自分が認められる自分でいられるために
この記事は『価値観の共有は可能か?』で話した体験の感想の続きである。
あの記事の途中で「異なる意見を自己の否定と捉える種類の人」の話をした。
年代や地域によって分布が違うかはなんとも言えないが、このタイプの人種はそれなりに存在していると思う。
少なくとも私の周りには結構いる。
私はこのタイプの人間ではないので、会話において他者の異なる意見を楽しめる。。
というか、100人いたら100種類の意見があると思っているので、異文化交流の気分で異なる意見をとりあえず聞いてみる。
しかし、異なる意見を楽しめない人は間違いなく存在している。
そういう人がいると揉める必然性がない議論で無駄に揉める。
なぜ彼らは異なる意見を「否定」と捉えるのだろうか。
否定しているわけではないと言っても、声を荒げるのだろうか。
彼らは私の意見に反論をしない。
私が『意見A』だと思う、と意見を呈示した際、なるほど私は『意見B』だと思うのです、と返してこない。
私は経験や勉強から構築された『意見A』にそれなりの自信がある。なぜならそれなりの考えを経て生まれた意見だからだ。
だから異なる意見が来ても反論出来るだけの武器はある。(反論するかは別だが)
だが、彼らはどうだろう。
『意見B』という武器で応戦してこない。
私がAという武器を見せるだけでBを否定されたと言い出してBを使ってこない。
自分で生み出した武器なのだから嬉々として応戦すればいいのに。
それが議論ではないのか。
なるほど。
私は前提が間違っていた。
意見を持つということはその意見に自信がある、そうに違いないと思っていた。
しかし実際は違うのだろう。
そう、彼らは自分の意見に自信がないのだ。
しばしば色々考えて鬱になる私だが、自分が根本から間違っているとは思ったことがない。
だから自分の意見も基本あってると思って話す。
そんな自信がないとこんなブログは書けない。
なんだかんだ2割くらいは間違っていることがあるが、少なくとも話す段階では自分の意見に自信がある。
そりゃそうだ。私が私の体の私の目で見た私の世界の意見なのだ。あっていると思わない限り何も信じられなくなる。
そう思っていた。
しかし、それは私の世界での常識だった。
世には自分の意見の肯定は、「自分に対する自信」ではなく「他人の同意」だけで成立する人がいるようだ。
換言すると、世の人々には自身の肯定の拠り所を他人に求める人がいるようだ。
だからそういう人は肯定以外を否定と捉える。
何度否定しているわけではないと伝えても、その声は届かない。
なぜなら彼らは会話を求めているわけではない。ただ「自身の肯定の声、賛同の声」のみを求めているからだ。
なぜ自分に自信がないのか。自分で自分を肯定しないのか。
きっと自分のことを考えたことがないのだろう。
自分の頭で解いた問題なら答えに自信が生まれる、しかし誰かの回答を丸写ししたなら、どうしてその答えに自信が持てようか。
この知見を得て、真っ先に思い浮かんだことは昨今のSNSの流行である。
『感情の仮託』の記事では、特定の(SNS好きの)若者の行動原理がわからないと言ったが、この知見がひとつの仮説をもたらした。
もしかして、SNSでいいね稼ぎに奔走している人々は自分に自信がないのでは?
という仮説である。
いいね、というわかりやすい「同意」を求める行動原理は、「世界に自分が認められている」という同意の確証を求めることに端を発しているのではないだろうか。
だからどこの誰が押した「いいね」でいいのだ。なんの権威もない「いいね」でいいのだ。
とにかく同意だけを求めているのだ。
少し前にアドラーが流行ったのも、この現状を見ると必然に思える。
情報社会がもたらした膨大な情報の可視化により、人は自信を失ったのだ。
どこにでも答えが落ちている。いつでも答えを丸写しできる。
考える必要のなくなった社会が人々から自信を奪ったのだ。
だから即物的な「いいね」に自己の承認を見出すようになった。
自己完結した自己承認の喪失の裏返しでSNSは隆盛を極めているのだ。
・・・このブログは社会の批評ごっこをすることが目的ではない。
ここからが問題だ。
私はこの気付きから2つ得ることがあると思う。
ひとつは、そういう人種を認めることだ。
社会で生きていく以上、自分の生き様に自信がないこと、その結果会話に求めているものが大きく乖離している人が存在していることを認識する必要がある。
そして、もうひとつ。こちらのほうが重要だ。
それは、これからどんな人生を歩んでいくことになっても、自分は自分を肯定する存在で在り続けることが大切だ、ということだ。
自分を肯定しない人に自分で肯定できる人生が歩めるはずがない。
私の人生の苦しみも幸福も、感じるのは生まれてから死ぬまでずっと私ただ一人なのだ。
そう考えたら、私の人生を、私自身を肯定できる人は私だけだとわかるはずだ。
いつまでも自分が認められる自分で居続けたい。