聞く必要がない。
理由のひとつはその発言者がどこまで深い思考を経ているか怪しいからである。
世界の多くの人は哲学者ではない。経験談+αくらいの世間話が発言の主たるものであろう。
それを全力で受け止めるとこちらが痛い目を見る可能性がある。
もうひとつの理由は発言者が他人ということそのものである。
その意見がどれだけ正しいとしてもその正しさが約束されているのはその発言者が生きる世界の中である。
では人の話なんてまるっきり聞く価値がないのだろうか。
決してそういうことではない。
祖父の話はむしろこちらの主張のほうが強いと思い。
違う世界の違う視点の話なんて面白いに決まっている。
それをどう活かせる知識として受け止めるかが聞き手の手腕が問われるところなのだ。
その知識の変換と言うか取捨選択に必要なのはなんだろうか。
これが皮肉にも知識なのだ。
どういう話が聞くに値すべきか、どういう人が話す意見が活用できるか。
これらの見分け方は他人の意見とのふれあいで培われるものである。
自転車の乗り方と同じで自分でやってみないとわからないのだ。
この話を聞いて自分を振り返ってみた。
子供の頃は全ての意見を何のフィルターも通さず受け入れていた。
中学生になって全ての意見を受け入れない時代を経験した。
今は受け入れるか受け流すか、自分ではバランスが取れていると思っている。
しかしこのバランスが完璧とは思っていない。
今や情報の取捨選択の量は夥しいものになっている。
情報の正しさは多くの人が重要だと思っているだろう。
だが情報の有用さはどうだろう。
この尺度は未だ過小評価されているのではないだろうか。
いくら正しくても受け流すべきものもあるし、世間的に正しくないと思われていなくてもそういう考えもあるという新たな視点としての有用さがある情報もある。
そういった「情報の審美眼」をもっと磨いていきたいと思いこれを新年一発目の記事とした。
今年も私の心の枝が折れない程度の穏やかな風が吹く1年になってほしいものである。
精神的に向上心のないものの年越し
年号が変わるというただそれだけの理由で始めたブログだが、気づけばもう9ヶ月目となり、今年も終わるらしい。
なんともまあ早いものだ。
正直こんなに続くとは自分でもびっくりである(最近頻度がガタ落ちしているが)。
さてこの時期になるとやはり考えることは来年のことだろう。
どんな1年になるかといろいろ考えたくなる。
なにかをしたいとか、こんな人になりたいとか、そういう目標や抱負を掲げたくなってくる。
だが私はあえて何も考えないでおきたい。
まず、自分の性格を考えるとだいたい大層な目標を立てても何も達成できない。
それほど人生に真剣ではないし、それほど変わりたいとも思っていない。
そして何より変に期待しているとろくなことにならない。
期待しているとそれを下回った時悲しい気持ちになるが、何も期待していなければ小さいことでも幸せになれる。
ドラマや映画やアニメやゲームでこれを何回も経験している。
たいして期待していないほうがいいのだ。何事も。
裏切られるくらいなら裏切られる期待そのものをなくした方がいい。
いろいろ考えた結果、何も考えないで生きていられることの尊さがわかる。
そんな人生でいいのかは今はわからない。
変わりたくもないのに変わらないといけなくなる時が来るかもしれない。
考える自由も、考えない自由も、きっとかりそめの自由だろう。
しかし、いや、だからこそ大学生のうちはもう少しこれに甘んじたい。
実践なき思考は徒に心を疲れさせることを私はよく知っている。
とまあこんな小さくて弱い人間の斜に構えた独白集ですが、何か書きたくなった折に戻ってくるくらいのペースで来年も続けていけたらなと思います。
読んでくれる(物好きな)みなさんには来年も“期待せず”お付き合いいただけたら幸いです。良いお年を。
今日も私は興味のないことを勉強する
お久しぶりです。
学祭やら勉強やらその他やらで忙しく、いや現在進行形で忙しいのでなかなかブログを更新する時間が取れなくなってしまいました。
しかしどれだけ細くなっても書きたいことが尽きるまで(つまり飽きるまで)は切れることはないと思うので、どうかみなさまも飽きるまでよろしくお願いします。
第一こんなに忙しくなったのも理由は大学の勉強のせいである。
高校までの勉強と違って専門的で、自分の興味がある分野を主にできるのはいいが、それでも「これ本当にやる意味あんの」という講義もある。しかもそういうのに限ってやたら難しかったり必修だったりもする。
さらにそこで習う知識も現状正しいってだけで今後それが正しいままかというと怪しいものまである。
私はふと思った。
勉強や知識の正しい付き合い方・取るべき立場とはなんだろうかと。
今の私は「わかっていることとわかっていないことの境界をなくす」のが正しい知識の付き合い方だと思っている。
いや逆だろと思うかもしれないが私はむしろこの境界こそが全ての元凶だと感じている。
以前何かの記事でも言及したが、多くの事柄では知れば知るほど知らない部分が見えてくるものである。
周辺知識とは周辺に言ってみないと見えてこない。
さっきまでゴールに見えていた地点も立ってみるとまだまだ道半ばということが多い。
つまり何をいいたいかと言うと私は大抵何も知らない。
しかし、かといって全てを知らないというわけでもないだろう。
知っている・知っていないという秤は実は世界と対峙した時そこまで役に立たない。
世界は絶対的かもしれないが我々は相対的で流動的なのだ。
だが世界と我々もまたどこに境界があるかはまた難しい。
やはりここでも私は暫定的で相対的な思考の迷宮に叩き落される。
そうなったとき、私が取るべき立場は境界の画定をやめることだろう。
知っていると思っていることも実はわかっていないし、わからないと決めつけているものも実は知れる可能性を秘めていると、常に確率を認めるべきである。
そうすれば既知への傲慢も未知への嫌悪も軽減する。
こう考えるとどんなに興味のない科目でもやっておくことの意義が見えてくる。
確かに大人になってサインコサインを使う人なんて限られている。
だかそれを習うことに意義があるのだ。
「話したことはないけど話そうと思えば話しかけられるくらいの距離感の同期」のような、そういう絶妙な距離感をサインコサインのような知識に対しても取ることができる。
だいたいそういう人は話さないまま卒業する。
しかしもしかしたら困った時助けになってくれるかも知れないし、もしかしたら趣味があって心の友になれるかも知れない。
それもまた流動的で確率的である。
ただその同期に初めから敵対するのは得策ではないのは間違いない。
「知らないことを知らない」ということの勿体なさや知識の(あるいは世界の)相対性を教えてくれるだけでも興味のない分野の勉強は意義がある・・・のかもしれない。
そう自分に言い聞かせて私は今から今週〆切の課題レポートを書きたいと思う。
他人を思いやる優しい人たち
ツイッターやその他SNS、ニュースサイト、掲示板などを見ていると自分とまるで関係のないであろうことにいちいちコメントしている人々を見かけることがある。
まあこういう人がいるのは理解できる。昔からもそういう人種はいたしネット以外のところでもまま確認できた。
しかし最近これの亜種というか進化系というかそういう人を見かけることが多くなった。
それは「自分が当事者かのようにふるまう」人々である。
そもそも彼らはどういう理由で何と戦っているのだろうか。
自分のことでもないのに怒り叫ぶ理由は唯一つ、彼らにとっては自分のことだからである。
他人のことを考える時、自分のフィールドへの持ってきかたは個性が出る。
相手の立場に立つことに慣れている人は相手の立場で自分の思考ができる。
また、自分のことに置き換えて考える人もいる。
世界なんて大抵は自分以外である。
だが人によってその世界への没入感はかなり違うということは留意すべきだと思う。
まさに個人差、個性と言い表せるそれは、その人の世界と自己の線引きの方法の現れである。
私ははっきり言ってあまり没入できていない。
世界の事柄、剰え自分に関係あることでもどこか他人事で引いた目で見ている。
ある意味で件の人種は未知との遭遇だ。
彼らは自分のテリトリーへ他の事象を取り込む能力に長けている。
私とは逆の意味で自分と自分以外の線引きが曖昧である。
どれだけ関係なくても怒れるし、どれだけ他人の事だとしても忌憚なく発言できる。
どれだけ色づいた世界が見えているのだろうか。
彼らを見て私は2つのことを思った。
1つは彼らのような存在に気をつけなければいけないということである。
どれだけお前には関係ないと言っても彼らには通じない。
そういう人とは議論をすべきではない。議論とは、冷静に、論理的に、そして対等に行うものだ。しかし彼らはもはや当事者である。当事者は当事者同士で話すべきだろう。
その時私はおそらく当事者にはなれない。潔く身を引くべきだ。
それが傍から見た時どれだけ対等に見えたとしても。
他人を思いやる優しい人たちの一部には他人が見えていない可能性があることを忘れていはいけない。
そして2つ目。
そんな彼らの見えている世界が少し羨ましく見えた。
自分に関係するイベントが起こる人生はどのような景色なのだろう。
モノクロの世界に安住している私にいつかそんな世界が訪れるときが来るのだろうか。
私はそんな出会いすら他人事のように見ていそうな気がする。
単純に、純粋に、まっすぐに、
先日、テレビをつけるとフィギュアスケートを中継していた。
しばらく見ていなかったので見てもいいかなとなんとなく視聴していた私は驚いた。
当たり前のように画面に今のジャンプの名前や点数、難しさなど、たくさんの情報がリアルタイムで表示されたのだ。
これまでフィギュアスケートといえば素人目線でなんかすごいジャンプに驚き、なんかすごい点数が出て喜んでいた記憶があった。
しかしそれも今は昔。どれだけの難易度の技がどれだけの出来栄えでなされたか、技の名前とともに正確にわかった状態で観戦できるのが今のスポーツ実況なのかと感心した。
偶然見始めた私だが、新鮮さからか好奇心からか、しっかり観戦していた。
ひとりの選手の演技が終わる。
驚きとともにチャンネルを変えた。
そこで一つのことに気づいた。
その選手のジャンプがほぼ頭に残っていなかったのだ。
技の名前、難易度、点数、そして実況解説。
たくさんの情報が演技をわかりやすくしていた。
しかしそれが逆に演技そのものを覆い隠していたのだ。
以前までの中継はなにもわからないながらも「演技だけ」を注視していた。
今の中継はわかりやすいながらも「演技を見ていた」というより「情報を見ていた」のだ。
真にスポーツ観戦をしていたのはどちらであろうか。
翻ってラグビーの中継はどうだろう。
2015年の中継では、何が反則かわからないという場面が多かった。
しかし今年の中継は反則になるたび字幕で解説が入り、ラグビーをより楽しむことができた。
フィギュアスケートと同じこと、つまり視覚的情報の増加が起こっているが、ラグビーは今年のほうが格段に楽しめた。
情報というのは自分が思っていたより扱いにが難しいのかも知れない。
情報は多ければ多いほど良いなんて聞くが、それはいかなる時でも正しいとは限らないと思うのだ。
情報を通して世界を見ると、案外本質が曇っていしまう場合もあるだろう。
ぼやけていても、裸眼のほうが意外と本質を見誤らないで済むことがある。フィギュアスケートの中継のように。
無垢な目で見ないと忘れてしまう純粋さの存在を私ははじめて知った。
とはいっても多くの情報は多いほうが良いだろう。
情報の多さは今の時代、力だ。
しかし、この純な存在も忘れてはいけないと思い記事にした。
力が絶対で無いように、情報の多さが必ずしも正義でもない。
情報によってい見えてくるものもあれば、情報によって見えなくなるものもある。
情報に踊らされそうになった時、ふと立ち止まって情報の眼鏡を外し、自分の目で、自分の感覚で対象に触れてみることを忘れないでいたい。
純粋な本質は純粋な目でしか捉えられない、なんてこともあるだろう。
知ればいいわけでも、わかっていれば偉いわけでも、賢ければ幸せになれるわけでも決してないということを実感した。
ちゃんとした人になるために
今週私はまた失敗した。
前々から思っていたが、私はとにかく油断が多い。
最後の最後で気を抜いて失敗することが人生で何度もあった。
もうこれ以上同じ過ちを繰り返したくない。
そういう動機で筆を執った記事である。
もしかしたらこれは、私にとっては最も大事で私以外にとっては最もどうでもいい記事かも知れない。
いつか取り返しのつかない失敗をするかも知れない。
今回の失敗で強く感じた。
もう子供ではないのに、あまりに注意力がない。
そういう類の病気を疑いたくなるほどに油断が多い。
この件で過去の失敗を振り返ってみた。
やはりどの失敗にも「油断」がつきまとっている。
少し早く課題が終わった時、いつも通っている道を歩く時、中のいい人といる時。
少しの余裕と少しの慢心が生まれる時、必ず失敗している。
幸運なのは私のスペックだと基本余裕はないことである。
適度に不慣れで少し焦っている方がむしろ失敗しない。
正直人間なんて程度の差はあれどみんなこんなもんだろうとは思う。
思ってはいるがその程度が問題だとも思っている。
そもそもこれは個人の問題であるから他人が同じようなものであっても不幸になる時は私1人に災厄が降ってくる。
それこそここで油断すべきではない。
ではどう対処しよう。
これもまたありきたりだがとにかく確認するしか無いと思う。
調子に乗っているときこそ最後の最後でしくじる。
だから最後は立ち止まって確認する。
発言する前、提出する前、発表する前。
うまく言ったときほど疑ったほうがいい。
自分はそういう人間だといついかなる時も忘れてはいけない。
普段の道で転ぶのに慣れると、いつしか崖の前でも気づかずに転んでしまう。
多少無様でも、傍から見たら不格好でも、決して転ばないようにゆっくり歩みを進めるべきなのだ。
それが自然にできるようになってはじめてちゃんとした人になれる。
私はまだその2段下にいると自覚しなければいけない。
以上、私が自分の弱さを自覚するための儀式でした。
解釈に潜む本性
日常生活で話すとき。
テレビでおじさんが議論しているとき。
ネットで他人の意見を見るとき。
時折とんでもない解釈をしている人を見かける時がある。
それはもうまるっきりこちらの想像の範疇外の受け取り方で逆に感心するレベルのものもある。
そしてその逆もある。
例えば「日本人がノーベル賞を取った。」という報道があったとする。
学のない私だと、ああそれは良かったな、おめでとう、位の感想だと思う。
もしかしたら工学の専門家だとその研究の偉大さを理解して具体的な功績を以って礼賛するかもしれない。
しかし中にはアクロバティックな人もいるみたいだ。
曰く、個人がすごいだけで日本人どうこうは関係ないから喜んでいる奴は程度が知れる。
曰く、その人だけの功績ではない。奥さんはどうなんだ。奥さんへの賛美はないのか。
私から見たら明らかな曲解を自然に行う人もいるのだ。
ネットで見ただけなのでそれが本心なのかはわからない。
わからないが、これの小規模版はしばしば日常生活で実感するのだ。
ここまで解釈に違いが現れるというのは相手は私とどれだけ異なる人生を歩んできたのだろうかと思えるような人も稀にだがたしかに居る。
人の本質は色々なところに漏れ出すものだと思うが、私は特にこの「言外の解釈」が大きいと思う。
言外という言葉は背景とか含みとかを内包したものだと思ってほしい。
その言外には話者がいる以上明確な答えがある。
何かを意図しているか、はたまた何も意図していないか、言葉を発した人には伝えたい(いや、伝えたいと意識していないにしても)正解の言外がある。
それをどれだけ読み取れるか、それは聞き手の人生の歩み方や人間性によるが、これは聞き手に閉じていることが多い。
問題はそれからどれだけ言外を生み出したかという点だ。
これもまた人間性によるのだが、「理解が浅い」のと「理解を生み出している」のには決定的な差があると思う。
「理解の深度」は人間性の正の部分だとしたら「理解した風の被害妄想」はまさに人間性の負の部分だ。
いや、実は理解すらしていないのかもしれない。
自分の考えを言いたいだけで、その考えを言う正当性を言外に見出しているだけなのかもしれない。
SNSというものを目にする機会が増えたのだが、これがなかなか面白い。
オブラートに包んで言えば実に多様性に富んでいる。
なんというか「むき出しの人間」が垣間見える。
匿名性の妙か、個人個人が自分の理をそのまま見せている。
発言者の人間性が短い投稿に凝縮されている。
だからその人の言いたいことが何よりも優先される。
話題になっていることでも容易く自分の言いたいことの枕に変える。
故に私は思った。
きっと私の発言にも私の情報が多分に乗っているんだなと。
何かを理解し(理解した気になり)、考え、意見する。この一連の流れに自分の情報がどんどん上乗せされているのだなと。
解釈一つで人間の本性など容易にわかるのだなと。
論理的な考え方と個人の主張というものは水と油なのか、コインの裏表なのか、はたまた矛と盾なのか、それとも優等生と劣等生なのか。
それを知るためには、今の私は人間を知らなさすぎる。