「わかりやすい」とはいいことなのか
先日久しぶりに梅田の駅に行くと案内板が増えていて驚いた。
昔は梅田ダンジョンの異名通り、目的の出口に出るだけで一苦労だった。
それが今では行きたい場所へあっという間に行ける。
なんともわかりやすくなっていた。
しかし、なぜだろう、わかりやすくなって良くなったはずの梅田駅が寂しく感じられた。
最近日本はわかりやすすぎないかと思う。
本は文字が大きくなり、参考書は図が増え、サイトは大文字や色のついた文字が多用されている。
実にわかりやすい。作者の言いたいことがすぐにわかる。
ただそれは本当にいいことなのだろうか。
これは私の感想なのだが、どうも今の情報媒体は何かを伝えることに必死だと感じる。
直接的な言葉や技法で、自分の伝えたいことを言い過ぎていると思う。
例えるなら、絵画の下に「この絵は〜を表現するために書かれた絵です。そのためにはxxの距離からyyの角度で見てください」と書いてあるような感じだろうか。
別に悪いことではないだろうし、そもそも私が勝手に感じているだけのたわ言である。
だが、どうしてもいろいろな媒体から聞こえてくるのだ。
作者からの模範解答が。
これもまた決して悪いことではないし、おそらく言わされているのだろうが、スポーツ選手の「皆さんを感動させられるようなプレーをします」みたいな挨拶も私は変に思う。
こちらはあなたのプレーを勝手に見ているだけだ。
そしてスポーツ選手も実際のところ勝つために(私とは無関係に)プレーしている。
なぜ感動させるためになんて言うのだろうか。
お互い自由にプレーしたり感動したりでいいではないか。
つまるところ、最近「自分勝手さ」を許さない風潮があるのだろう。
いや、「自分勝手」が許されないというより「わかりにくいもの」が受け入れられないという方が正確かもしれない。
情報の即時性が至上とされる今、わかりにくさは悪なのかもしれない。
わかりにくさ、わからない状態、迷う時間、深読みする時間。
これらは過去の遺物なのかもしれない。
きっとわかりやすいことはいい。間違いなく悪ではない。
わかりやすいとは短絡だ。
いい意味でも悪い意味でもそこに受け取る側の自由がない。
迷う余地がない。
だからわかりやすい。
だが、わかりにくいことは果たして悪なのだろうか。
本を読む時くらい、スポーツを見る時くらい、私は迷いたい。
表現者というダンジョンに迷うことも悪くないとどうしても思ってしまう。
迷った末に意図せぬ出口に出てしまうくらいの自由があっても面白いのではないか、そう思ってしまう。
こんな私は平成時代の考え方なのだろうか。