とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

既知への帰着

 自分の知らない言語、例えば私の場合フランス語で書かれた文を読もうと思った時、当然自分の知っている言語、つまり日本語に翻訳しなければ理解することはできない。

 つまり「未知の言語」を「既知の言語」に帰着しているということになる。

 人は知っていることよりも知らないことのほうが多い。

 だからこの「既知への帰着」ということは日常半ば無意識的に行っている。

 

 この「既知への帰着」という行為についての反省が今回の記事の主題である。

 そのためには「既知への帰着」という行為自体をまずは考えたい。

 既知への帰着自体は未知に対しての正当なアプローチだということは疑いようもない。

 掛け算を習うときはすでに習った足し算に帰着して教わった。

 英語の授業をスペイン語で行う学校は一般の日本の学校ではない。

 未知を取り込むためには既知による説明がいるのは自明であろう。

 一般に未知に対するアプローチとして既知への帰着は正攻法だ。

 

 

 しかし既知への帰着はもっと悲観的に捉えるべきだというのが今回の反省なのだ。

 つまり未知へのアプローチは既知への帰着“でしかできない”のだ。

 翻訳された本をよんだことのある人は同じようなことを思ったことがあるかもしれない。

 我々が翻訳された本を読むというのは、翻訳された本を読まざるを得ないという悲しい現実なのだ。

 もちろんその言語を勉強すればいいだけだという意見は尤もだ。これはあくまで一例である。

 しかし世界には翻訳できない言語を使う異国というものがある。

 それが「他者」だ。

 

 私達は他人を知ろうとするときどうしても自分の世界のルールや言語に帰着して考えざるを得ない。

 なぜなら私から見て他人はどこまでも未知であり、私の既知は私を超えることはないからだ。

 しかしこれはとても危険である。

 あまりにも文法が違って自分の言語に帰着できない他人というのは確かに存在するからだ。

 それでも、それでもなお私達はそういう他人に対するアプローチに際して「既知への帰着」という行為に頼らざるを得ない。

 なんと悲しいことだろうか。

 なんと危ういことだろうか。

 いつでも他人の考えが私の言語に翻訳できるものとも限らないのに。

 

 

 「既知への帰着」の危うさを知りながらも「既知への帰着」に頼らなければならないというのが人間なのである。

 知りえないことを知らないで済ませてくれないのが社会なのである。

 

 どうしても「既知への帰着」という行為に頼らければいけない私はどうすればいいのだろうか。

 それは「既知」を増やすしかないだろう。

 

 他者を正しく捉えるにはまず自分が正しくあらねばならない。