とある京大生の人生観

短い人生の浅い感想集

脳を耕す

 早くも前期テスト期間が近づき、一般教養から専門科目まで広く勉強している。

 日頃から勉強していればここまで必死にやらなくてもいいのだが、それができない。

 こんな感じで毎年テスト期間が近づくと慌てて大学の勉強をしているわけである。

 

 

 勉強というのはしばしば運動と対比されるが私は同じようなものだと感じている。

 なぜならどちらも人間の体を使ったのという分類ができるからだ。

 運動では競技をやっていなかった期間にブランクという名前が付いている。

 同様に勉強もブランクがあると結構厳しい物がある。

 やはり知識を忘れるという点が大きい。

 覚えなおせばいいと思っていしまうがこれが難しい。

 数学なら数学の、科学なら科学の脳(考え方)を忘れてしまうのだ。

 勉強のブランクはこの脳を失う危険がある。

 そうなると1から脳を作っていかないといけなくなる。

 当然初学よりは早く回復できるが、初学ではないという驕りから学習が浅くなりがちであるように感じる。

 ブランクは脳という畑を放置するに等しい。

 それを再び畑にするためには案外時間がかかる。

 

 

 

 そしてもうひとつ重要なことがある。

 ブランクというのは言わば縦の視点である。時間という縦の軸を考えている。

 それならば横の軸も見る必要がある。

 つまり科目間の脳である。脳の幅と言ってもいいだろう。

 

 私はこちらの視点のほうが大切だと思う。

 理由はこの横軸は無限だからである。

 時間という軸は2つの意味で有限と言える。

 1つは人生が有限であるという意味。もう1つは時間というものが私固有の視点であるという意味。

 しかし科目は無限である。

 そもそも世界には科目なんて区切りは存在しない。

 世界のすべては有機的に絡み合って、1であり無限大である。

 だから我々の学びというのは、「無限」の世界を「有限」の私的世界に取り込むことと言える。

 つまり、有限で無限と対峙しなければいけない。

 そのためには何が必要だろうか。どういう準備をしておくべきだろうか。

 

 私は「脳を常に耕しておく」必要があると思う。

 

 結局私が知れることなんて有限なのだが、有限でも、いや、有限だからこそ大小がある。

 知識が多ければいいというわけではないのはわかる。

 知識を持つことと活かすことは別問題である。(いずれこれについても触れたい)

 しかし知識を持っていないと始まらないのは事実である。

 たくさん武器を持っていても手は2つしかないので使いこなせる武器を持っていないと意味はないが、丸腰でいるのは論外である。

 「知っているだけでは意味がないよ」と言えるのはたくさん知っている人だけである。

 故に私は常に学べる姿勢でいることが重要であると思う。

 そのためには脳を耕すことを止めてはいけない。

 知らないことに相対した時、知らないことに遭遇することに慣れていないといけない。

 そうすれな知らないの程度が大きくなっても(横軸の幅が大きくなっても)対応できる。

 未知になれるために既知を深める、つまり今ある脳を耕すことが大切なのである。

 

 

 

 大学の勉強をしているとふと思うのだ。

 この勉強がなんの役に立つんだよと。

 

 でも、きっと勉強の内容はさほど重要ではない。

 大学は何かを学ぶ姿勢を学ぶ場所なのだろう。

 

 学びの軽視は未知への軽視に繋がる。そして自分の取り巻く環境を、現状を軽視する。

 そういう人は軽視されるような人間になるだろう。 

歴史の面白さ

 これまでの人生、理系ぶっていたのであまり歴史を真剣に学ぶ機会がなかった。

 そもそも理系に関係なく歴史を学ぶモチベーションがなかった。

 しかし二十数年生きてみてようやく歴史を学ぶ意味がわかった気がしたのでメモを残す。

 

 

 「歴史を学ぶ」とは「経験せずして失敗を知る」ことなのだ。

 私は歴史を学ぶことを人類の失敗例を抽出する行為だと思っている。

 もちろん成功例もある。

 しかしそれらは真に歴史とは言えないと思っている。

 

 ここで自然言語を厳格に定義するのは愚行だと思うが、私の歴史の定義を言いたい。

 歴史とは過去の出来事の集合であるが、全ての過去の出来事ではなく現在と切り離された(切り離されるべきだと思われている)出来事を指していると考えている。

 具体例で説明する。

 なにかの災害を考える。

 その災害に被災して今も仮設住宅などに住んでいる人にとってはそその災害は歴史とは言えない。

 しかし、直接被災していない人にとってはその災害は一時的な出来事でありすでに歴史の中にある。

 つまり現在視点での有り様で過去の出来事は歴史にも始まりにもなる。

 

 

 これらの考えを前提に成功の歴史を考える。

 そう考えると成功の歴史というのがそもそもおかしく感じられるのではなかろうか。

 現在視点で成功と捉えられている時点で、その過去の出来事は現在の開始時点であるだけでまだ歴史にはなっていない。

 歴史の大前提、既に完了していることに反している。

 これにより私は歴史を失敗例(現在視点で完了している出来事)の総体と捉えることにした。

 

 

 

 そう捉えると歴史の面白さが途端に判然とした。

 言ってしまえば人類のNG集なのだ。

 こうすれば失敗すると教えてくれる、こうすると不幸な結末になると伝えてくれる。

 人生という無限の選択肢のうち、取るべきでない選択肢を身をもって過去の人々は教えてくれているのだ。

 

 これが面白くないわけがない。

 どんなテレビ番組のお役立ち情報より役に立つ。

 

 

 

 

 

 私の歴史の定義と異なる考え方の人もいると思う。

 私が私の歴史を増やす過程でこの考えが変わるかもしれない。

 いずれこんな考え方も私の中で歴史になるかもしれない。

 それでも今はこの視点で歴史を楽しみたい。

 

 

 なぜなら歴史は往くべき選択肢は教えてくれないが、往かざるべき選択肢は教えてくれるから。

 

 今のうちに考え方の「歴史」を増やすのも悪くないだろう。

 

既知への帰着

 自分の知らない言語、例えば私の場合フランス語で書かれた文を読もうと思った時、当然自分の知っている言語、つまり日本語に翻訳しなければ理解することはできない。

 つまり「未知の言語」を「既知の言語」に帰着しているということになる。

 人は知っていることよりも知らないことのほうが多い。

 だからこの「既知への帰着」ということは日常半ば無意識的に行っている。

 

 この「既知への帰着」という行為についての反省が今回の記事の主題である。

 そのためには「既知への帰着」という行為自体をまずは考えたい。

 既知への帰着自体は未知に対しての正当なアプローチだということは疑いようもない。

 掛け算を習うときはすでに習った足し算に帰着して教わった。

 英語の授業をスペイン語で行う学校は一般の日本の学校ではない。

 未知を取り込むためには既知による説明がいるのは自明であろう。

 一般に未知に対するアプローチとして既知への帰着は正攻法だ。

 

 

 しかし既知への帰着はもっと悲観的に捉えるべきだというのが今回の反省なのだ。

 つまり未知へのアプローチは既知への帰着“でしかできない”のだ。

 翻訳された本をよんだことのある人は同じようなことを思ったことがあるかもしれない。

 我々が翻訳された本を読むというのは、翻訳された本を読まざるを得ないという悲しい現実なのだ。

 もちろんその言語を勉強すればいいだけだという意見は尤もだ。これはあくまで一例である。

 しかし世界には翻訳できない言語を使う異国というものがある。

 それが「他者」だ。

 

 私達は他人を知ろうとするときどうしても自分の世界のルールや言語に帰着して考えざるを得ない。

 なぜなら私から見て他人はどこまでも未知であり、私の既知は私を超えることはないからだ。

 しかしこれはとても危険である。

 あまりにも文法が違って自分の言語に帰着できない他人というのは確かに存在するからだ。

 それでも、それでもなお私達はそういう他人に対するアプローチに際して「既知への帰着」という行為に頼らざるを得ない。

 なんと悲しいことだろうか。

 なんと危ういことだろうか。

 いつでも他人の考えが私の言語に翻訳できるものとも限らないのに。

 

 

 「既知への帰着」の危うさを知りながらも「既知への帰着」に頼らなければならないというのが人間なのである。

 知りえないことを知らないで済ませてくれないのが社会なのである。

 

 どうしても「既知への帰着」という行為に頼らければいけない私はどうすればいいのだろうか。

 それは「既知」を増やすしかないだろう。

 

 他者を正しく捉えるにはまず自分が正しくあらねばならない。

 

世界画一化仮説

 今の社会は多様化していると思いますか?

 

 若い女性の間ではタピオカというものが流行っているという。

 聞くところによると何時間も並んで買うらしい。

 そんなに美味しいのかと気になる気持ちもあるが、どうやら彼女らは美味しかどうかが問題ではないらしい。

 とにかく今みんなが飲んでいるからという理由が大きいという。

 

 なんとなくその気持ちはわかる。

 行列のできている店が気になる現象は私も心当たりがある。

 人間の心理的なものがあるのだろう。

 しかしこれらを自覚している人はどれだけいるのだろうか。

 

 

 

 私がなぜこの話を取り上げたかというと、タピオカの流行は今の世界の状態と人間の心理を実に端的に表していると感じたからだ。

 今、簡単に手に入る情報はインターネットない頃の何倍あるだろうか考えたことはあるだろうか。

 間違いなく爆発的に増えている。

 世界の情報量の総量は同じだと仮定しても、手が届く情報の量は間違いなく数十倍に増えた。

 要するに我々は昔より取りうる選択肢が増えたのだ。

 自分の町内のラーメン屋しか知らなかった頃はもう終わり、今や行ったことのない県のラーメン屋の情報もものの数秒で手に入る。

 明らかに取りうる選択肢は増えた。

 選択肢は多様化したのだ。

 

 

 だが今を生きる人々の行動はどうだろうか。

 そこに多様化は見られるだろうか。

 今の人々の行動は言うなれば、行ったことのない県のラーメン屋に皆が殺到している状態だ。

 カレーでも定食でもうな重でも、美味しい店は同様に調べればすぐ手に入る。

 それでもみんながラーメンを食べるために何時間も並んでいる。

 さらにその状態を受け入れている。

 みんなと一緒の状態に心地よさすら感じているのだ。

 これは非常に面白い状態ではないか?

 選択肢の増加の先に待っていたのは人間の画一化であったのだ。

 

 

 

 私はここで仮説を唱えたい。

 

 「人が取りうる選択肢の数と実際に人が選ぶ選択肢の多様性は反比例する。」

 

 これはとても興味深いと思う。

 人というのは根本で天邪鬼なのだ。

 親に勉強しろと言われた瞬間勉強する気がなくなるように、多くの選択肢から選んでいいと言われると人は選択しなくなるのだ。

 

 

 この仮説を今のグローバル社会に当てはめると更に面白いことが言える。

 つまり、全世界という選択肢の急増が逆に自国への束縛になるのではということだ。

 グローバル化は多様性の呈示によって画一化を生む可能性があるということだ。

 きっとグローバル化が進めば進むほどナショナリズムは強くなるだろう。

 その時人々は皮肉にもこう言うかもしれない。

 「グローバル化による世界の画一化に抗わなければならない。」と。

 

 

 グローバル化については仮説による仮説なので一笑に付してもらって構わない。

 しかし、この「情報量増大による世界画一化」は案外人間心理の正鵠を射る部分があると思う。

 人間という生き物は「取れる選択肢の種類」と「実際に自分で選ぶ選択肢の種類が一致しないのだ。

 

 これはあくまで仮説である。ただの私の感想だ。

 それでも最後にもう一度問いたい。

 

 

 

 今の社会は多様化していると思いますか?

「わかりやすい」とはいいことなのか

 先日久しぶりに梅田の駅に行くと案内板が増えていて驚いた。

 昔は梅田ダンジョンの異名通り、目的の出口に出るだけで一苦労だった。

 それが今では行きたい場所へあっという間に行ける。

 なんともわかりやすくなっていた。

 

 

 しかし、なぜだろう、わかりやすくなって良くなったはずの梅田駅が寂しく感じられた。

 

 

 

 

 最近日本はわかりやすすぎないかと思う。

 本は文字が大きくなり、参考書は図が増え、サイトは大文字や色のついた文字が多用されている。

 実にわかりやすい。作者の言いたいことがすぐにわかる。

 ただそれは本当にいいことなのだろうか。

 

 

 これは私の感想なのだが、どうも今の情報媒体は何かを伝えることに必死だと感じる。

 直接的な言葉や技法で、自分の伝えたいことを言い過ぎていると思う。

 例えるなら、絵画の下に「この絵は〜を表現するために書かれた絵です。そのためにはxxの距離からyyの角度で見てください」と書いてあるような感じだろうか。

 別に悪いことではないだろうし、そもそも私が勝手に感じているだけのたわ言である。

 だが、どうしてもいろいろな媒体から聞こえてくるのだ。

 作者からの模範解答が。

 

 これもまた決して悪いことではないし、おそらく言わされているのだろうが、スポーツ選手の「皆さんを感動させられるようなプレーをします」みたいな挨拶も私は変に思う。

 こちらはあなたのプレーを勝手に見ているだけだ。

 そしてスポーツ選手も実際のところ勝つために(私とは無関係に)プレーしている。

 なぜ感動させるためになんて言うのだろうか。

 お互い自由にプレーしたり感動したりでいいではないか。

 

 つまるところ、最近「自分勝手さ」を許さない風潮があるのだろう。

 いや、「自分勝手」が許されないというより「わかりにくいもの」が受け入れられないという方が正確かもしれない。

 情報の即時性が至上とされる今、わかりにくさは悪なのかもしれない。

 わかりにくさ、わからない状態、迷う時間、深読みする時間。

 これらは過去の遺物なのかもしれない。

 

 

 

 きっとわかりやすいことはいい。間違いなく悪ではない。

 わかりやすいとは短絡だ。

 いい意味でも悪い意味でもそこに受け取る側の自由がない。

 迷う余地がない。

 だからわかりやすい。

 

 だが、わかりにくいことは果たして悪なのだろうか。

 本を読む時くらい、スポーツを見る時くらい、私は迷いたい。

 表現者というダンジョンに迷うことも悪くないとどうしても思ってしまう。

 迷った末に意図せぬ出口に出てしまうくらいの自由があっても面白いのではないか、そう思ってしまう。

 

 

 こんな私は平成時代の考え方なのだろうか。

 

 

数学は考え方の学問である

 私は理系の大学生だが数学が苦手である。

 世間一般ではおそらくできる方なのだろうが、いかんせん通っている大学が大学なのですぐに授業についていけなくなる。

 なにより授業が楽しくない。

 謎の文字が踊る数式をいじくりまわして謎の計算結果が出てくる様を楽しむすべがない。

 こんな数式いつ使うんだとか計算ゴリゴリやって何が面白んだとかどうしても考えてしまう。

 だから数式を嬉々として解いている人とはそりが合う気がしない。

 

 

 しかし「数学的な考え方」の素晴らしさは敬服している。

 定理の証明には一分の隙もない。誰も文句のつけようがないほどの完璧。導出の様は芸術であるような定理や証明もある。

 感性は人それぞれだが、完全性は確かにある。

 その完全性はどこに起因しているのだろうかと考えてみると、小学校から算数として数学を習う意味がわかった気がした。

 

 

 主張には根拠が要る。

 

 

 この1文の強制力を、大切さを、絶対性を教えてくれるのが数学なのだ。

 我々は生まれながらにして脳という工具箱を持っている。生まれた時は空っぽだが、次第に言語という強力な道具を獲得する。(ここでの言語は脳内で思考するために使用される言語を主に指している)

 しかし言語自体は使い方を教えてくれない。日常から得る情報で「使われ方」は学ぶが「使い方」は教わらない。

 そこで言語の使い方を指南してくれる科目が必要になってくる。

 その側面が特に強いのが「国語」と「数学」なのだ。

 他の科目も因果関係は登場する。その中でも特に「因果関係の絶対必要性」を教えてくれるのは数学と国語なのだ。

 一見まるで対照的な科目に見えるかもしれないが実はどちらも似たようなことを授業で行っている。

 国語は「書物の中でどのように因果関係が潜んでいるか、日本語を用いて読み解くやり方を教える科目」である。

 対して数学は「定理の必然性を他の定理と定義を用いて示す方法を教える科目」である。

 

 どうだろうか。

 媒体となる言語が違うだけでどちらも主張には必然性があるということを教えているのだ。

 「今日は晴れている。だからAさんは死んだ。」と書いてあったらなぜ?となるし「3足す6は5である定理」があったら根拠は?となるだろう。

 これらの科目は常に根拠を探している。必然性を要請しているのだ。

 数字でも日本語でも、なにかを主張するとき、何かの結論に至った時には理由がいるのだ。

 それを論理的に説明できて初めて主張は主張たりえる。

 それが言語を使う人間に与えられた義務なのだ。

 

 だから私は「他人に発表する主張には不必要な感情を排斥する必要がある」を言いたい。

 数学には感情がないし必要でもない。

 小説の登場人物の動機が「なんとなくそういう感情だったから」だったら興醒めである。

 感情は説明できない。感情は個人の世界の中の必然性でしかない。

 もちろん日々の生活から感情をなくすことはできないしする必要もない。

 ただ「他人」に「主張」するなら感情はあってはならない。

 感情は個人の世界のルールなのだ。

 主張に感情が混ざるとそれは感想になる。

 

 

 主張にはたくさんの根拠がいる。

 そこに個人の感情を挟む余裕はない。

 

 何かを主張するとき、何かを考え結論を出そうとするとき、その時の材料を国語から学び、フォーマットを数学から学ばなければならない。

 人はそれを説得力と呼ぶ。

 

  

先人の足跡をたどる

 大学に入るとまとまった自由時間ができる。

 おかげで多少は新しいことをやろうという気分になる。

 だから現代っ子のテレビっ子の私も本を読もうと思う機会が増えた。

 そんなことでまだ読書歴の浅い私なのだが、本の大切さに気づいたのでメモを残しておく。 

 

 悩みが解決しない時は本に頼ったほうがいい。

 

 私達は所詮人生1回目だ。

 しかもたかだか数十年しか人間をやったことがない。

 そう考えると自分の脳だけですべてを賄おうというのはあまりに危険だと思えてくるだろう。

 

 私ごときの悩みや思考など先人がとっくの昔に考えていることが多い。しかも私より深く考え尽くしている。

 だからこそ本にはできるだけ多く触れたほうがいい。

 そこにはきっと人生のヒントがある。

 

 

 おそらく多くの人にとってはこの記事は当たり前のことを言っている滑稽なものだろう。

 だが忙しい時ほど本は読まなくなる。

 私は特に意識しないと読まないだろう。

 だから未来の自分に向けてメモを残しておく。

 

 

 本は読んだほうがいい。

 名著は人生のナビになりうるだろう。

 

 

 

 

 それともうひとつ、

 自身の無知を晒したくなければ、本が嫌いと自称しないほうがいい。

 

私、家族、友達、他人

 『私と私以外の話』の記事で「他人とはなにか」、『お箸のお話』の記事で「他人をどう見ているか/他人にどう見られているか」をどう考えているかをまとめた。 

 今回は他人観の結「私にとって他人とは何か」について考えをまとめたい。

 

 まずは「他人」の幅を明言しておきたい。

 私は常に「私以外他人」と思っている。きっとこの考えはこれまで私のブログを読んでくれている人はわかると思う。

 私以外他人。文字だけでは当たり前のことを行っているだけに思える。

 まあ当たり前のことなのだが、この事実を「常に」忘れないよう意識している人はそう多くないだろう。

 言われれば当たり前、でも言われないと考えない。

 このあたりの事実は往々にして見落とされがちである。

 実際、この事実を理解していない人はおそらく世界中に一人もいないはずなのに日々仲違いや喧嘩や口論が発生している。

 本当にわかっているならこれらは起こるはずがない。

 他人は他人だ。どうして私の考えが共有できよう。

 

 だが人々はそうしない。他人は他人とわかっておきながら私と違いをすっと受け入れられない。

 なぜだろう。

 

 相手に期待しているからだ。

 

 「どうして私のことがわかってくれないの」の裏には「この程度のことくらいわかるでしょ」が潜んでいる。

 喧嘩するほど仲がいいというが、きっとそこには「お前には俺のことを理解していてほしい」という気持ちがある。

 どうでもいい相手なら喧嘩しない。

 結局人は人に頼り、期待し、安心したい生き物なのだ。

 

 もちろんこれらを馬鹿にする意図はない。むしろ健全な生き方だと思う。

 しかし残念ながら私はそういう人とは出会えなかった。

 この人にはわかってほしいという人がいないのだ。

 だからこう考えてしまうのだ。

 「俺のことは俺がわかればいい。」と。

 

 共感を諦めた世界には私一人が立っていた。

 

 その結果「私以外は私ではない他人である」という気持ちが人一倍強いようだ。

 これまた残念なことに現状はこれでいいと思っている。

 今を悪と感じていない人に改善は訪れない。

 

 だがこれも結構メリットがある。今や私だけに向けたブログではないだろうから明文化しておく。

 それは無駄な争いはなくなるということだ。

 他人への過度な期待は裏切りになり諍いになる。

 勝手に期待しておいて勝手に裏切られているだけなのだが、この性癖は心当たりがあるのではなかろうか。(関連『他人に期待するなかれ』)

 人の行動は突き詰めれば損得勘定に基本すべて帰結できると思っている。

 誰かと話すのも、話すのが楽しいと自分の気分が良くなるという得があって行われる。

 そんなことないという人も、一度「話していてつまらない人」というのを考えてみれば私が言う意味での損得がわかると思う。

 「話していてつまらない人」と話さない理由はつまらないという損をするからだ。

 すべての行動は意思に基づく。意思は感情に基づく。感情は自分の心だ。自分の損得を考えるのは当然だろう。

 損得を越えた献身があるとしたら、それを人は愛と呼ぶのかもしれないがまだ私にはわからないので触れないでおくことにする。

 要するに損得が期待を呼び裏切りを生む可能性があるということだ。

 

 

 ただ、私は思うのだ。

 多くの人はこんなこと考えない。

 もしかしたら私はひとりに慣れすぎたのかもしれない。

 もしかしたら私は他人を知らなさすぎるのかもしれない。

 

 

 私は他人を知らずに他人を語っていたようだ。

 私と他人の境界まで来て二の足を踏んでいるらしい。

 これでは偉そうなことは言えない。

 

 だから長々と話してきた他人観は不格好だがこう締めくくりたい。

  

 

 いつか私は「私」でも「他人」でもない人に出会えるのだろうか。

 

お箸のお話

 前回は私の他人観についてまとめた。

 つまり私が他人をどう考えているか、についてまとめた。

 しかし偉そうに他人を語る以上、前回の記事だけでは不十分にすぎる。

 「他人」がものであれば前回で十分であったかもしれないが実際は違う。

 

 そう、相手も人間なのだ。

 要するに「私」も「他人」にとっては「他人」なのである。

 こうなってくると「私から見る他人」だけでは不十分だ。

 他人がみる私と私が見る他人の相互の関係、見え方、関わり方についても考える必要がある。

 今日はこの関係、つまり「相互の見方・接し方・考え方」を重点に考えていきたい。

 

 

 まずは「相手が私をどう見ているか。」を考えたい。

 だが、これに関しては『世界の交差』の記事で書いた考えが私の底流にあるので詳しくは当記事を参照してほしいのだがそれではまとめにならない。

 端的に言うと「私が見ている他人というのは『私が結んだ他人の像』である。だから私が他人を考えようとしてもそれは結局『私が考える他人』を越えることはできない。」という考えである。

 この考えの元「相手が私をどう見ているか。」を考える。

 

 はたして考えることに意味があるのだろうか。

 

 そう。「他人の考え」を考えることは無意味なのだ。

 

 想像することもできる。考えることもできる。

 しかしそれは結局「自分の世界」で「他者の世界」を想像しているだけなのだ。

 

 

 

 

 いやいや。相手を考えることが無意味なはずがない。

 相手を慮ることが共同体の基本理念ではないのか。

 

 その通り、無意味ではない。

 私はあえて前提を隠して論を展開した。

 

 上記の考えはあくまで「私」という個人単位で、孤独論の元考えられたとてもミクロで自分勝手な考え方だ。

 前回同様「社会に属する私」という前提で同じものを考える必要がある。

 

 

 社会という共同体にいるならば、相手を想像することは無意識的にしていると言ってもいい。当然私もしている。

 だから相手が私をどう見ているか考えることは大いに有意義なことだ。

 だがいきなり相手の見え方を考えるのは難しい。

 となると実はもうひとつの議題「自分が相手をどう見ているか」を考える必要がここで出てくる。

 自分の相手の見え方から相手の自分の見え方を演繹するのが自然だろう。(ここにも他者の思考の不可侵性があると感じられる。)

 

 私が相手を、いい言い方をすれば知ろうと、悪い言い方をすれば品定めしているか考えてみた。

 実はそれを考えさせられるいいきっかけが今日あった。

 ネットのある書き込みで箸の持ち方などの躾に意味があるのかというのが話題になった。

 躾の代表格といってもいい箸の持ち方。

 これを子供にしつける意味は本当にあるのか改めて考えさせられた。

 

 誰もが子供の頃思うだろう。私はその経験がある。

 箸の持ち方だの座り方だの親にしつけられた。

 

 こんなのなんの意味があるんだ、『こんなこと』どうでもいいじゃないか、そう思っていた時期は決して短くなかった。

 

 

 しかし、今はちゃんとしつけられてよかったと親に感謝している。

 なぜなら箸の持ち方はまさに「相手が私をどう見ているか。」に使われるパラメーターだからだ。

 確かにどうでもいいことには変わりないのだ。

 相手の箸の持ち方座り方食べ方で自分の体調が悪くなるわけでもない。

 

 だが、見ていて気分がよくないと感じる人は少なくないだろう。

 気分が悪くならない人も昔しつけを受けていた人はきっと心のどこかでこう感じる。

 

 

 

 

 「『こんなことも』もちゃんとできないのか。」 と。

 

 

 

 

 

 他人の思考・感覚を正確に想像することは不可能である。しかしだからといって傍若無人に振舞っていいわけでもない。

 なぜなら社会では相手は少ない情報から相手を知ろうと品定めしているからだ。

 その情報とはなんだろうか。

 そう、口調・礼儀・所作だ。

 悲しいことに人間性はこういった細かい行為にどうしても現れる。

 そして人はそれを他人の判断材料にする。

 

 だが、一応言っておくが私はこういうマナーとかしつけを盲信しろと言いたいわけではない。

 その人がマナーの何たるか、なぜしつけが存在するかを理解したうえなら箸を3本使おうがその人の自由だ。

 ただここは私のブログなのでこう言い切りたい。

 

 不躾は損をする。

 

私と私以外の話

 嬉しいことに弊ブログの閲覧数が増えている。

 内容的にも自分以外が読んであまり面白くないだろうなと思いながらもブログを始めたので意外である。

 飽きるまではたまにでもお付き合いいただければ幸いである。

 

 そんなわけで自分の今までの記事を見返してみたところ、ひとつ気がついたことがある。

 いたるところで他人に惑わされるなとか人間は本質的に孤独だとか言っている。

 これではまるで私が孤独至上主義だと思われかねない。

 ということで、いい機会なので私の(今の)他人観についてまとめておきたい。

 

 

 単刀直入に言うと、私は他人というものを「本質的理解は不可能であるが不可欠な存在」と捉えている。

 

 「私達は孤独である」ことと、「私達は一人では生きていけない」ことは二律背反ではないと思っている。

 これらは考えているフィールドが違うからだ。

 以下このフィールドの違いを説明する。

 

 私達は一人では生きていてないというのは、社会という共同体に属していること(場面と言い換えてもいい)を想定して言われる。

 これは間違いなく真である。時間を変数に考えると確かに誰でも赤ん坊の時代があった。個人個人を変数に考えても、今晩の食材だけでも何十人何百人が関わっているというのは想像に難くない。

 

 しかしこれらはあくまで「社会」を前提に考えている。

 人の心は社会だけに決定されるものではない。むしろ個人に閉じている。

 

 

 私達は孤独であるという考えは個人に属している。正確には「個人の心の視点」を前提にしている。

 他人とどうしても意見が合わない、他人に自分が理解されない、思い通りにいかない。

 いろいろな場面が考えられるが、これらから孤独を感じる時、すべて個人の心を、感情を発生源としている。

 その時、この感情には赤ん坊の時代も食材の流通も一切関係がない。

 あくまで個人の心という閉じた世界だけでの感情である。

 

 そんな個人の感情論より、社会に生きているという現実だけを考えろという意見もあるだろう。

 

 しかし、私はそうは思わない。

 なぜなら我々は人間だからだ。

 これが数学の問題とか、会社の会議とかなら感情を持ち込む批判も尤もであろう。

 

 だが、今考えているのは「孤独」である。

 孤独の定義はあるだろうか?正解はあるだろうか?

 定義も正解も個人の中にあるものだろう。

 孤独を感じるもののみが孤独を定義しうる。

 

 

 だから私は孤独という対象を考えるとき感情を排斥しようとは思わない。

 故に他人を考える時も感情を抜きにする議論は意味がないと思っている。

 

 なぜなら孤独は他人がいて初めて実感するものだからだ。

 

 比べる対象が、見える対象がいて初めて孤独を感じる。

 皮肉なことに「独り」を定義するためにはもう一人以上必要なのだ。

 

 しかしだからといって社会の存在を蔑ろにするのもおかしい。

 私達が生きていくのは一人だが、生きているのは社会である。

 社会が高度になればなるほど人は(密度は別にして)つながりを増す。

  感情と同様に他人を語るとき社会の存在を排除することは愚かである。

 

 

 

 これらの考えを総括すると

 「他人とは、本質的理解の不可能であるが不可欠な存在である」

 と結論付けられるのだ。

 本質的理解はできないという孤独感と社会のつながりを肯定した不可欠性を総括するとこの結論になるのだ。

 

 

 

 だから私は他者の存在に肯定的である。

 社交的になれたらどれだけいいかと日々思っている。

 しかしそれと孤独は別である。

 全世界の人と友達になったとしても、ネットでどれだけの人とつながろうとも、心は孤独を感じ続けるだろう。

 

 これらを混同して考えると孤独感を原因を他人に求めて無意味な怒りを生んだり、他人観の異なる人とのやり取りで無駄な諍いが生まれる可能性がある。

 

 

 最後にもう一度強調しておくが「私達は孤独である」ことと、「私達は一人では生きていけない」ことは矛盾していないと考えている。

 

 むしろ「私達は一人では生きていけない」から「私達は孤独である」と感じるのだ。

 なぜか。

 孤独は他人ありきの感情だからだ。

 

 

 

 孤独を感じること、それがつまり独りではない証拠なのだ。

 

 

 

是れ知るなり

 京大に通っていると周りに自分より数段頭のいい人がたくさんいる。

 当然そういう人たちは私の想像も及ばないほど勉強している。

 しかし、そんな勉強大好き人間と話すと決まって謙遜する。

 「俺よりわかっている人がたくさんいる。」

 「勉強すればするほどわからないことが増える。」

 と。

 

 頭のいい人は世界での自分の立場というか、自身の能力の自己認識が正しく出来ているのだろう。逆に頭の悪い人は自己の能力を測る能力も低いので自己を過大に評価しがちである。

 これを心理学ではダニング=クルーガー効果というらしい。ちゃんと名前があることが驚きだ。

 

 私が言いたいのはもちろんそんなことでない。

 この現象が起こる裏側の事実が大切だと感じたのでこれを忘れないためにこの記事を書こうと思った。

 それは「未知を知るためには知と能力が必要である」という事実だ。

 

 無知の知と簡単に言うが、無知を自覚することはそう簡単なことでない。

 もちろん言うのは簡単だ。

 しかし自分で本当に納得するためには知と無知の境目まで辿り着かなければ無知の存在を本当の意味で自覚することはできないのではないだろうか。

 そのためには相当の勉強や思考が必要になる。

 知らないことを知る、というのは「知りうることを全て知る」必要があるのだ。

 

 

 大学の勉強は難しい。生きていくうえではもっと難解な問題が待っているかもしれない。

 

 もしかしたら私は知らないことを知るために知り続けるのかもしれない。

 

 

 ちょっと大学の勉強が難しくておかしい文を書いてしまった気がする。今日は早く寝よう。

自分が認められる自分でいられるために

 この記事は『価値観の共有は可能か?』で話した体験の感想の続きである。

 

 あの記事の途中で「異なる意見を自己の否定と捉える種類の人」の話をした。

 年代や地域によって分布が違うかはなんとも言えないが、このタイプの人種はそれなりに存在していると思う。

 少なくとも私の周りには結構いる。

 私はこのタイプの人間ではないので、会話において他者の異なる意見を楽しめる。。

 というか、100人いたら100種類の意見があると思っているので、異文化交流の気分で異なる意見をとりあえず聞いてみる。

 しかし、異なる意見を楽しめない人は間違いなく存在している。

 そういう人がいると揉める必然性がない議論で無駄に揉める。

 

 

 

 なぜ彼らは異なる意見を「否定」と捉えるのだろうか。

 否定しているわけではないと言っても、声を荒げるのだろうか。

 

 彼らは私の意見に反論をしない。

 私が『意見A』だと思う、と意見を呈示した際、なるほど私は『意見B』だと思うのです、と返してこない。

 私は経験や勉強から構築された『意見A』にそれなりの自信がある。なぜならそれなりの考えを経て生まれた意見だからだ。

 だから異なる意見が来ても反論出来るだけの武器はある。(反論するかは別だが)

 だが、彼らはどうだろう。

 『意見B』という武器で応戦してこない。

 私がAという武器を見せるだけでBを否定されたと言い出してBを使ってこない。

 自分で生み出した武器なのだから嬉々として応戦すればいいのに。

 それが議論ではないのか。

 

 

 

 

 

 なるほど。

 

 私は前提が間違っていた。

 意見を持つということはその意見に自信がある、そうに違いないと思っていた。

 しかし実際は違うのだろう。

 

 そう、彼らは自分の意見に自信がないのだ。

 

 

 

 しばしば色々考えて鬱になる私だが、自分が根本から間違っているとは思ったことがない。

 だから自分の意見も基本あってると思って話す。

 そんな自信がないとこんなブログは書けない。

 なんだかんだ2割くらいは間違っていることがあるが、少なくとも話す段階では自分の意見に自信がある。

 そりゃそうだ。私が私の体の私の目で見た私の世界の意見なのだ。あっていると思わない限り何も信じられなくなる。

 

 そう思っていた。

 しかし、それは私の世界での常識だった。

 

 世には自分の意見の肯定は、「自分に対する自信」ではなく「他人の同意」だけで成立する人がいるようだ。

 換言すると、世の人々には自身の肯定の拠り所を他人に求める人がいるようだ。

 だからそういう人は肯定以外を否定と捉える。

 何度否定しているわけではないと伝えても、その声は届かない。

 なぜなら彼らは会話を求めているわけではない。ただ「自身の肯定の声、賛同の声」のみを求めているからだ。

 

 

 なぜ自分に自信がないのか。自分で自分を肯定しないのか。

 きっと自分のことを考えたことがないのだろう。

 自分の頭で解いた問題なら答えに自信が生まれる、しかし誰かの回答を丸写ししたなら、どうしてその答えに自信が持てようか。

 

 

 

 この知見を得て、真っ先に思い浮かんだことは昨今のSNSの流行である。

 『感情の仮託』の記事では、特定の(SNS好きの)若者の行動原理がわからないと言ったが、この知見がひとつの仮説をもたらした。

 

 

 もしかして、SNSでいいね稼ぎに奔走している人々は自分に自信がないのでは?

 

 

 という仮説である。

 いいね、というわかりやすい「同意」を求める行動原理は、「世界に自分が認められている」という同意の確証を求めることに端を発しているのではないだろうか。

 だからどこの誰が押した「いいね」でいいのだ。なんの権威もない「いいね」でいいのだ。

 

 とにかく同意だけを求めているのだ。

 

 

 

 

 少し前にアドラーが流行ったのも、この現状を見ると必然に思える。

 情報社会がもたらした膨大な情報の可視化により、人は自信を失ったのだ。

 どこにでも答えが落ちている。いつでも答えを丸写しできる。

 

 考える必要のなくなった社会が人々から自信を奪ったのだ。

 

 

 だから即物的な「いいね」に自己の承認を見出すようになった。

 

 自己完結した自己承認の喪失の裏返しでSNSは隆盛を極めているのだ。

 

 

 

 

 

 ・・・このブログは社会の批評ごっこをすることが目的ではない。

 ここからが問題だ。

 私はこの気付きから2つ得ることがあると思う。

 

 ひとつは、そういう人種を認めることだ。

 社会で生きていく以上、自分の生き様に自信がないこと、その結果会話に求めているものが大きく乖離している人が存在していることを認識する必要がある。

 

 

 そして、もうひとつ。こちらのほうが重要だ。

 それは、これからどんな人生を歩んでいくことになっても、自分は自分を肯定する存在で在り続けることが大切だ、ということだ。

 自分を肯定しない人に自分で肯定できる人生が歩めるはずがない。

 私の人生の苦しみも幸福も、感じるのは生まれてから死ぬまでずっと私ただ一人なのだ。

 そう考えたら、私の人生を、私自身を肯定できる人は私だけだとわかるはずだ。

 

 

 いつまでも自分が認められる自分で居続けたい。

 

「誰かのために」は危険

 日々徒然なるままに日暮しアニメを見ていると、友人間でいさかいが起こる回がある。

 そういう場面では十中八九登場するセリフがある。

 「お前ためにやったのに。」

 

 

 アニメだからわざわざ声に出して言っているが、現実でも似たような気分になることはあると思う。私は子供の頃よくあった。

 親切をしてくれるのはありがたいがお礼を言わないと機嫌が悪くなる人やいちいち恩着せがましく報告してくる人種が私の周りにも存在している。

 

 私の狭いコミュニティに存在しているのだから世の中にはもっといるのだろう。

 そういう人を見てきたので私はこの「誰かのために」という動機の危険に気づいた。

 なぜならそういう思考はおそらく勘違いであるからだ。

 

 

 

 一度自分の行動原理を考えてみてほしい。

 誰かのためにと思っているものは本当に相手の幸せを願っているだろうか。

 少なくとも恩着せがましい人はそうではない。

 相手のためになる(だろうと思った)ことをすることにより「相手が自分に感謝してくる」ことを行動の動機にしている。

 だからこそ何かをした時点では目的を達成しておらず、相手がお礼を言ってきて初めて自分の行動の目的が達成され、満足するのだ。

 恩着せがましい人の無自覚な恩着せがましさはここに起因している。

 

 

 こういう人種はほぼ間違いなく存在する。

 そしてその人種の存在は自分たちを不快にさせることもある。

 だからその時は「ああこの人はまだ自分の行動原理も自覚出来ていない人なんだな」と心で思えば多少は気も休まるだろうし他山の石となるだろう。

 

 

 

 

 

 

 とまあ、一応まとめができたのでここから落書きの中の落書きである。

 

 

 この人種、こういう事態、これに類する感情から私が持っている疑問がひとつある。

 それは「『誰かのために』をなくすことが幸せなのでは」という疑問だ。

 

 例えばボランティア。

 あれははたから見ればどう考えても誰かのためにやっていることである。

 そして参加者の中にはいくらかそういう感情を持っているものがいるかもしれない。

 しかし、大多数はそんな風には考えていないはずだ。

 自分の休みを返上してでも参加している人がいくらか存在している。

 

 そういう人を見た時、誰か不幸そうな顔をしている人を見たことがあるだろうか?

 

 

 

 私は思うのだ。

 幸せを感じるのは自分だが、そのきっかけは他者の存在が必要である、と。

 他人の存在を受け入れながらも、しかし、自分の意志と行動は自身の中で完結している。

 それが人と関わって生きていく幸せというものなのではないだろうか。

 

 

 

 この結論を出すには私はあまりに子供過ぎる。

 

 

価値観の共有は可能か?

 悲しい。実に悲しいことに直面してしまった。

 他人と会話するということは時に虚しいものなんだと思った。

 

 私は会話を、話題に関した持論を展開する場だと思っている。

 相手の意見も聞き、自分の意見も聞く。

 会社の会議でもないのだから侃々諤々とお互い言いたいことを言うのが健全な会話のあり方だと思っていた。

 

 ただ、これは共通認識ではないらしい。

 普通の会話で、お互いの意見を言うことを「自分の意見が否定された」と思う人種が一定数いるようである。

 そんな気持ちになるなら話をふるなと思うのだがなぜかそうはしない。

 こういう人種は会話という行為に自身の肯定だけを求めている。

 だから彼らにとって会話の“正解”はひとつしか無い。

 それ以外の回答をすると自己を否定されたと思って途端に機嫌が悪くなる。

 

 

 

 先日、年代の違う人と話した時この経験をした。

 私はとても悲しかった。

 考え方や意見が違う人がいるのは昔から認めていたが、会話観・議論観がここまで違う人がいるということに悲しみを覚えた。

 会話という最も基本的な意思疎通手段ですら共通した価値観が存在しないのかと、どこまでも人は孤独なのだなと、感じた。

 

 

 だが私はこの場面で相手に言った。

 「私はかくかくしかじかの会話観を持って意見を述べた。だからあなたの意見を否定する気も肯定する気もない。」

 しかし、相手は私の価値観を受け入れなかった。

 本当は受け入れようとしていたのかもしれないが既存の自分の価値観がその受け入れを邪魔したのかもしれない。

 とにかく、価値観の共有は叶わなかった。

 

 

 

 そして私はとある結論に至った。

 

 「価値観の共有は不可能だ。」と

 

 個人の価値観の構築は個々の人生経験に基づいて行われる。

 あまりにも違う世界で人生を歩んできた人とは価値観の共有は本質的に不可能なのだ。

 既存の価値観があることが純粋な価値観の共有を阻害する。

 

 ただある人は言うだろう。

 気が合う人、仲良くなれる人がいる、と。

 

 たしかに世の中には気が合う人もいる。

 しかし、それは価値観が共有できているのではない、価値観が部分一致しているのだ。

 気が合う人は気が合う領域で関わっているだけで、自分の価値観が共有できているわけではない。

 ただこれは、共有する必要もない幸運なことなのだ。

 多くの場合、価値観のすり合わせが必要になるからだ。

 

 そして、悲しいことにそれはお互いを不幸にさせることが多いように思われる。

 

 

 

 さらに悲しいことがある。

 それは「価値観は人によって違う」という価値観すら違うことがある。

 再帰的であるがこの事実も重要である。

 これを認めている人と認めていない人の間では侃々諤々な議論は不可能である。

 

 

 今回はかなりショックだったので文章が下手な気がする。

 ただ今回の一件では色々思うことがあった。

 落ち着いたら他の考えもまとめたい。

 

 

 

 他人というものは近づこうとすればするほど遠さに気づくものなのかもしれない。 

 

 

がんばらない症候群

 ここ何日か久々の鬱状態に苦しめられていた。

 鬱の時、自分のことばかり考えてしまう。そして自分のあまりの無能さに腹が立ってくる。いつものやつだ。

 

 そして最近、いつも同じ結論に落ち着く。

 

 

 私の真の問題・病気は「がんばらない」ことではないか、と。

 

 

 ミクロな例だと、大学の課題を頑張らない。

 提出しないわけではないが、好成績を狙いに行こうなどとは一度も思ったことがない。

 他の人が向上心を持って提出物のクオリティーをあげていても、自分も頑張ろうと決して思えない。

 とりあえずこれでいいだろう、そんないい加減な気持ちしか持てない。

 

 マクロな例だと、とにかく趣味がない。

 趣味はなんですかと聞かれても、なにも本気で頑張ったことがないので黙るしか無い。

 本当になにもない。

 惰性でテレビを見て、惰性でアニメを追っているが、何かのタイトルを本気で好きになることはない。

 全ての行動(自分の意志100%の自由行動でも)本気では行動していない。

 

 

 

 これまでは色々と言い訳をしてきた。

 

 「まだ自分の好きなことが見つかっていないだけだ」

 「本気にならなくても良いレベルのことだから」

 

 

 しかし三つ子の魂百までということらしい。

 20歳を超えてもこの無気力さはなくならなかった。

 

 

 頑張れないのではない、「頑張らない」のだ。

 

 漠然とした絶望感や恒常的な虚無感はきっとこれが原因だ。

 

 

 

 私はこの症状を「がんばらない症候群」と命名したい。

 これが私固有の症状なのか、同じ症状の人が存在しているのかはわからない。

 しかしこれこそが私にとって至上の考慮事項であると思う。  

 

 他人からしたら甘えだと言われても仕方ないだろう。

 でもこの何にも頑張らない性癖というのは一種の病気だと思う。

 何事にも頑張れない、頑張る能力の欠如というのはなかなかに厳しい。

 

 

 

 今回は精神的にきついせいか愚痴っぽくなってしまった。

 現状、有効な解決手段が見つかっていないこの症状だが、この病を治さない限り真の幸せは手に入らないと思う。

 これからも気づいたことを記録することで、なんとかこの病気を克服したい。

 

 

 

 

 いつかこのブログが私のカルテとなるかもしれない。

 そのために少しブログを頑張ってみたい。

 

 

 そして、もし他の似たような状態の誰かの一助になれば幸いである。