とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

曖昧な境界線の上で

 他者と話すとき、納得できないことを主張されることが多くある。

 しかもそういう相手に限って強く主張してきたりするからタチが悪い。

 その時ついその人の主張を、その人自身を否定したくなるがそれは危険なことであるということに気がついた。

 

 ここで「否定」という行為の難しさについて触れたい。

 実は否定はなにかを主張するのと同等なほど思慮が必要である。

 ある意見を否定するということはその意見を否定するに足る思考がなくてはならない。

 円周率を4と主張してくる意見ならその否定は容易に主張できる。

 円周率の定義を説明し、円周率が4未満であることを証明すればいい。

 しかし、人との会話は答えがひとつではないものが大半である。

 

 気に食わない意見を受け入れろといいたいのではない。

 

 否定するためにはそれなりの体力が要ると言いたいのだ。

 

 思考の浅い人の意見を聞いた時わざわざ自分でその人の意見を質す必要はないのだ。

 しかも答えのない会話の答えには、その人なりの人生経験と思考プロセスが多分に含まれている。

 これらを否定することは根本的に不可能だ。

 

 その人の人生がどうなろうが私には関係ない(ことが多い)

 なんとなく聞き流すくらいでいい。

 抽象的な話なので断定はしないが、すれ違いが生まれた会話の相手は、自分の人生にそこまで影響がないことが多い。

 

 人の意見なんて話半分で聞いているくらいが精神的にもいいし、無駄な体力を使わなくてすむ。

 あっているかもしれないし間違ってるかもしれないなあなんてくらいの軽い気持ちで聞けばいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんてことは未来の私もわかっているだろう。

 ここからが本題である。

 この「曖昧な線引き」というのは人生のあらゆることに適応できることが重要なのだ。

 私は私を通して世界を知っている。

 しかし私という判断基準すら非常に流動的なものだ。

 今ここで偉そうにブログに書いていることも何年後かには戯言に感じられる可能性がある。

 私の判断、価値観、理は総て曖昧なものなのだ。

 だがさっき言った通り私の世界は私によって感受されている。

 つまり世界は総て曖昧なのだ。

 なにもかもが曖昧な境界線の上に成り立っているのだ。

 

 実はこの考えがあっているか間違っているかはそこまで大切なことではない。

 この考えのもと生きると、全てのものの変化を、予想外を、期待はずれを受け入れることができるのだ。

 

 世界は理不尽だ。

 だいたい自分の思う通りに動かない。

 その時、どれだけ落胆するか、どれだけ絶望するかは、世界への期待の大きさや想定の度合いに比例する。

 それらの大きさや度合いは何で決まるだろう?

 

 それらの確信の大きさで決まるのだ。

 

 この馬が絶対勝つと信じる大きさに比例して、その馬が負けた時の怒りが大きくなる。

 

 

 

 だから確信はやめよう。

 決め付けはやめよう。

 レッテル貼りはやめよう。

 

 すればするほど、裏切られる。やればやるほど絶望する。

 

 全ての意見を、あらゆる事態を脳に置くとき、結論・断定・感想とともに記憶するのはよくない。

 万物は曖昧なラインにいるのだ、グレーゾーンにいるのだ。

 

 

 それらに結論をつけるほど、私は人間としての経験が足りていない。

 

 

 それくらい世界も私も曖昧なのだ。

 

 曖昧な私を、色即是空の世界を、そのまま受け入れよう。

 

 

 

 

 

  これがまとめだと壮大すぎる気がするので

 

 

 「発言者の好き嫌いと、内容の肯定否定・断定は別問題。どんな意見も、自分の意志も、断定は難しい。だから結論を出さず曖昧なまま受け入れよう。」

 

 

 くらいをこの記事のまとめとしたい。