とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

曰く、「効率化が余裕を滅ぼした」

 前回「人生に無駄〜」では、効率化が社会の無駄を省いていることを述べた。

 特に顕著なのは時間だろう。

 少し前なら20分かかっていた調べ物も今では3秒で終わるし、休日自ら買いに行く必要もなくクリックひとつでほしい品物が届く。

 昔なら考えられないくらい便利な社会になった。明らかに昔より自由に使える時間が増えた。

 だから本来なら昔よりも時間的にも精神的にも余裕が生まれるはずだ。

 だが、今の日本に本当に余裕があるだろうか。余裕を感じる力があるだろうか。

 

 

 私はそうは思えない。

 尤も昔をよく知っているとはとても言える年ではないが。

 だが、今を生きる人達を絶対評価したとしてもとても余裕があるとは思えない。少なくとも効率化がくれた時間的余裕分をそのまま享受しているとは思えない。

 

 もちろん余裕を失う原因は1つではないと思っている。

 膨大な選択肢の可視化や情報の即時性の向上など色々あると思う。

 しかしそれらと同等かそれ以上にこの「効率化を追い求めた結果の無駄な所要時間の喪失」があると思うのだ。

 

 今の社会はあまりにも早く動きすぎている。

 誰がためにそこまで無駄を省いているのだろうか。

 もっとまったりした時間を過ごしてもいいと思うのだが。

 

 

 まあそんなことを言ってもこの高速化・効率化の流れは止まらないだろう。

 第一このブログで社会の批評批判をする気はない。

 あくまで備忘録である。

 

 

 

 なぜこんな記事を書いているのだろう。ふと思った。

 最初は大学に行っている時ふと気づいたからだと漠然に思っていた。

 しかし、この社会、と言っても私の主観であり続けるから、きっと社会に余裕が無いように見えるのは私に余裕が無いからなのだ。

 

 そしてその原因が時間と感じている。 

 なるほど、今の私には時間的余裕があるとは言えない。

 

 どうやら効率化に食われているのは私らしい。

 

 

 今の私、未来の私、そしているかわからないがこの文を読んでくれている誰か。

 もしいま余裕がないのならこれを思い出してほしい。

 

 効率化は皮肉にも時に人の時間を奪う。

 効率化、無駄の削減は必ずしも私達の時間を、余裕を増やすものとは限らない。

 どうか取り巻く環境の効率化に飲み込まれないでほしい。

 

 幸運にも余裕の無さに気づけたのなら、現状の効率的な解決を目指すのではなく、何もしない無駄な時間を確保してほしい。

 

 

 

 人生は、多くのことをすればいいわけでも、ことを早くすればいいわけでもない。

 自分たちの速さで、自分たちの量を、ゆっくり確かにすれば良い。

 

 そこにはきっと多くの余裕が、多くの無駄があるだろう。

 

 その余裕が他人への余裕につながるのではないか、その無駄に個人の味が、個性が出るのではないかと思う。

 

 

 

 

 誰がやっても同じ効率的な生き方など、誰かにやらせておけばいい。