とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく

 お久しぶりです。新年度になりお勉強についていけなくなった大学生です。まぁそもそも授業という授業がそんなにないんですが。

 

 最近気付いたことがある。人間、弱っていると自分でもよくわからないことをするということだ。

 正確には自己の正当化・保身のために人は無意識に色々なことをやっている(のだろう)ということである。

 先日、私は何時間も中学高校向けの数学の動画を見続けていたことがある。それも無意識的に。

 もちろん内容はたかが知れている。いくら不学な大学生とは言え中学高校のレベルの話は理解している。

 つまり私は新しいことを学ぶためにその動画を見ていたのではない。その学び以外の何の目的もない動画を学び以外の目的で延々見ていたのだ。それはなんだろう。

 我に返って、それは判明した。

「下を見て安心していたのだ」と。

 

 先日、また有名人が炎上していた。深夜のラジオでの発言がどうとかで炎上したらしいが私は無関係のことだと思ったので特に情報を深追いすることはしなかった。

 だが、ふと思った。私に無関係と言ったが、炎上させている人々に『関係者』はどれくらいいるのだろうか、と。

 有名人と言っても私には関係がない。ましてや深夜のラジオだ。聞いたこともない。

 あの炎上騒動で、件の深夜のラジオを聞いていた人はどれくらいいたのだろうか。

 

 

 

 弱い人間が救われる方法には3つあると思う。

 ひとつは自分が強くなること。弱い人間でなくなればそもそも問題は消滅する。それが実行できる人間が果たして本当に弱いのかは置いておいて。

 

 ふたつめは、自分より下を見ることである。

 それは確認するだけでも、思い込むだけでもいいし、攻撃まですることもあるかもしれない。

 ネットであまりに荒唐無稽な攻撃をみかけたり、支離滅裂な論を声高に発信している人を見て、ちょっと考えればおかしいことくらいわかるだろと思う場面がある。

 しかしそれはそう思えるだけ自分が強いのだ。

 これは驕りとかではなく、人間の性質的に追い詰められれば必死になり視野が狭くなり論理的でなくなる。

 彼らは必死なのだ。自分は上だと主張することが。本当に上の立場の人が決してそういうことをしないということに気づけないくらい必死に。

 そしてそれは私にも常にしていることなのだ。

 形は違えどはたから見れば嘲笑されるようなことをして精神の安寧を保っている。はずなのである。まぁそれが何かは本質的に気づけないのだろうけど。(このブログなんかその筆頭である)

 炎上だってこれに類すると思う。

 コロナのストレスのはけ口で過剰に叩かれているというのもあると思うが、そもそも誰かを叩くことがストレスのはけ口になりうるということが、弱者叩き(ここでは反論してこないという意味)という行為が持つ自己保身の側面を示唆している気がしてならない。

 

 世界はあらゆる場面で階層構造をなしている。貧富の差もそうだし、人間的な強さもそうである。

 だからいつでも私より下がいて、私を見下げている上が存在している。

 しかし、そこで必死に下を探すか、少しずつでも上を見るかはその人次第であろう。

 私は……まだ無意識に上を見られるほど心が強くないみたいだ。

 

 

 人というものは日常的に矛盾しているもので、自分で下を見て安心しているはずなのにその行動で落ち込んだりする。

 いや、それも私の弱さに起因するものかもしれないので「人」という大きな主語に仮託することはやめておいたほうがいいかもしれない。

 

 ただしかし、これは断言できる。

 どんな人間も、必ずどこか弱い心を持っている。

 そうでもなければこんなにも長い間、そしてこんなにも広い世界の人間が神を生み出したり続けはしないだろう。

 

 

 そう言えば3つめを言っていなかった。

 弱いものが救われる方法の3つ目は、

 

 自分より絶対的な「上」の存在を信じ崇めることである。

 

 

 

 

 

 

 

 これからも適度な「上」を目指して行きていきたいと思う。

 ではまた浮上した時に。