とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

「思惟」からの護身術

 夏休みは時間がある。

 だから無駄に考えて無駄に気分が沈む。

 人は得てして考えるから不幸になる。

 わからぬ未来、漠然たる将来、得体のしれない不安。

 考えるだけでは何も解決しないのに、考えずにはいられない。

 なにか打ち込めるものがあればいいが生憎それもない。

 

 しかし、だからといっていつも考えないというのも問題だろう。

 それもそれで不幸になりかねない。

 「考えるべき時」と「考えるべきでない時」というものが確かにある。

 言い換えるとある事柄と対峙した時、考えたほうが幸せになれるか、考えないほうが幸せになれるか、その事柄を分類するための分水嶺を与えたい。

 

 

 

 考えるべき時、それは「考えるに足る情報を持っている事象を相手にしている時」だと思う。

 これはある意味で「具体的なことを考える時」と言えるかもしれない。

 具体的になればなるほど必要な情報は限定的になる。

 そして「時間的に近い事柄を考える時」とも言える。

 なぜならそのほうが必要な情報が手に入りやすいからだ。

 具体例を挙げると例えば高校3年生の進路。

 自分の成績、大学の情報、過去問。

 考えるのに必要な情報は十分ある。

 

 自分が考えられるだけの状態(資格)である事柄は、私は考えるべきだ。

 

 

 対して考えるべきでない時。

 これは考えるべき時の補集合である。

 そう言ってしまうと質素だが、この補集合を考えると案外大きいことに気づくだろう。

 

 遠い将来、生きがい、何を考えているかわからない他人との人間関係、そして「どうしたら幸せになれるのか」、我々は果たしてこれらを考える資格があるのだろうか。

 

 考える相手はわからないことばかりだ。

 しかしわからなすぎることを考えることは意味があるのだろうか。

 時間があるから考える、なんて軽い気持ちでしていいほど考えるという行為は易しいものではない。

 偉大な思索をするためには偉大な準備が必要なのだ。

 

 

 

 考えることはいい、悩むことはいい、迷うことはいい。

 本当にそうだろうか。

 そんな事を言う人は本当に迷ったことがあるのだろうか。

 少なくとも私はそんなに強くない。

 強くないからこそ、考える相手には慎重でいたい。

 この記事を書いてそう考えることができた。

 

 もし将来の私がなにかに悩んているとしたら、それが本当に悩むべきことなのかを今一度悩んでほしい。

 

 その悩みはきっと「悩み」から私の身を守ってくれる。