私と私以外の話
嬉しいことに弊ブログの閲覧数が増えている。
内容的にも自分以外が読んであまり面白くないだろうなと思いながらもブログを始めたので意外である。
飽きるまではたまにでもお付き合いいただければ幸いである。
そんなわけで自分の今までの記事を見返してみたところ、ひとつ気がついたことがある。
いたるところで他人に惑わされるなとか人間は本質的に孤独だとか言っている。
これではまるで私が孤独至上主義だと思われかねない。
ということで、いい機会なので私の(今の)他人観についてまとめておきたい。
単刀直入に言うと、私は他人というものを「本質的理解は不可能であるが不可欠な存在」と捉えている。
「私達は孤独である」ことと、「私達は一人では生きていけない」ことは二律背反ではないと思っている。
これらは考えているフィールドが違うからだ。
以下このフィールドの違いを説明する。
私達は一人では生きていてないというのは、社会という共同体に属していること(場面と言い換えてもいい)を想定して言われる。
これは間違いなく真である。時間を変数に考えると確かに誰でも赤ん坊の時代があった。個人個人を変数に考えても、今晩の食材だけでも何十人何百人が関わっているというのは想像に難くない。
しかしこれらはあくまで「社会」を前提に考えている。
人の心は社会だけに決定されるものではない。むしろ個人に閉じている。
私達は孤独であるという考えは個人に属している。正確には「個人の心の視点」を前提にしている。
他人とどうしても意見が合わない、他人に自分が理解されない、思い通りにいかない。
いろいろな場面が考えられるが、これらから孤独を感じる時、すべて個人の心を、感情を発生源としている。
その時、この感情には赤ん坊の時代も食材の流通も一切関係がない。
あくまで個人の心という閉じた世界だけでの感情である。
そんな個人の感情論より、社会に生きているという現実だけを考えろという意見もあるだろう。
しかし、私はそうは思わない。
なぜなら我々は人間だからだ。
これが数学の問題とか、会社の会議とかなら感情を持ち込む批判も尤もであろう。
だが、今考えているのは「孤独」である。
孤独の定義はあるだろうか?正解はあるだろうか?
定義も正解も個人の中にあるものだろう。
孤独を感じるもののみが孤独を定義しうる。
だから私は孤独という対象を考えるとき感情を排斥しようとは思わない。
故に他人を考える時も感情を抜きにする議論は意味がないと思っている。
なぜなら孤独は他人がいて初めて実感するものだからだ。
比べる対象が、見える対象がいて初めて孤独を感じる。
皮肉なことに「独り」を定義するためにはもう一人以上必要なのだ。
しかしだからといって社会の存在を蔑ろにするのもおかしい。
私達が生きていくのは一人だが、生きているのは社会である。
社会が高度になればなるほど人は(密度は別にして)つながりを増す。
感情と同様に他人を語るとき社会の存在を排除することは愚かである。
これらの考えを総括すると
「他人とは、本質的理解の不可能であるが不可欠な存在である」
と結論付けられるのだ。
本質的理解はできないという孤独感と社会のつながりを肯定した不可欠性を総括するとこの結論になるのだ。
だから私は他者の存在に肯定的である。
社交的になれたらどれだけいいかと日々思っている。
しかしそれと孤独は別である。
全世界の人と友達になったとしても、ネットでどれだけの人とつながろうとも、心は孤独を感じ続けるだろう。
これらを混同して考えると孤独感を原因を他人に求めて無意味な怒りを生んだり、他人観の異なる人とのやり取りで無駄な諍いが生まれる可能性がある。
最後にもう一度強調しておくが「私達は孤独である」ことと、「私達は一人では生きていけない」ことは矛盾していないと考えている。
むしろ「私達は一人では生きていけない」から「私達は孤独である」と感じるのだ。
なぜか。
孤独は他人ありきの感情だからだ。
孤独を感じること、それがつまり独りではない証拠なのだ。