とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

価値観の共有は可能か?

 悲しい。実に悲しいことに直面してしまった。

 他人と会話するということは時に虚しいものなんだと思った。

 

 私は会話を、話題に関した持論を展開する場だと思っている。

 相手の意見も聞き、自分の意見も聞く。

 会社の会議でもないのだから侃々諤々とお互い言いたいことを言うのが健全な会話のあり方だと思っていた。

 

 ただ、これは共通認識ではないらしい。

 普通の会話で、お互いの意見を言うことを「自分の意見が否定された」と思う人種が一定数いるようである。

 そんな気持ちになるなら話をふるなと思うのだがなぜかそうはしない。

 こういう人種は会話という行為に自身の肯定だけを求めている。

 だから彼らにとって会話の“正解”はひとつしか無い。

 それ以外の回答をすると自己を否定されたと思って途端に機嫌が悪くなる。

 

 

 

 先日、年代の違う人と話した時この経験をした。

 私はとても悲しかった。

 考え方や意見が違う人がいるのは昔から認めていたが、会話観・議論観がここまで違う人がいるということに悲しみを覚えた。

 会話という最も基本的な意思疎通手段ですら共通した価値観が存在しないのかと、どこまでも人は孤独なのだなと、感じた。

 

 

 だが私はこの場面で相手に言った。

 「私はかくかくしかじかの会話観を持って意見を述べた。だからあなたの意見を否定する気も肯定する気もない。」

 しかし、相手は私の価値観を受け入れなかった。

 本当は受け入れようとしていたのかもしれないが既存の自分の価値観がその受け入れを邪魔したのかもしれない。

 とにかく、価値観の共有は叶わなかった。

 

 

 

 そして私はとある結論に至った。

 

 「価値観の共有は不可能だ。」と

 

 個人の価値観の構築は個々の人生経験に基づいて行われる。

 あまりにも違う世界で人生を歩んできた人とは価値観の共有は本質的に不可能なのだ。

 既存の価値観があることが純粋な価値観の共有を阻害する。

 

 ただある人は言うだろう。

 気が合う人、仲良くなれる人がいる、と。

 

 たしかに世の中には気が合う人もいる。

 しかし、それは価値観が共有できているのではない、価値観が部分一致しているのだ。

 気が合う人は気が合う領域で関わっているだけで、自分の価値観が共有できているわけではない。

 ただこれは、共有する必要もない幸運なことなのだ。

 多くの場合、価値観のすり合わせが必要になるからだ。

 

 そして、悲しいことにそれはお互いを不幸にさせることが多いように思われる。

 

 

 

 さらに悲しいことがある。

 それは「価値観は人によって違う」という価値観すら違うことがある。

 再帰的であるがこの事実も重要である。

 これを認めている人と認めていない人の間では侃々諤々な議論は不可能である。

 

 

 今回はかなりショックだったので文章が下手な気がする。

 ただ今回の一件では色々思うことがあった。

 落ち着いたら他の考えもまとめたい。

 

 

 

 他人というものは近づこうとすればするほど遠さに気づくものなのかもしれない。