とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

「誰かのために」は危険

 日々徒然なるままに日暮しアニメを見ていると、友人間でいさかいが起こる回がある。

 そういう場面では十中八九登場するセリフがある。

 「お前ためにやったのに。」

 

 

 アニメだからわざわざ声に出して言っているが、現実でも似たような気分になることはあると思う。私は子供の頃よくあった。

 親切をしてくれるのはありがたいがお礼を言わないと機嫌が悪くなる人やいちいち恩着せがましく報告してくる人種が私の周りにも存在している。

 

 私の狭いコミュニティに存在しているのだから世の中にはもっといるのだろう。

 そういう人を見てきたので私はこの「誰かのために」という動機の危険に気づいた。

 なぜならそういう思考はおそらく勘違いであるからだ。

 

 

 

 一度自分の行動原理を考えてみてほしい。

 誰かのためにと思っているものは本当に相手の幸せを願っているだろうか。

 少なくとも恩着せがましい人はそうではない。

 相手のためになる(だろうと思った)ことをすることにより「相手が自分に感謝してくる」ことを行動の動機にしている。

 だからこそ何かをした時点では目的を達成しておらず、相手がお礼を言ってきて初めて自分の行動の目的が達成され、満足するのだ。

 恩着せがましい人の無自覚な恩着せがましさはここに起因している。

 

 

 こういう人種はほぼ間違いなく存在する。

 そしてその人種の存在は自分たちを不快にさせることもある。

 だからその時は「ああこの人はまだ自分の行動原理も自覚出来ていない人なんだな」と心で思えば多少は気も休まるだろうし他山の石となるだろう。

 

 

 

 

 

 

 とまあ、一応まとめができたのでここから落書きの中の落書きである。

 

 

 この人種、こういう事態、これに類する感情から私が持っている疑問がひとつある。

 それは「『誰かのために』をなくすことが幸せなのでは」という疑問だ。

 

 例えばボランティア。

 あれははたから見ればどう考えても誰かのためにやっていることである。

 そして参加者の中にはいくらかそういう感情を持っているものがいるかもしれない。

 しかし、大多数はそんな風には考えていないはずだ。

 自分の休みを返上してでも参加している人がいくらか存在している。

 

 そういう人を見た時、誰か不幸そうな顔をしている人を見たことがあるだろうか?

 

 

 

 私は思うのだ。

 幸せを感じるのは自分だが、そのきっかけは他者の存在が必要である、と。

 他人の存在を受け入れながらも、しかし、自分の意志と行動は自身の中で完結している。

 それが人と関わって生きていく幸せというものなのではないだろうか。

 

 

 

 この結論を出すには私はあまりに子供過ぎる。