とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

人生に無駄などない。もしくは人生こそ至上の無駄なのか。

 テレビを見ていると、しばしば知らない言葉や事柄と遭遇する。

 私はそういうのが結構気になるタチなのですぐスマホなりパソコンなりで調べることが多い。

 このご時世、調べようとしたら検索によってすぐに調べられる。

 実に便利だ。

 

 暇なときにyoutubeを見んとアクセスすると、ちょうど私が見たくなるようなおすすめ動画が列挙される。

 おかげで自分の見たい動画を労せずして見ることができる。

 実に便利だ。

 

 

 今の社会、間違いなく便利になっている。

 これからもその便利さは増していくだろう。

 それらによって、我々人間はより自由に自分たちの時間を使えるようになる。

 なんと素晴らしい世界だろうか。

 

 

 

 

 確かに便利だ。

 しかし、その裏で失われているものがある。

 それが「無駄」「余剰」「余裕」だ。

 

 便利さ・効率の良さ、これらを求めると必然的に無駄が削ぎ落とされる。

 手垢のついた例だが、電子辞書の登場によって紙の辞書では出会えた言葉との出会いが消えた。

 子供の頃それを聞いた時、ほんとかよと思ったと同時に、本当だとしても別にいいじゃんと思った。

 

 だが、これは大きな間違いだった。

 人生を豊かにするもの、世界を広げるものは紙の辞書でのみ出会える言葉のような存在なのだ。

 

 

 

 『生きがいを探すな』で述べたように、知識の価値は知識を得た後に決定される。

 だから広く学ぶことは自分の可能性を広げるに等しい。

 

 だが、いくら可能性を広げても使える知識・知恵は限られているのも事実だ。

 ではそれらの不使用の知識(選択肢と言っても良い)は無意味だったのだろうか?

 

 もちろん違う。

 知識はあくまで点に過ぎないが、それらは互いにつながっている。

 使われなかったという点では価値がないのかもしれないが、私の脳内に時点ですでに価値があるのだ。

 

 

 知識・知恵は階段なのだ。

 

 今10段目にいるからといって1段目2段目の存在価値は否定できない。

 1段目あってこその10段目なのだ。

 

 

 今の便利さはこの知識の連関、無駄の有用性を曇らせた。

 昔の辞書なら得ることができたかもしれない周辺知識や、テレビなら偶然目に入ったかもしれないくだらない情報が、検索エンジンyoutubeの登場によって失われた。

 

 今の人に言わせれば「そんなの必要ない」のかもしれない。

 

 確かに無駄なのは事実だ。

 今の社会、見えている無駄や削れる余剰は許されない。殊に情報産業では。

 

 だが私は思うのだ。

 

 

 

 その無駄こそ面白いのではないか。

 その余剰こそ趣深いのではないか。

 その余裕こそ人生の余裕なのではないか。と。

 

 

 今の社会に面白さが失われたと言いたいわけでは決して無い。

 むしろ、楽しさを自分で見つけられる人(すでに見つかった幸運な人)にとっては今のほうが断然楽しいだろう。

 

 私が言いたいの無駄や余剰が生み出す楽しさの受動的発見について言っている。

 それらに出会える機会が間違いなく減ったのだ。

 

 

 便利に慣れると、不便を悪役にしてしまいがちだ。

 しかしあってもいい不便さ・非効率さというのもあると思うのだ。

 その不便さはどこか味わいがあって人生を少しいい方向に変えてくれる可能性があるからだ。

 第一人生自体結構無駄が多い。

 (人生に効率を本気で求めるなら今すぐ自殺したほうが良いまである。)

 

 

 趣味、失敗、遊び、挫折、道楽、絶望。

 人生に無駄はつきものである。

 

 

 いや、主観で眺める無駄的期間を人は人生と呼ぶのかもしれない。