とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

世界は極めて簡潔である

 大学の講義にはまったくもって面白くないものがいくつかある。

 私の理解力のなさか、私の知識の乏しさか、教授の話術のなさか、とにかく退屈な講義がある。

 そうなると自然にサボることを考える。面白くもない授業を受けるために朝から起きるのは虚無でしかない。

 しかし、だからといってすぐに「よしサボろう!」とはなかなかならない。

 ほんとに休んでいいのだろうか、単位は大丈夫か、親に怒られないか、教授に呼び出されないか等々、色々なことがよぎる。

 結局めんどくさがりながら講義に出るのが常である。

 

 

 これに類することは日常で結構あると思う。

 何かをしたい時、行動の前に、他の人にどう思われるとか家族に迷惑がかかるんじゃないかとか既存の人間関係に亀裂が入るんじゃないかとか考えてしまう。

 

 これは人間が集団を形成して群れで生活しているゆえの思考だろう。

 口では他人を気にしないと言っている人が居たとしても、他人を気にしないと発言している時点で相当他人を気にしている。

 できるだけ自由に、人間関係の柵(しがらみ)のない生活ができたら楽かもしれないが、それを実現するのはかなり難しい。出来るとしたら世を知らない子供か世を捨てた老人くらいだろう。

 

 

 だが、この人間関係に代表される「思考の柵」とでも言うべき自分の行動を阻害する諸事項を正しく捉えると本来の世界の在り方が見えてくる。

 前述の講義の例だと、本来考えるべきことは「私」と「つまらない講義」の関係のみでいい。換言すると、私の行動を決めうるものは私の意思と講義の存在のみである、ということである。

 

 世界の総体とは極めて簡潔なのだ。

 私がいる、講義がある、他人がいる、それだけで(私の)世界は構成されているのだ。

 

 実際に感じる社会はそうじゃない?

 確かにさっきの「思考の柵」のように人間関係の柵があるように感じる。

 しかし、それらは実体として存在しているだろうか?

 本当に私の世界を構成していると言えるだろうか?

 それらには実体がないことに気がつくだろう。

 

 

 

 人間関係の柵を生み出しているのは他人ではない、自分なのだ。

 

 世界を複雑にしているのはいつだって人間である。

 

 

 

 これからの人生幾度となく岐路に立たされるだろう。

 人は岐路に立った時たくさんのことを必ず考える。

 こっちのメリットは何かとか、あっちのリスクは何だとか、こっちを選んだら誰かに後ろ指を指されるかもしれないとか、あっちを選んだら誰かに迷惑がかかるかもしれないとか。

 

 

 その時に今一度考えてほしい。

 

 

 

 

 「その悩みのいくつかは自分で生み出した虚像ではないか」と。

 

 

 

 

 

 世界はこれまでもこれからも永遠に単純で明快で簡潔なもので在り続ける。