とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

数学は考え方の学問である

 私は理系の大学生だが数学が苦手である。

 世間一般ではおそらくできる方なのだろうが、いかんせん通っている大学が大学なのですぐに授業についていけなくなる。

 なにより授業が楽しくない。

 謎の文字が踊る数式をいじくりまわして謎の計算結果が出てくる様を楽しむすべがない。

 こんな数式いつ使うんだとか計算ゴリゴリやって何が面白んだとかどうしても考えてしまう。

 だから数式を嬉々として解いている人とはそりが合う気がしない。

 

 

 しかし「数学的な考え方」の素晴らしさは敬服している。

 定理の証明には一分の隙もない。誰も文句のつけようがないほどの完璧。導出の様は芸術であるような定理や証明もある。

 感性は人それぞれだが、完全性は確かにある。

 その完全性はどこに起因しているのだろうかと考えてみると、小学校から算数として数学を習う意味がわかった気がした。

 

 

 主張には根拠が要る。

 

 

 この1文の強制力を、大切さを、絶対性を教えてくれるのが数学なのだ。

 我々は生まれながらにして脳という工具箱を持っている。生まれた時は空っぽだが、次第に言語という強力な道具を獲得する。(ここでの言語は脳内で思考するために使用される言語を主に指している)

 しかし言語自体は使い方を教えてくれない。日常から得る情報で「使われ方」は学ぶが「使い方」は教わらない。

 そこで言語の使い方を指南してくれる科目が必要になってくる。

 その側面が特に強いのが「国語」と「数学」なのだ。

 他の科目も因果関係は登場する。その中でも特に「因果関係の絶対必要性」を教えてくれるのは数学と国語なのだ。

 一見まるで対照的な科目に見えるかもしれないが実はどちらも似たようなことを授業で行っている。

 国語は「書物の中でどのように因果関係が潜んでいるか、日本語を用いて読み解くやり方を教える科目」である。

 対して数学は「定理の必然性を他の定理と定義を用いて示す方法を教える科目」である。

 

 どうだろうか。

 媒体となる言語が違うだけでどちらも主張には必然性があるということを教えているのだ。

 「今日は晴れている。だからAさんは死んだ。」と書いてあったらなぜ?となるし「3足す6は5である定理」があったら根拠は?となるだろう。

 これらの科目は常に根拠を探している。必然性を要請しているのだ。

 数字でも日本語でも、なにかを主張するとき、何かの結論に至った時には理由がいるのだ。

 それを論理的に説明できて初めて主張は主張たりえる。

 それが言語を使う人間に与えられた義務なのだ。

 

 だから私は「他人に発表する主張には不必要な感情を排斥する必要がある」を言いたい。

 数学には感情がないし必要でもない。

 小説の登場人物の動機が「なんとなくそういう感情だったから」だったら興醒めである。

 感情は説明できない。感情は個人の世界の中の必然性でしかない。

 もちろん日々の生活から感情をなくすことはできないしする必要もない。

 ただ「他人」に「主張」するなら感情はあってはならない。

 感情は個人の世界のルールなのだ。

 主張に感情が混ざるとそれは感想になる。

 

 

 主張にはたくさんの根拠がいる。

 そこに個人の感情を挟む余裕はない。

 

 何かを主張するとき、何かを考え結論を出そうとするとき、その時の材料を国語から学び、フォーマットを数学から学ばなければならない。

 人はそれを説得力と呼ぶ。

 

  

先人の足跡をたどる

 大学に入るとまとまった自由時間ができる。

 おかげで多少は新しいことをやろうという気分になる。

 だから現代っ子のテレビっ子の私も本を読もうと思う機会が増えた。

 そんなことでまだ読書歴の浅い私なのだが、本の大切さに気づいたのでメモを残しておく。 

 

 悩みが解決しない時は本に頼ったほうがいい。

 

 私達は所詮人生1回目だ。

 しかもたかだか数十年しか人間をやったことがない。

 そう考えると自分の脳だけですべてを賄おうというのはあまりに危険だと思えてくるだろう。

 

 私ごときの悩みや思考など先人がとっくの昔に考えていることが多い。しかも私より深く考え尽くしている。

 だからこそ本にはできるだけ多く触れたほうがいい。

 そこにはきっと人生のヒントがある。

 

 

 おそらく多くの人にとってはこの記事は当たり前のことを言っている滑稽なものだろう。

 だが忙しい時ほど本は読まなくなる。

 私は特に意識しないと読まないだろう。

 だから未来の自分に向けてメモを残しておく。

 

 

 本は読んだほうがいい。

 名著は人生のナビになりうるだろう。

 

 

 

 

 それともうひとつ、

 自身の無知を晒したくなければ、本が嫌いと自称しないほうがいい。

 

私、家族、友達、他人

 『私と私以外の話』の記事で「他人とはなにか」、『お箸のお話』の記事で「他人をどう見ているか/他人にどう見られているか」をどう考えているかをまとめた。 

 今回は他人観の結「私にとって他人とは何か」について考えをまとめたい。

 

 まずは「他人」の幅を明言しておきたい。

 私は常に「私以外他人」と思っている。きっとこの考えはこれまで私のブログを読んでくれている人はわかると思う。

 私以外他人。文字だけでは当たり前のことを行っているだけに思える。

 まあ当たり前のことなのだが、この事実を「常に」忘れないよう意識している人はそう多くないだろう。

 言われれば当たり前、でも言われないと考えない。

 このあたりの事実は往々にして見落とされがちである。

 実際、この事実を理解していない人はおそらく世界中に一人もいないはずなのに日々仲違いや喧嘩や口論が発生している。

 本当にわかっているならこれらは起こるはずがない。

 他人は他人だ。どうして私の考えが共有できよう。

 

 だが人々はそうしない。他人は他人とわかっておきながら私と違いをすっと受け入れられない。

 なぜだろう。

 

 相手に期待しているからだ。

 

 「どうして私のことがわかってくれないの」の裏には「この程度のことくらいわかるでしょ」が潜んでいる。

 喧嘩するほど仲がいいというが、きっとそこには「お前には俺のことを理解していてほしい」という気持ちがある。

 どうでもいい相手なら喧嘩しない。

 結局人は人に頼り、期待し、安心したい生き物なのだ。

 

 もちろんこれらを馬鹿にする意図はない。むしろ健全な生き方だと思う。

 しかし残念ながら私はそういう人とは出会えなかった。

 この人にはわかってほしいという人がいないのだ。

 だからこう考えてしまうのだ。

 「俺のことは俺がわかればいい。」と。

 

 共感を諦めた世界には私一人が立っていた。

 

 その結果「私以外は私ではない他人である」という気持ちが人一倍強いようだ。

 これまた残念なことに現状はこれでいいと思っている。

 今を悪と感じていない人に改善は訪れない。

 

 だがこれも結構メリットがある。今や私だけに向けたブログではないだろうから明文化しておく。

 それは無駄な争いはなくなるということだ。

 他人への過度な期待は裏切りになり諍いになる。

 勝手に期待しておいて勝手に裏切られているだけなのだが、この性癖は心当たりがあるのではなかろうか。(関連『他人に期待するなかれ』)

 人の行動は突き詰めれば損得勘定に基本すべて帰結できると思っている。

 誰かと話すのも、話すのが楽しいと自分の気分が良くなるという得があって行われる。

 そんなことないという人も、一度「話していてつまらない人」というのを考えてみれば私が言う意味での損得がわかると思う。

 「話していてつまらない人」と話さない理由はつまらないという損をするからだ。

 すべての行動は意思に基づく。意思は感情に基づく。感情は自分の心だ。自分の損得を考えるのは当然だろう。

 損得を越えた献身があるとしたら、それを人は愛と呼ぶのかもしれないがまだ私にはわからないので触れないでおくことにする。

 要するに損得が期待を呼び裏切りを生む可能性があるということだ。

 

 

 ただ、私は思うのだ。

 多くの人はこんなこと考えない。

 もしかしたら私はひとりに慣れすぎたのかもしれない。

 もしかしたら私は他人を知らなさすぎるのかもしれない。

 

 

 私は他人を知らずに他人を語っていたようだ。

 私と他人の境界まで来て二の足を踏んでいるらしい。

 これでは偉そうなことは言えない。

 

 だから長々と話してきた他人観は不格好だがこう締めくくりたい。

  

 

 いつか私は「私」でも「他人」でもない人に出会えるのだろうか。

 

お箸のお話

 前回は私の他人観についてまとめた。

 つまり私が他人をどう考えているか、についてまとめた。

 しかし偉そうに他人を語る以上、前回の記事だけでは不十分にすぎる。

 「他人」がものであれば前回で十分であったかもしれないが実際は違う。

 

 そう、相手も人間なのだ。

 要するに「私」も「他人」にとっては「他人」なのである。

 こうなってくると「私から見る他人」だけでは不十分だ。

 他人がみる私と私が見る他人の相互の関係、見え方、関わり方についても考える必要がある。

 今日はこの関係、つまり「相互の見方・接し方・考え方」を重点に考えていきたい。

 

 

 まずは「相手が私をどう見ているか。」を考えたい。

 だが、これに関しては『世界の交差』の記事で書いた考えが私の底流にあるので詳しくは当記事を参照してほしいのだがそれではまとめにならない。

 端的に言うと「私が見ている他人というのは『私が結んだ他人の像』である。だから私が他人を考えようとしてもそれは結局『私が考える他人』を越えることはできない。」という考えである。

 この考えの元「相手が私をどう見ているか。」を考える。

 

 はたして考えることに意味があるのだろうか。

 

 そう。「他人の考え」を考えることは無意味なのだ。

 

 想像することもできる。考えることもできる。

 しかしそれは結局「自分の世界」で「他者の世界」を想像しているだけなのだ。

 

 

 

 

 いやいや。相手を考えることが無意味なはずがない。

 相手を慮ることが共同体の基本理念ではないのか。

 

 その通り、無意味ではない。

 私はあえて前提を隠して論を展開した。

 

 上記の考えはあくまで「私」という個人単位で、孤独論の元考えられたとてもミクロで自分勝手な考え方だ。

 前回同様「社会に属する私」という前提で同じものを考える必要がある。

 

 

 社会という共同体にいるならば、相手を想像することは無意識的にしていると言ってもいい。当然私もしている。

 だから相手が私をどう見ているか考えることは大いに有意義なことだ。

 だがいきなり相手の見え方を考えるのは難しい。

 となると実はもうひとつの議題「自分が相手をどう見ているか」を考える必要がここで出てくる。

 自分の相手の見え方から相手の自分の見え方を演繹するのが自然だろう。(ここにも他者の思考の不可侵性があると感じられる。)

 

 私が相手を、いい言い方をすれば知ろうと、悪い言い方をすれば品定めしているか考えてみた。

 実はそれを考えさせられるいいきっかけが今日あった。

 ネットのある書き込みで箸の持ち方などの躾に意味があるのかというのが話題になった。

 躾の代表格といってもいい箸の持ち方。

 これを子供にしつける意味は本当にあるのか改めて考えさせられた。

 

 誰もが子供の頃思うだろう。私はその経験がある。

 箸の持ち方だの座り方だの親にしつけられた。

 

 こんなのなんの意味があるんだ、『こんなこと』どうでもいいじゃないか、そう思っていた時期は決して短くなかった。

 

 

 しかし、今はちゃんとしつけられてよかったと親に感謝している。

 なぜなら箸の持ち方はまさに「相手が私をどう見ているか。」に使われるパラメーターだからだ。

 確かにどうでもいいことには変わりないのだ。

 相手の箸の持ち方座り方食べ方で自分の体調が悪くなるわけでもない。

 

 だが、見ていて気分がよくないと感じる人は少なくないだろう。

 気分が悪くならない人も昔しつけを受けていた人はきっと心のどこかでこう感じる。

 

 

 

 

 「『こんなことも』もちゃんとできないのか。」 と。

 

 

 

 

 

 他人の思考・感覚を正確に想像することは不可能である。しかしだからといって傍若無人に振舞っていいわけでもない。

 なぜなら社会では相手は少ない情報から相手を知ろうと品定めしているからだ。

 その情報とはなんだろうか。

 そう、口調・礼儀・所作だ。

 悲しいことに人間性はこういった細かい行為にどうしても現れる。

 そして人はそれを他人の判断材料にする。

 

 だが、一応言っておくが私はこういうマナーとかしつけを盲信しろと言いたいわけではない。

 その人がマナーの何たるか、なぜしつけが存在するかを理解したうえなら箸を3本使おうがその人の自由だ。

 ただここは私のブログなのでこう言い切りたい。

 

 不躾は損をする。

 

私と私以外の話

 嬉しいことに弊ブログの閲覧数が増えている。

 内容的にも自分以外が読んであまり面白くないだろうなと思いながらもブログを始めたので意外である。

 飽きるまではたまにでもお付き合いいただければ幸いである。

 

 そんなわけで自分の今までの記事を見返してみたところ、ひとつ気がついたことがある。

 いたるところで他人に惑わされるなとか人間は本質的に孤独だとか言っている。

 これではまるで私が孤独至上主義だと思われかねない。

 ということで、いい機会なので私の(今の)他人観についてまとめておきたい。

 

 

 単刀直入に言うと、私は他人というものを「本質的理解は不可能であるが不可欠な存在」と捉えている。

 

 「私達は孤独である」ことと、「私達は一人では生きていけない」ことは二律背反ではないと思っている。

 これらは考えているフィールドが違うからだ。

 以下このフィールドの違いを説明する。

 

 私達は一人では生きていてないというのは、社会という共同体に属していること(場面と言い換えてもいい)を想定して言われる。

 これは間違いなく真である。時間を変数に考えると確かに誰でも赤ん坊の時代があった。個人個人を変数に考えても、今晩の食材だけでも何十人何百人が関わっているというのは想像に難くない。

 

 しかしこれらはあくまで「社会」を前提に考えている。

 人の心は社会だけに決定されるものではない。むしろ個人に閉じている。

 

 

 私達は孤独であるという考えは個人に属している。正確には「個人の心の視点」を前提にしている。

 他人とどうしても意見が合わない、他人に自分が理解されない、思い通りにいかない。

 いろいろな場面が考えられるが、これらから孤独を感じる時、すべて個人の心を、感情を発生源としている。

 その時、この感情には赤ん坊の時代も食材の流通も一切関係がない。

 あくまで個人の心という閉じた世界だけでの感情である。

 

 そんな個人の感情論より、社会に生きているという現実だけを考えろという意見もあるだろう。

 

 しかし、私はそうは思わない。

 なぜなら我々は人間だからだ。

 これが数学の問題とか、会社の会議とかなら感情を持ち込む批判も尤もであろう。

 

 だが、今考えているのは「孤独」である。

 孤独の定義はあるだろうか?正解はあるだろうか?

 定義も正解も個人の中にあるものだろう。

 孤独を感じるもののみが孤独を定義しうる。

 

 

 だから私は孤独という対象を考えるとき感情を排斥しようとは思わない。

 故に他人を考える時も感情を抜きにする議論は意味がないと思っている。

 

 なぜなら孤独は他人がいて初めて実感するものだからだ。

 

 比べる対象が、見える対象がいて初めて孤独を感じる。

 皮肉なことに「独り」を定義するためにはもう一人以上必要なのだ。

 

 しかしだからといって社会の存在を蔑ろにするのもおかしい。

 私達が生きていくのは一人だが、生きているのは社会である。

 社会が高度になればなるほど人は(密度は別にして)つながりを増す。

  感情と同様に他人を語るとき社会の存在を排除することは愚かである。

 

 

 

 これらの考えを総括すると

 「他人とは、本質的理解の不可能であるが不可欠な存在である」

 と結論付けられるのだ。

 本質的理解はできないという孤独感と社会のつながりを肯定した不可欠性を総括するとこの結論になるのだ。

 

 

 

 だから私は他者の存在に肯定的である。

 社交的になれたらどれだけいいかと日々思っている。

 しかしそれと孤独は別である。

 全世界の人と友達になったとしても、ネットでどれだけの人とつながろうとも、心は孤独を感じ続けるだろう。

 

 これらを混同して考えると孤独感を原因を他人に求めて無意味な怒りを生んだり、他人観の異なる人とのやり取りで無駄な諍いが生まれる可能性がある。

 

 

 最後にもう一度強調しておくが「私達は孤独である」ことと、「私達は一人では生きていけない」ことは矛盾していないと考えている。

 

 むしろ「私達は一人では生きていけない」から「私達は孤独である」と感じるのだ。

 なぜか。

 孤独は他人ありきの感情だからだ。

 

 

 

 孤独を感じること、それがつまり独りではない証拠なのだ。

 

 

 

是れ知るなり

 京大に通っていると周りに自分より数段頭のいい人がたくさんいる。

 当然そういう人たちは私の想像も及ばないほど勉強している。

 しかし、そんな勉強大好き人間と話すと決まって謙遜する。

 「俺よりわかっている人がたくさんいる。」

 「勉強すればするほどわからないことが増える。」

 と。

 

 頭のいい人は世界での自分の立場というか、自身の能力の自己認識が正しく出来ているのだろう。逆に頭の悪い人は自己の能力を測る能力も低いので自己を過大に評価しがちである。

 これを心理学ではダニング=クルーガー効果というらしい。ちゃんと名前があることが驚きだ。

 

 私が言いたいのはもちろんそんなことでない。

 この現象が起こる裏側の事実が大切だと感じたのでこれを忘れないためにこの記事を書こうと思った。

 それは「未知を知るためには知と能力が必要である」という事実だ。

 

 無知の知と簡単に言うが、無知を自覚することはそう簡単なことでない。

 もちろん言うのは簡単だ。

 しかし自分で本当に納得するためには知と無知の境目まで辿り着かなければ無知の存在を本当の意味で自覚することはできないのではないだろうか。

 そのためには相当の勉強や思考が必要になる。

 知らないことを知る、というのは「知りうることを全て知る」必要があるのだ。

 

 

 大学の勉強は難しい。生きていくうえではもっと難解な問題が待っているかもしれない。

 

 もしかしたら私は知らないことを知るために知り続けるのかもしれない。

 

 

 ちょっと大学の勉強が難しくておかしい文を書いてしまった気がする。今日は早く寝よう。

自分が認められる自分でいられるために

 この記事は『価値観の共有は可能か?』で話した体験の感想の続きである。

 

 あの記事の途中で「異なる意見を自己の否定と捉える種類の人」の話をした。

 年代や地域によって分布が違うかはなんとも言えないが、このタイプの人種はそれなりに存在していると思う。

 少なくとも私の周りには結構いる。

 私はこのタイプの人間ではないので、会話において他者の異なる意見を楽しめる。。

 というか、100人いたら100種類の意見があると思っているので、異文化交流の気分で異なる意見をとりあえず聞いてみる。

 しかし、異なる意見を楽しめない人は間違いなく存在している。

 そういう人がいると揉める必然性がない議論で無駄に揉める。

 

 

 

 なぜ彼らは異なる意見を「否定」と捉えるのだろうか。

 否定しているわけではないと言っても、声を荒げるのだろうか。

 

 彼らは私の意見に反論をしない。

 私が『意見A』だと思う、と意見を呈示した際、なるほど私は『意見B』だと思うのです、と返してこない。

 私は経験や勉強から構築された『意見A』にそれなりの自信がある。なぜならそれなりの考えを経て生まれた意見だからだ。

 だから異なる意見が来ても反論出来るだけの武器はある。(反論するかは別だが)

 だが、彼らはどうだろう。

 『意見B』という武器で応戦してこない。

 私がAという武器を見せるだけでBを否定されたと言い出してBを使ってこない。

 自分で生み出した武器なのだから嬉々として応戦すればいいのに。

 それが議論ではないのか。

 

 

 

 

 

 なるほど。

 

 私は前提が間違っていた。

 意見を持つということはその意見に自信がある、そうに違いないと思っていた。

 しかし実際は違うのだろう。

 

 そう、彼らは自分の意見に自信がないのだ。

 

 

 

 しばしば色々考えて鬱になる私だが、自分が根本から間違っているとは思ったことがない。

 だから自分の意見も基本あってると思って話す。

 そんな自信がないとこんなブログは書けない。

 なんだかんだ2割くらいは間違っていることがあるが、少なくとも話す段階では自分の意見に自信がある。

 そりゃそうだ。私が私の体の私の目で見た私の世界の意見なのだ。あっていると思わない限り何も信じられなくなる。

 

 そう思っていた。

 しかし、それは私の世界での常識だった。

 

 世には自分の意見の肯定は、「自分に対する自信」ではなく「他人の同意」だけで成立する人がいるようだ。

 換言すると、世の人々には自身の肯定の拠り所を他人に求める人がいるようだ。

 だからそういう人は肯定以外を否定と捉える。

 何度否定しているわけではないと伝えても、その声は届かない。

 なぜなら彼らは会話を求めているわけではない。ただ「自身の肯定の声、賛同の声」のみを求めているからだ。

 

 

 なぜ自分に自信がないのか。自分で自分を肯定しないのか。

 きっと自分のことを考えたことがないのだろう。

 自分の頭で解いた問題なら答えに自信が生まれる、しかし誰かの回答を丸写ししたなら、どうしてその答えに自信が持てようか。

 

 

 

 この知見を得て、真っ先に思い浮かんだことは昨今のSNSの流行である。

 『感情の仮託』の記事では、特定の(SNS好きの)若者の行動原理がわからないと言ったが、この知見がひとつの仮説をもたらした。

 

 

 もしかして、SNSでいいね稼ぎに奔走している人々は自分に自信がないのでは?

 

 

 という仮説である。

 いいね、というわかりやすい「同意」を求める行動原理は、「世界に自分が認められている」という同意の確証を求めることに端を発しているのではないだろうか。

 だからどこの誰が押した「いいね」でいいのだ。なんの権威もない「いいね」でいいのだ。

 

 とにかく同意だけを求めているのだ。

 

 

 

 

 少し前にアドラーが流行ったのも、この現状を見ると必然に思える。

 情報社会がもたらした膨大な情報の可視化により、人は自信を失ったのだ。

 どこにでも答えが落ちている。いつでも答えを丸写しできる。

 

 考える必要のなくなった社会が人々から自信を奪ったのだ。

 

 

 だから即物的な「いいね」に自己の承認を見出すようになった。

 

 自己完結した自己承認の喪失の裏返しでSNSは隆盛を極めているのだ。

 

 

 

 

 

 ・・・このブログは社会の批評ごっこをすることが目的ではない。

 ここからが問題だ。

 私はこの気付きから2つ得ることがあると思う。

 

 ひとつは、そういう人種を認めることだ。

 社会で生きていく以上、自分の生き様に自信がないこと、その結果会話に求めているものが大きく乖離している人が存在していることを認識する必要がある。

 

 

 そして、もうひとつ。こちらのほうが重要だ。

 それは、これからどんな人生を歩んでいくことになっても、自分は自分を肯定する存在で在り続けることが大切だ、ということだ。

 自分を肯定しない人に自分で肯定できる人生が歩めるはずがない。

 私の人生の苦しみも幸福も、感じるのは生まれてから死ぬまでずっと私ただ一人なのだ。

 そう考えたら、私の人生を、私自身を肯定できる人は私だけだとわかるはずだ。

 

 

 いつまでも自分が認められる自分で居続けたい。

 

「誰かのために」は危険

 日々徒然なるままに日暮しアニメを見ていると、友人間でいさかいが起こる回がある。

 そういう場面では十中八九登場するセリフがある。

 「お前ためにやったのに。」

 

 

 アニメだからわざわざ声に出して言っているが、現実でも似たような気分になることはあると思う。私は子供の頃よくあった。

 親切をしてくれるのはありがたいがお礼を言わないと機嫌が悪くなる人やいちいち恩着せがましく報告してくる人種が私の周りにも存在している。

 

 私の狭いコミュニティに存在しているのだから世の中にはもっといるのだろう。

 そういう人を見てきたので私はこの「誰かのために」という動機の危険に気づいた。

 なぜならそういう思考はおそらく勘違いであるからだ。

 

 

 

 一度自分の行動原理を考えてみてほしい。

 誰かのためにと思っているものは本当に相手の幸せを願っているだろうか。

 少なくとも恩着せがましい人はそうではない。

 相手のためになる(だろうと思った)ことをすることにより「相手が自分に感謝してくる」ことを行動の動機にしている。

 だからこそ何かをした時点では目的を達成しておらず、相手がお礼を言ってきて初めて自分の行動の目的が達成され、満足するのだ。

 恩着せがましい人の無自覚な恩着せがましさはここに起因している。

 

 

 こういう人種はほぼ間違いなく存在する。

 そしてその人種の存在は自分たちを不快にさせることもある。

 だからその時は「ああこの人はまだ自分の行動原理も自覚出来ていない人なんだな」と心で思えば多少は気も休まるだろうし他山の石となるだろう。

 

 

 

 

 

 

 とまあ、一応まとめができたのでここから落書きの中の落書きである。

 

 

 この人種、こういう事態、これに類する感情から私が持っている疑問がひとつある。

 それは「『誰かのために』をなくすことが幸せなのでは」という疑問だ。

 

 例えばボランティア。

 あれははたから見ればどう考えても誰かのためにやっていることである。

 そして参加者の中にはいくらかそういう感情を持っているものがいるかもしれない。

 しかし、大多数はそんな風には考えていないはずだ。

 自分の休みを返上してでも参加している人がいくらか存在している。

 

 そういう人を見た時、誰か不幸そうな顔をしている人を見たことがあるだろうか?

 

 

 

 私は思うのだ。

 幸せを感じるのは自分だが、そのきっかけは他者の存在が必要である、と。

 他人の存在を受け入れながらも、しかし、自分の意志と行動は自身の中で完結している。

 それが人と関わって生きていく幸せというものなのではないだろうか。

 

 

 

 この結論を出すには私はあまりに子供過ぎる。

 

 

価値観の共有は可能か?

 悲しい。実に悲しいことに直面してしまった。

 他人と会話するということは時に虚しいものなんだと思った。

 

 私は会話を、話題に関した持論を展開する場だと思っている。

 相手の意見も聞き、自分の意見も聞く。

 会社の会議でもないのだから侃々諤々とお互い言いたいことを言うのが健全な会話のあり方だと思っていた。

 

 ただ、これは共通認識ではないらしい。

 普通の会話で、お互いの意見を言うことを「自分の意見が否定された」と思う人種が一定数いるようである。

 そんな気持ちになるなら話をふるなと思うのだがなぜかそうはしない。

 こういう人種は会話という行為に自身の肯定だけを求めている。

 だから彼らにとって会話の“正解”はひとつしか無い。

 それ以外の回答をすると自己を否定されたと思って途端に機嫌が悪くなる。

 

 

 

 先日、年代の違う人と話した時この経験をした。

 私はとても悲しかった。

 考え方や意見が違う人がいるのは昔から認めていたが、会話観・議論観がここまで違う人がいるということに悲しみを覚えた。

 会話という最も基本的な意思疎通手段ですら共通した価値観が存在しないのかと、どこまでも人は孤独なのだなと、感じた。

 

 

 だが私はこの場面で相手に言った。

 「私はかくかくしかじかの会話観を持って意見を述べた。だからあなたの意見を否定する気も肯定する気もない。」

 しかし、相手は私の価値観を受け入れなかった。

 本当は受け入れようとしていたのかもしれないが既存の自分の価値観がその受け入れを邪魔したのかもしれない。

 とにかく、価値観の共有は叶わなかった。

 

 

 

 そして私はとある結論に至った。

 

 「価値観の共有は不可能だ。」と

 

 個人の価値観の構築は個々の人生経験に基づいて行われる。

 あまりにも違う世界で人生を歩んできた人とは価値観の共有は本質的に不可能なのだ。

 既存の価値観があることが純粋な価値観の共有を阻害する。

 

 ただある人は言うだろう。

 気が合う人、仲良くなれる人がいる、と。

 

 たしかに世の中には気が合う人もいる。

 しかし、それは価値観が共有できているのではない、価値観が部分一致しているのだ。

 気が合う人は気が合う領域で関わっているだけで、自分の価値観が共有できているわけではない。

 ただこれは、共有する必要もない幸運なことなのだ。

 多くの場合、価値観のすり合わせが必要になるからだ。

 

 そして、悲しいことにそれはお互いを不幸にさせることが多いように思われる。

 

 

 

 さらに悲しいことがある。

 それは「価値観は人によって違う」という価値観すら違うことがある。

 再帰的であるがこの事実も重要である。

 これを認めている人と認めていない人の間では侃々諤々な議論は不可能である。

 

 

 今回はかなりショックだったので文章が下手な気がする。

 ただ今回の一件では色々思うことがあった。

 落ち着いたら他の考えもまとめたい。

 

 

 

 他人というものは近づこうとすればするほど遠さに気づくものなのかもしれない。 

 

 

がんばらない症候群

 ここ何日か久々の鬱状態に苦しめられていた。

 鬱の時、自分のことばかり考えてしまう。そして自分のあまりの無能さに腹が立ってくる。いつものやつだ。

 

 そして最近、いつも同じ結論に落ち着く。

 

 

 私の真の問題・病気は「がんばらない」ことではないか、と。

 

 

 ミクロな例だと、大学の課題を頑張らない。

 提出しないわけではないが、好成績を狙いに行こうなどとは一度も思ったことがない。

 他の人が向上心を持って提出物のクオリティーをあげていても、自分も頑張ろうと決して思えない。

 とりあえずこれでいいだろう、そんないい加減な気持ちしか持てない。

 

 マクロな例だと、とにかく趣味がない。

 趣味はなんですかと聞かれても、なにも本気で頑張ったことがないので黙るしか無い。

 本当になにもない。

 惰性でテレビを見て、惰性でアニメを追っているが、何かのタイトルを本気で好きになることはない。

 全ての行動(自分の意志100%の自由行動でも)本気では行動していない。

 

 

 

 これまでは色々と言い訳をしてきた。

 

 「まだ自分の好きなことが見つかっていないだけだ」

 「本気にならなくても良いレベルのことだから」

 

 

 しかし三つ子の魂百までということらしい。

 20歳を超えてもこの無気力さはなくならなかった。

 

 

 頑張れないのではない、「頑張らない」のだ。

 

 漠然とした絶望感や恒常的な虚無感はきっとこれが原因だ。

 

 

 

 私はこの症状を「がんばらない症候群」と命名したい。

 これが私固有の症状なのか、同じ症状の人が存在しているのかはわからない。

 しかしこれこそが私にとって至上の考慮事項であると思う。  

 

 他人からしたら甘えだと言われても仕方ないだろう。

 でもこの何にも頑張らない性癖というのは一種の病気だと思う。

 何事にも頑張れない、頑張る能力の欠如というのはなかなかに厳しい。

 

 

 

 今回は精神的にきついせいか愚痴っぽくなってしまった。

 現状、有効な解決手段が見つかっていないこの症状だが、この病を治さない限り真の幸せは手に入らないと思う。

 これからも気づいたことを記録することで、なんとかこの病気を克服したい。

 

 

 

 

 いつかこのブログが私のカルテとなるかもしれない。

 そのために少しブログを頑張ってみたい。

 

 

 そして、もし他の似たような状態の誰かの一助になれば幸いである。

曰く、「効率化が余裕を滅ぼした」

 前回「人生に無駄〜」では、効率化が社会の無駄を省いていることを述べた。

 特に顕著なのは時間だろう。

 少し前なら20分かかっていた調べ物も今では3秒で終わるし、休日自ら買いに行く必要もなくクリックひとつでほしい品物が届く。

 昔なら考えられないくらい便利な社会になった。明らかに昔より自由に使える時間が増えた。

 だから本来なら昔よりも時間的にも精神的にも余裕が生まれるはずだ。

 だが、今の日本に本当に余裕があるだろうか。余裕を感じる力があるだろうか。

 

 

 私はそうは思えない。

 尤も昔をよく知っているとはとても言える年ではないが。

 だが、今を生きる人達を絶対評価したとしてもとても余裕があるとは思えない。少なくとも効率化がくれた時間的余裕分をそのまま享受しているとは思えない。

 

 もちろん余裕を失う原因は1つではないと思っている。

 膨大な選択肢の可視化や情報の即時性の向上など色々あると思う。

 しかしそれらと同等かそれ以上にこの「効率化を追い求めた結果の無駄な所要時間の喪失」があると思うのだ。

 

 今の社会はあまりにも早く動きすぎている。

 誰がためにそこまで無駄を省いているのだろうか。

 もっとまったりした時間を過ごしてもいいと思うのだが。

 

 

 まあそんなことを言ってもこの高速化・効率化の流れは止まらないだろう。

 第一このブログで社会の批評批判をする気はない。

 あくまで備忘録である。

 

 

 

 なぜこんな記事を書いているのだろう。ふと思った。

 最初は大学に行っている時ふと気づいたからだと漠然に思っていた。

 しかし、この社会、と言っても私の主観であり続けるから、きっと社会に余裕が無いように見えるのは私に余裕が無いからなのだ。

 

 そしてその原因が時間と感じている。 

 なるほど、今の私には時間的余裕があるとは言えない。

 

 どうやら効率化に食われているのは私らしい。

 

 

 今の私、未来の私、そしているかわからないがこの文を読んでくれている誰か。

 もしいま余裕がないのならこれを思い出してほしい。

 

 効率化は皮肉にも時に人の時間を奪う。

 効率化、無駄の削減は必ずしも私達の時間を、余裕を増やすものとは限らない。

 どうか取り巻く環境の効率化に飲み込まれないでほしい。

 

 幸運にも余裕の無さに気づけたのなら、現状の効率的な解決を目指すのではなく、何もしない無駄な時間を確保してほしい。

 

 

 

 人生は、多くのことをすればいいわけでも、ことを早くすればいいわけでもない。

 自分たちの速さで、自分たちの量を、ゆっくり確かにすれば良い。

 

 そこにはきっと多くの余裕が、多くの無駄があるだろう。

 

 その余裕が他人への余裕につながるのではないか、その無駄に個人の味が、個性が出るのではないかと思う。

 

 

 

 

 誰がやっても同じ効率的な生き方など、誰かにやらせておけばいい。

 

 

人生に無駄などない。もしくは人生こそ至上の無駄なのか。

 テレビを見ていると、しばしば知らない言葉や事柄と遭遇する。

 私はそういうのが結構気になるタチなのですぐスマホなりパソコンなりで調べることが多い。

 このご時世、調べようとしたら検索によってすぐに調べられる。

 実に便利だ。

 

 暇なときにyoutubeを見んとアクセスすると、ちょうど私が見たくなるようなおすすめ動画が列挙される。

 おかげで自分の見たい動画を労せずして見ることができる。

 実に便利だ。

 

 

 今の社会、間違いなく便利になっている。

 これからもその便利さは増していくだろう。

 それらによって、我々人間はより自由に自分たちの時間を使えるようになる。

 なんと素晴らしい世界だろうか。

 

 

 

 

 確かに便利だ。

 しかし、その裏で失われているものがある。

 それが「無駄」「余剰」「余裕」だ。

 

 便利さ・効率の良さ、これらを求めると必然的に無駄が削ぎ落とされる。

 手垢のついた例だが、電子辞書の登場によって紙の辞書では出会えた言葉との出会いが消えた。

 子供の頃それを聞いた時、ほんとかよと思ったと同時に、本当だとしても別にいいじゃんと思った。

 

 だが、これは大きな間違いだった。

 人生を豊かにするもの、世界を広げるものは紙の辞書でのみ出会える言葉のような存在なのだ。

 

 

 

 『生きがいを探すな』で述べたように、知識の価値は知識を得た後に決定される。

 だから広く学ぶことは自分の可能性を広げるに等しい。

 

 だが、いくら可能性を広げても使える知識・知恵は限られているのも事実だ。

 ではそれらの不使用の知識(選択肢と言っても良い)は無意味だったのだろうか?

 

 もちろん違う。

 知識はあくまで点に過ぎないが、それらは互いにつながっている。

 使われなかったという点では価値がないのかもしれないが、私の脳内に時点ですでに価値があるのだ。

 

 

 知識・知恵は階段なのだ。

 

 今10段目にいるからといって1段目2段目の存在価値は否定できない。

 1段目あってこその10段目なのだ。

 

 

 今の便利さはこの知識の連関、無駄の有用性を曇らせた。

 昔の辞書なら得ることができたかもしれない周辺知識や、テレビなら偶然目に入ったかもしれないくだらない情報が、検索エンジンyoutubeの登場によって失われた。

 

 今の人に言わせれば「そんなの必要ない」のかもしれない。

 

 確かに無駄なのは事実だ。

 今の社会、見えている無駄や削れる余剰は許されない。殊に情報産業では。

 

 だが私は思うのだ。

 

 

 

 その無駄こそ面白いのではないか。

 その余剰こそ趣深いのではないか。

 その余裕こそ人生の余裕なのではないか。と。

 

 

 今の社会に面白さが失われたと言いたいわけでは決して無い。

 むしろ、楽しさを自分で見つけられる人(すでに見つかった幸運な人)にとっては今のほうが断然楽しいだろう。

 

 私が言いたいの無駄や余剰が生み出す楽しさの受動的発見について言っている。

 それらに出会える機会が間違いなく減ったのだ。

 

 

 便利に慣れると、不便を悪役にしてしまいがちだ。

 しかしあってもいい不便さ・非効率さというのもあると思うのだ。

 その不便さはどこか味わいがあって人生を少しいい方向に変えてくれる可能性があるからだ。

 第一人生自体結構無駄が多い。

 (人生に効率を本気で求めるなら今すぐ自殺したほうが良いまである。)

 

 

 趣味、失敗、遊び、挫折、道楽、絶望。

 人生に無駄はつきものである。

 

 

 いや、主観で眺める無駄的期間を人は人生と呼ぶのかもしれない。

 

曖昧な境界線の上で

 他者と話すとき、納得できないことを主張されることが多くある。

 しかもそういう相手に限って強く主張してきたりするからタチが悪い。

 その時ついその人の主張を、その人自身を否定したくなるがそれは危険なことであるということに気がついた。

 

 ここで「否定」という行為の難しさについて触れたい。

 実は否定はなにかを主張するのと同等なほど思慮が必要である。

 ある意見を否定するということはその意見を否定するに足る思考がなくてはならない。

 円周率を4と主張してくる意見ならその否定は容易に主張できる。

 円周率の定義を説明し、円周率が4未満であることを証明すればいい。

 しかし、人との会話は答えがひとつではないものが大半である。

 

 気に食わない意見を受け入れろといいたいのではない。

 

 否定するためにはそれなりの体力が要ると言いたいのだ。

 

 思考の浅い人の意見を聞いた時わざわざ自分でその人の意見を質す必要はないのだ。

 しかも答えのない会話の答えには、その人なりの人生経験と思考プロセスが多分に含まれている。

 これらを否定することは根本的に不可能だ。

 

 その人の人生がどうなろうが私には関係ない(ことが多い)

 なんとなく聞き流すくらいでいい。

 抽象的な話なので断定はしないが、すれ違いが生まれた会話の相手は、自分の人生にそこまで影響がないことが多い。

 

 人の意見なんて話半分で聞いているくらいが精神的にもいいし、無駄な体力を使わなくてすむ。

 あっているかもしれないし間違ってるかもしれないなあなんてくらいの軽い気持ちで聞けばいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんてことは未来の私もわかっているだろう。

 ここからが本題である。

 この「曖昧な線引き」というのは人生のあらゆることに適応できることが重要なのだ。

 私は私を通して世界を知っている。

 しかし私という判断基準すら非常に流動的なものだ。

 今ここで偉そうにブログに書いていることも何年後かには戯言に感じられる可能性がある。

 私の判断、価値観、理は総て曖昧なものなのだ。

 だがさっき言った通り私の世界は私によって感受されている。

 つまり世界は総て曖昧なのだ。

 なにもかもが曖昧な境界線の上に成り立っているのだ。

 

 実はこの考えがあっているか間違っているかはそこまで大切なことではない。

 この考えのもと生きると、全てのものの変化を、予想外を、期待はずれを受け入れることができるのだ。

 

 世界は理不尽だ。

 だいたい自分の思う通りに動かない。

 その時、どれだけ落胆するか、どれだけ絶望するかは、世界への期待の大きさや想定の度合いに比例する。

 それらの大きさや度合いは何で決まるだろう?

 

 それらの確信の大きさで決まるのだ。

 

 この馬が絶対勝つと信じる大きさに比例して、その馬が負けた時の怒りが大きくなる。

 

 

 

 だから確信はやめよう。

 決め付けはやめよう。

 レッテル貼りはやめよう。

 

 すればするほど、裏切られる。やればやるほど絶望する。

 

 全ての意見を、あらゆる事態を脳に置くとき、結論・断定・感想とともに記憶するのはよくない。

 万物は曖昧なラインにいるのだ、グレーゾーンにいるのだ。

 

 

 それらに結論をつけるほど、私は人間としての経験が足りていない。

 

 

 それくらい世界も私も曖昧なのだ。

 

 曖昧な私を、色即是空の世界を、そのまま受け入れよう。

 

 

 

 

 

  これがまとめだと壮大すぎる気がするので

 

 

 「発言者の好き嫌いと、内容の肯定否定・断定は別問題。どんな意見も、自分の意志も、断定は難しい。だから結論を出さず曖昧なまま受け入れよう。」

 

 

 くらいをこの記事のまとめとしたい。

世界は極めて簡潔である

 大学の講義にはまったくもって面白くないものがいくつかある。

 私の理解力のなさか、私の知識の乏しさか、教授の話術のなさか、とにかく退屈な講義がある。

 そうなると自然にサボることを考える。面白くもない授業を受けるために朝から起きるのは虚無でしかない。

 しかし、だからといってすぐに「よしサボろう!」とはなかなかならない。

 ほんとに休んでいいのだろうか、単位は大丈夫か、親に怒られないか、教授に呼び出されないか等々、色々なことがよぎる。

 結局めんどくさがりながら講義に出るのが常である。

 

 

 これに類することは日常で結構あると思う。

 何かをしたい時、行動の前に、他の人にどう思われるとか家族に迷惑がかかるんじゃないかとか既存の人間関係に亀裂が入るんじゃないかとか考えてしまう。

 

 これは人間が集団を形成して群れで生活しているゆえの思考だろう。

 口では他人を気にしないと言っている人が居たとしても、他人を気にしないと発言している時点で相当他人を気にしている。

 できるだけ自由に、人間関係の柵(しがらみ)のない生活ができたら楽かもしれないが、それを実現するのはかなり難しい。出来るとしたら世を知らない子供か世を捨てた老人くらいだろう。

 

 

 だが、この人間関係に代表される「思考の柵」とでも言うべき自分の行動を阻害する諸事項を正しく捉えると本来の世界の在り方が見えてくる。

 前述の講義の例だと、本来考えるべきことは「私」と「つまらない講義」の関係のみでいい。換言すると、私の行動を決めうるものは私の意思と講義の存在のみである、ということである。

 

 世界の総体とは極めて簡潔なのだ。

 私がいる、講義がある、他人がいる、それだけで(私の)世界は構成されているのだ。

 

 実際に感じる社会はそうじゃない?

 確かにさっきの「思考の柵」のように人間関係の柵があるように感じる。

 しかし、それらは実体として存在しているだろうか?

 本当に私の世界を構成していると言えるだろうか?

 それらには実体がないことに気がつくだろう。

 

 

 

 人間関係の柵を生み出しているのは他人ではない、自分なのだ。

 

 世界を複雑にしているのはいつだって人間である。

 

 

 

 これからの人生幾度となく岐路に立たされるだろう。

 人は岐路に立った時たくさんのことを必ず考える。

 こっちのメリットは何かとか、あっちのリスクは何だとか、こっちを選んだら誰かに後ろ指を指されるかもしれないとか、あっちを選んだら誰かに迷惑がかかるかもしれないとか。

 

 

 その時に今一度考えてほしい。

 

 

 

 

 「その悩みのいくつかは自分で生み出した虚像ではないか」と。

 

 

 

 

 

 世界はこれまでもこれからも永遠に単純で明快で簡潔なもので在り続ける。 

 

 

 

走れ、食え、寝ろ

 平日は忙しい。文字を書く暇も考える暇もない。

 しかしきっと社会に出たらもっと忙しくなるだろう。

 一生社会人になりたくないという思いが日々強くなっているが、現状の日本ではそういうわけには行かなそうだ。

 AIには是非とも頑張ってほしい。

 

 なんて言うのは冗談だとしても、きっと今以上に忙しく精神が参る時が残りの人生のうちに必ず訪れるだろう。

 その時、私の性格だと無意味に無駄なことをたくさん考え、杞憂し、絶望して、死にたくなる状態に陥る可能性が大いに考えられる。

 そうなったときのために今の通学生活で気がついたことを記す。

 

 

 気が滅入った時、精神が参った時、切羽詰った時、まず運動をしろ。そしてうまいものをたくさん食べて一度ぐっすり寝ろ。

 

 

 運動を軽視しているなら必ず考えを改めたほうがいい。

 魂は肉体に宿る。どうしても私は私の体からは逃れられない。生まれたときから死ぬまで一生仲良くしなければならない。

 健全な精神は健全な肉体に宿るというが、これは真理であって、私の思考は私の体に支配されていると言っても過言ではない。

 死ぬほど腹が痛いときに数学の問題など考えられるわけがないように。

 この例は極端だとしても、体調が悪かったら考え方も暗くなるものだ。

 

 この事実は人間として生まれた以上変えることは出来ない。

 だから利用してやればいい。

 死ぬ気で走れば何も考えられなくなる。

 どんなパソコンも電力がなければ動かない。

 人間もそうだ。

 体力がなければ脳は動かない。

 無駄な思考を一掃して再起動するという意味でも運動は有用だ。

 

 そしてその体を労るのは食事と睡眠の他ない。

 衣食足りて礼節を知るではないが、衣食が足りなくては精神に余裕が生まれない。

 一度自分の肉体と思考と精神を再起動するためにも運動と食事と睡眠は大切にしたほうがいい。

 

 

 自分に余裕がないと自覚するのは簡単なことではない。

 余裕が無いことにも気づけないから余裕がない状態に陥っているのだから当然である。

 しかし、私はこのブログを用いて余裕がない状態の想定を完了した。

 それだけでも余裕が無い中では余裕となりうる。

 こんな使い方がブログの正しい使い方かどうかは微妙なところだが、まあ今の私が満足できているのだからいいだろう。これからも思考・想定(・愚痴)の置場として利用したい。

 なんの話だがわからなくなったが、とにかく今回のまとめは、

 

 運動と食事と睡眠は脳を強制的にシャットダウンさせる効果がある

 

 ということで。