とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

私の限界

 

 自分の限界について考えたことはあるだろうか。

 これは能力的な話でも良いし、そうでなくて「どこまでが自分なのか」という限界でもいい。本質は同じことだ。

 この世界ではどこまでの範囲が『私』に属しているのだろうか。

 

 2019年の私はこういうだろう。

 私の限界は世界の限界だ、私の限界が世界の限界だ、と。

 

 

 我々が属する世界とはなんだろうか。

 私の場合基本京都にいる。だから世界は京都だろうか。

 いやいや、京都は日本の1都市に過ぎない。ならば日本が世界だろうか。

 なにを馬鹿な、世界と言っているじゃないか。では地球が世界だろうか。

 今や人類は宇宙に到達している。なるほど宇宙が世界だろうか。

 

 どれも間違っているとは言えない。しかしどれも所詮他人が「世界」という言葉に意味をつけただけだ。もっと主観的に世界を定義しよう。

 

 

 

 この試みをしてみると気がつくことがある。

 それは「世界には存在世界と主観世界がある」という事実だ。

 存在が世界にいる条件の世界『存在世界』にはあらゆるものがある。

 スマホもそうだし京都もそうだし外国もそうだし遠くの星もそうだ。

 

 では『主観世界』とはなんだろうか。

 これは私という個人が認識できる狭い世界である。

 アフリカの国は存在はしているが、私は何も知らない。これは主観の世界の住人にはなれない。

 仮にGoogleEarthで確認したとしてもアフリカの国のなんたるかは知らないままであるためやはり主観世界には属さない。

 

 ではなにが属しているのか。

 「アフリカの国の存在」という存在は主観世界に属している。

 換言すると、「自分の知っている、見たことのある曖昧なアフリカの国を元に私の脳で構成された存在X」はこれに属している。

 

 

 私達は本当の本当に存在しているそのものの物体を知ることはできないのだ。

 以前の他人の像の話と同じである。

 存在世界は主観世界を内包していない。主観は独立こそしていないが不可逆なほど変貌している。

 

 存在と認識にはそれくらいの差がある。

 これは私達が目で見て脳で処理するため避けられないことだ。

 

 

 

 これを受けて次に考えることは「私はどっちの世界の住人なのか」という問いであろう。

 私は存在しているから存在世界か?

 いや、違う。

 私という存在を認識しているのも私の主観である。

 私は永遠にこの主観世界からは逃げられない。

 

 

 それではどうすれば自分の限界を広げられるだろうか。

 広げることが必ずしも幸福に繋がるかは一考の余地があるが、いくらかは世界を広げないと他人の世界との共通部分がなくなってしまう。

 それも社会で生きるには問題なので自分の限界を広げる方法を考える。

 しかしこれは簡単な話だ。

 たくさん未知の世界と触れ合えば良い。

 主観世界を理解している人は未知の領域の存在ともうまくやれるはずだ。

 なぜなら主観世界を認めながら未知を否定することは自分が全知全能と言っているのに等しいからだ。

 

 

 

 では未知とどう接すればよいか。

 未知とのふれあいにも2つある。

 今日の一番重要なテーマはここだ。

 

 

 まずは経験的未知がある。知らない国に行ったり、色んな業種のアルバイトをしたり、人生初の食べ物を食べたり、人が新しいことに挑戦しよう!と思った時に頭に浮かぶ色々のことだ。

 これは狩りに例えるなら獲物である。これがなくては始まらない。

 

 

 

 しかしもうひとつ大切なものがある。

 それは言語的未知である。

 以前言語が思考を支配しているというような話をし、その時また今度詳しく話すと言っていたが(「他人に期待するなかれ」参照)今回が実はそれだった。

 言語がなければ思考ができない。表現もできない。

 知らない国に行っても知らない国に行ったということにしかならない。知らない国に行って何を感じたか、何を学んだかを脳内で言語として表現できなければならない。

 言葉は狩りの道具なのだ。

 道具がなければ獲物は素通りするだけだ。

 我々は狩りに行く前に日々道具を磨かなければならないはずなのだ。

 

 

 

 私の限界、それは私がいる主観世界の限界に等しい。

 そしてその世界は言語によって画定されている。

 よって、

 

 私の限界=私の世界の限界=私の言語の限界

 

 という結論に至ったのだ。

 

 

 

 

 

 以上、ウィトゲンシュタインを自分なりに解釈した拙い感想文である。

忙しさは心を亡くす

 GWが終わって早速つらいお気持ちになっている私です。

 それにしても忙しいと何も考えられないことを自覚する。

 目の前のことだけを追って、頭を使わず体を動かしている、そんな感じ。

 

 

 忙殺とは言い得て妙だ。

 本当に漢字とは良く出来ている。

 まさに心を亡くして生活しているし、眼前の業務に殺されている。

 残るのは虚しさだけである。

 

 こんな時、友達が会えばいいのだろうが、生憎この性格から友達は少ない。

 

 美味しいラーメンでも食べることとしよう。

 

幸せなバカであれ

 GWももう終わりですが、私は今ハッピーな気持ちでいます。

 ブログを始めた時は誰もこんなブログ読まないだろうと思っていましたが意外や意外、読んでくれる方がいらっしゃるようで嬉しい限りです。

 しがない大学生の落書きですがこれからも楽しんでもらえると幸いです。

 

 私は昔、幸せな人間はどんな状態でいるのか考えたことがある。

 その時、幸せな人に見られるひとつの共通点を発見した。

 それは「幸せな人は考えていない。」ということである。

 

 

 この文には2つの意味がある。

 ひとつは考えないほうが幸せなこともある、という意味だ。

 毎日日本の将来を危惧して政治家や若者に憤怒しているおじいさんより、 田舎でのんびり暮らしているおじいさんの方が幸せに見える。

 幸せの定義は個人によるので断定はできないが、少なくとも私は田舎でのんびり暮らしている老後のほうが幸せに感じるだろう。

 これは人間関係にも言える。相手のことを不必要に考えて気を揉むより、飲みながらくだらない話をしている方がよっぽど楽しい。

 何も考えない人生は不幸になるが、考えれば人生が幸福になるかというとそうでもない、ということなのだ。

 

 

 そしてもうひとつの意味、こちらがより重要である。

 ずばり「考えなくても良い、という状態が幸福の必要条件」という意味である。

 定義というと語弊があるため必要条件という言い方にした。(間違っても十分条件ではない)

 

 ある知識を学びたいと思いながらそれを勉強する人のほうが、なにをやらされているかわからないながら勉強をしている人より充実しているだろう。

 自分はこの職に就くために生まれてきたんだと思えるような職がある人のほうが、何をやりたいかわからずフリーターをしている人より明るい人生を送れるだろう。

 俺はこの人さえいればいいという恋人がいる人のほうが、なんとなく周りの人とつるんでいる人より幸せだろう。

 

 つまり現状に再考の余地が状態が幸せなのだ。

 これさえあれば、この人さえいれば、そういうものに出会えている状態が幸福なのだ。

 だからそういうものを早く見つけられないと人生はいつまでも不満足な、幸福でないものになってしまう。

 

 

 

 だからそれを見つけましょう。

 そういうのは簡単だ、そんなことは安い自己啓発本に言わせておけばいい。

 このブログはあくまで私の日記である。綺麗事を書く場ではない。

 そもそもそれを見つけようとしただけで見つかるなら全人類幸せである。

 そうではないのだからこれは不可能か、それに近いほど困難なものなのだ。

 ではどうすればいいのか。

 

 バカになれ。

 

 鬱になっている鳥を見たことがあるだろうか。自殺する犬を見たことがあるだろうか。

 人間は考えることができる。これは贅沢な呪いなのだ。

 考えることがなまじ出来てしまうせいで、考えなくても良い不幸に苛まれる。

 思考とは訓練が必要なのだ、適性が必要なのだ。

 適性のない人は思考によって自らを不幸にする。

 それが鬱である。

 

 

 ならバカになろうではないか。

 

 

 考えないことが悪とは誰も言っていない。

 今目の前にある状態を自然体で受け入れる。

 

 それだけで幸福になれたらとても幸運だ。

 しかし、それで不幸になることは絶対にない。

 

 

 

 考えることを許される人は「考えること」を考えたことがある人だけの特権である。

 

 

 

 (そんなこと言っても色々考えちゃうけどね。)

 

生きがいを探すな

 

 GWは時間がたくさんあるのでつい色々考えてしまう。

 

 俺はなんで生まれたんだろうか。

 俺はなんで生きているのだろうか。

 

 ふとそう思う時があるだろう。

 しかしこれを考えだした時、基本答えが出ず鬱になって終わる。

 私はそういう経験を何度もしてきた。

 

 ここに今の私が導いた考えを記しておきたいを思う。もしかしたら間違っているかもしれない。甘えかもしれない。逃げかもしれない。

 だが大学生の私はこう考えたという事実は残しておきたいと思う。

 

 

 人生のこと、未来のこと、生きがいは考えるな。

 

 

 この結論に至った理由はただ一つ、世界への諦念からである。

 少し長くなるが、時間への考え方・定義の話をしたいと思う。

 

 私曰く、未来は本質的に存在しない。

 過去はどうだろうというとこれもまた独立では存在しない。

 全ては"イマ"の従属関係にある。

 

 今、私が京都大学に通っているのも今日突然決定されたわけではない。

 過去に受験勉強をした、その前にこの大学を志望した、その前に進学校に入学した・・・と遡ろうと思えば生誕まで遡れる。

 なんなら生誕前まで遡ることができるだろう。

 現在とは過去の積み重ねであるとともに現在の一部分で在り続けるのだ。

 

 

 では未来はどうだろうか。

 未来もまたイマの一部分である。

 今の行動が未来の行動の端緒となりうる。

 この記事を書いている時点で、未来に投稿されることがおおよそ決まるように。

 

 これを突き詰めて考えると過去も未来も現在なのだ、イマなのだ。

 そもそも時の流れを区切ることがナンセンスなのだ。

 

 

 そう考えた時、誰が人生の意味を、生きがいを考えることができようか。

 今やっていることの意義は後で気がつくものなのだ。

 これだけは忘れないで欲しいのでもう一度言っていく。

 

 

 現状の行動や知識の意義は後天的に決定される。

 

 

 実はこれに似た経験は誰もがしている。

 高校を卒業して何年後かに高校生活を振り返ると「あの時は楽しかった」と感じる。遊園地でも良い。いる間に自覚する楽しさより、その楽しさを失った後のほうがその時間に価値を感じる。

 人生も同じ話なのだ。

 人生は娯楽じゃない?

 そういう意見もあるだろう。

 では人生とはなんだ?楽しさを、面白さを、幸せを求めて送る主観時間を人生というのではないか?

 人生の意義はあとから気づくものなのだ。

 生きている間に生きがいを見つけるなんでちゃんちゃらおかしい話だ。

 遊園地にいる途中に「今日遊園地に来た意味はこの観覧車だな」なんて誰かに言われたらその後の遊園地は興ざめだろう。

 

 生きた意味なんて死ぬ瞬間に決まれば良いのだ。

 生きがいを考えて、行動の意味を考えて現在を肯定できない奴に、肯定できる未来があるわけがない。

 

 自分の人生を肯定できうる人はただ一人自分だけなのだ。

 

不自由とのつきあい方

 自由になりたい

 

 将来そう強く思う時が来るかもしれない。

 だがその時は一度冷静になって考えてほしい。 

 「自由」の定義を。

 

 自由を求めるということは現状が不自由と感じているのだろう。

 今だってそうだ、本当にやる必要があるかわからないようなレポートに押しつぶされている。

 ではこのレポートから解放されたら私は心の底から自由と感じるのだろうか。

 

 断言しよう。その時はさらなる自由を求める。

 不自由の対極に自由があるという認識は正確ではない。

 人生は玉ねぎのごとしという外国の格言があるが、自由もまた玉ねぎであるのだ。

 

 私という元は不自由集合Aという最小不自由集合に属している。これは私達が不自由と感じられる最も卑近な不自由である。

 上の例ではレポートの束縛がこれに該当する。

 このAの補集合が自由であるなら話が楽だが実際はそうではない。

 Aを内包した不自由集合Bがある。

 レポートを放り投げても。単位はどうするのか、大学という存在がAと見ても退学したらその先はどうするのか、といったように不自由の上にはもうひとつ上の次元の不自由が必ず存在している。

 

 人生は本質的に不自由なのだ。

 人間という器がそもそもの不自由であるためこれは自明のことであるが人は(私は)この事実を忘れがちである。

 真の自由を手にした時、人は人生を終える。

 

 

 

 ではこの不自由は人生をどうすれば肯定できるか。

 どうすれば腐らず人生を全うできるか。

 

 それは「工夫をし続ける」ことに尽きる。

 

 必要は発明の母という、これに準えるなら制約は工夫の父であると私は感じている。

 ゲーム業界を見るとわかる。

 昔はROMのキャパはかなり限られていた。

 今のゲームと比べるのも馬鹿らしいくらいの容量の少なさである。

 しかし、それでも昔のゲームは面白かった。

 制作側が本気で工夫をこらし、容量の制約の中、いくつもの名作ができた。

 

 今のゲームにも名作はある。膨大なデータ量を持って、昔では考えられないグラフィックのゲームがたくさんある。

 

 ただ私は思うのだ。本当に容量の増加分だけ楽しくなっているのかと。容量が増えた分の革新的なゲームが生まれたのかと。

 このブログは論文でもレポートでもない。これはあくまで私の感想である。しかもゲームをそんなにやらない私の感想だ。

 

 しかし今のゲームは昔ほどの革新がないと思えてならないのだ。

 そんなの当たり前だ。昔は過渡期でまだ発見されていないアイデアが多かったんだから。そういう意見も承知である。

 それでもやはり思うのだ。今のゲームには工夫がないと。

 これはゲームをする側にも言える。

 昔は一つのカセットをヘタしたら何年もやった。

 隠し要素のコンプリートや縛りプレイや友達との対戦など、プレイする側にもゲームを骨の髄まで楽しもうとする心意気があった。

 今はそう言えるだろうか。昔のゲームに比べてできることは圧倒的に増えた。しかし昔のゲームほどそのゲームを骨の髄まで遊びつくしていると言えるだろうか。

 

 

 結論、人生に自由はない。

 だから自由を求め路頭の迷うのではなく、身の丈にあった不自由さと友達になればよい。

 向上心は正しい方向で、人生を賭すに値する分野で発揮すればいい。

 

 それ以外は配られたカードで人生を楽しもうではないか。

 

 そこに本当の意味での自由が落ちているかもしれない。

驕るな、そして欲するな。

 私はなんと学ばない人間なのだろう。

 これだけ自分に向けて文章を書いているのにまた同じ過ちをした。

 人間、一度染み付いた癖や傾向は変わらないようだ。

 

 先日友人と麻雀をやって大敗を喫した。

 負けたことはまあいい。しかし負け方が悪かった。

 欲というのはいつも自分と寄り添って存在している。

 これだけ日々の生活と欲望の距離が近いのなら、自分のしたいことをするのが人生と主張する人がいるのもわかる。

 しかし、欲の中でも自分の幸福を脅かす欲があるということを金輪際忘れないで欲しい。

 それは驕りを伴った欲望である。

 根拠もなく、努力もなく、思慮もない欲望は必ず自分を不幸にする。

 前回の話に通じるが、基本人間が自由にできることなど限られている。

 それなのに、そうとわかっているはずなのに、そこに何らかのきっかけ(特に偶然が続いたことによる勘違い)があると人の欲は暴走する。

 「今の俺ならいけるんじゃないか」と

 「この流れならきっと大丈夫だろう」と

 

 これから常に戒めてほしい。

 

 

 驕るな、欲するな。

 驕りは目を曇らす。欲は心を曇らす。

 

 私の人生の主人公は私かもしれないが、脚本家は必ずとも私とは限らないということを肝に銘じろ。

人生、いい加減くらいが良い加減

 自省録いいですね。図書館で借りれるようになったら借りたい。

 

 あの番組を見て思ったことをまとめておきたいと思う。

 まず、自省録という形態に惹かれるものがあった。

 どういうことかというと自分で思ったことを自分でまとめて自分で活かしているという点が気持ちいい。

 それがあの本で言っていたことに合致していることが更にいい。

 私があの本で最も共感したことがまさにその「人生の”見え方”は主観で決まる。」という主張なのだ。

 

 我々は日々他人と接し生活している。そして時折人間関係に悩む。

 この悩みがどこから生まれてくるかと今一度考えてみると良い。

 実はそれは他人から生まれるのではなく、他人を考えたり、恨んだり、妬んだりしている自分の中から生まれているのだ。

 他者のことは想像するしかない。これはどうやっても避けられない事実だ。

 しかしこれを自覚することが重要なのだ。

 この事実を人はしばしば見落とす。

 そしてどうしようもない他人のことを勝手に想像し勝手に苦心する。

 これさえ肝に銘じておけば無駄な鬱からは幾分開放されるだろう。

 人生、自分が楽観的であればいくらでも明るくなりうる。この人生を生き、この目で見ているのはいつも自分しかいないのだ。

 

 

 そしてもうひとつの大きなテーマを私は見つけることができた。

 それは「人生はどうしようもないことがたくさんある。」ということだ。

 先ほどの「人生の”見え方”は主観で決まる。」とは決定的に違うことがわかるだろう。

 本を読み感想をどう持つかは自由にできるが、本の内容が気に入らない時にその内容を書き換えることはできないのとちょうど同じである。

 私の人生を見ているのは私であるが、私の人生を構成するものはむしろ私以外と言える。

 そもそも私という器が人間である時点で、私の人生が私でないなにか大きなものによって決定されていることになる。

 スタート時点でこれなのだから本編はもっと融通がきかない。日本というフィールドを設定され、干渉できない別プレーヤーとともにゴールのないゲームが続く。自分の人生が自分の思い通りにいく期間なんて一瞬あるかないかである。

 

 

 そう考えた時、ひとつ言えることがある。

 それがまさに「人生、いい加減くらいが良い加減。」ということなのだ。

 人生に悲観することも楽観し過ぎることも良くない。クソゲーだと放り出せと言っているわけではないが、心を壊してまで熱心にプレイするほどのものでもないといいたいのだ。

 

 

 

 

 なるたけ自然に生き、できるだけ他との関係を乱さずに死ぬことが幸福への近道なのだろう。

 

 

 これを胸に明日から自然に随って生きていこうと思う。忘れそうになったらまた自省録を読むとよい。

 

令和

 新しい元号に変わった。いつか今日の日を振り返る時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。

 しかし、どんな時代になったとしても人生を楽しむことを忘れないで欲しい。

 嫌なら逃げればいいし、やりたいならとことんやればいい。

 

 

 世の中の人は俺が思っているほど俺に興味はない。

 ぜひ自由を感じる余裕を忘れない時代を生きてほしい。

世界の交差

 「我々が生きているのは何次元か?」

 この問いに多くの人は3と答えるだろう。

 しかし私はこの問いに違う答えを持っている。

 哲学的視点から見るとこの問いはもっと難しい。

 

 なぜ急にこんなことを言い出したのかというと、先日知り合いの間で揉め事があり、人間関係が大きく変わる場面を見たからである。

 その人たちがその後どういう関係になったとか、仲直りしたかとかは特に興味はない。

 ただこの時ふと「自分」と「他者」を考えなおした。

 生きていると自分以外の人間と関わる機会が多くある。

 ただ物理的に関わるだけでなく、精神的なつながりを持つことも少なくない。

 改めて考えてみると怖くはないだろうか。

 私達は私以外の人間の何を知っているというのだろうか。

 

 私が私以外の人Aと話す。しかし私が話しているのは本当にA本人と言えるのだろうか。

 正確にいうと、話しかけているのはAと言えるかもしれないが、話をしている人、私がAと認識しているものはA本人と言えるのだろうか。

 前回の境界線の話に通じるものがあるが、会話というものは「自分」と「それ以外のもの」との境界線に立つ(ふれあいを持つ)瞬間と言える。

 Aの人となりや会話の内容の解釈はあくまで「私」の認識によって決定される。

 Aの存在は私から見える世界に限ると私に完全に依存しているいうことになる。

 それはもうA本人とはまた違う、「私が私の世界に結んだAの写像」と言えるのではないだろうか。

 そうなると私は、Aでなく、私により生み出されたAの写像をAとして認識して会話していると言うことができる。

 これだけなら実はむしろ怖くない。私が持つ世界(私世界)は私が知覚したものによってのみ構成されているのならば世界の完全性は保たれる。

 しかしそうではない。このAの写像は私だけでなくAという存在にも大きく依存している。

  これは言ってみれば完全に鎖国していた国に外国人が居座るようなものである。

 我々の世界は自分の管轄下に管理できないものを受け入れながら成立しているのである。

 

 しかし実生活でこんな面倒くさい事を考えている人はそう居ない。

 もっと気軽に他人を受け入れている。

 上記の考え方も否定する必要はないが、これも否定はできない。

 人間関係とは何なのだろうか。

 

 こうは言えないだろうか。

 社会は「個々の世界の共通集合」であると。

 人と話す時、自分が理解できるのは自分が(既に、または能力的に)理解できる世界の範疇だけである。

 会話とは、人との関わりとは、自分の世界の一部と他者の世界の重なり合いなのだ。

 人と会話する、それは自分と他者の世界が交差した瞬間なのだ。

 そして自分の世界の奥行きが広がる。

 他者との関わりの数だけ自分の世界の次元が上がる。

 

 結局のところ、他者との関わりは、ある程度自分の世界との類似を前提として行われる。

 あまりにも感覚が違う人とは世界の共通集合が足りなくて、決別する。

 

 

 この教訓は、一つ、他者との関わりが自分の人生を深くする。

 そして二つ、あまりにも世界観が合わない人とは永遠に話が合わない。

 

 今後も他人のchannelとcrossしたほうが面白いかもしれない。

 

「識る」ことと「学ぶ」こと

 私は大学生なのでほぼ毎日大学に通っている。

 興味のあることやないことを勉強しているだけの生活を許されている期間である。

 講義を受けているとたくさんの知らないことを学ぶことができる。

 そんな時ふと思うのだ。

 「ああ、俺は何も知らないんだな。」と

 勉強とは皮肉なものである。

 知っていることが増えるとそれだけ知らないものの存在を識ることとなる。

 

 いつだったか人はどういう時知らないことを識るのかを考えたことがあった。

 その時私は一つの結論を得た。

 知らない領域の存在を認識するのは既知と未知の境界線に立った時ではないか、ということだ。

 

 今はいい、学問として学ぶものは多いことに越したことはない。知識の価値は後から付随するものだから。

 問題はそれが人生にも当てはまるものなのかということだ。

 よく考えてほしい。

 世界には知らないことのほうが多い。

 広く浅く色々なことを知ろうとすると何も知らない人になるぞ。

 大学は大きく学べばいいらしい。

 人生は言うなれば深学だろう。

 多く知ろうとせず、深く学べ。

 そんな風に思えるものを早く見つけられるように日々を生きろ。

 さもなくば、死を識るために生死の境界線をひた走るだけの人生が待っている。

 

正義の強要は正義といえるのか

 ネットが炎上する、という言葉もすっかり人口に膾炙したように思える。

 有名人や、最近では一般人でも、不適切な行動などが引き金となってネットで袋叩きされることが定期的に起こっている。

 この炎上という現象には2種類の登場人物がいることを忘れがちである。

 1つはもちろん炎上元の渦中の人である。

 しかし私が注目しているのはもう1つの登場人物である。

 それは「無関係の大人数」である。

 

 

 彼らは何なのだろうか。

 渦中の人物から何かしらの不利益を受けた関係者とかなら物申したくなるのもわかる。

 しかし実際の炎上に参加している人の大多数はそうではない。

 これまでもこれからもおそらく何ら関わりを持たないであろう人物の行動に怒り、そしてネットで袋叩きに参加する。

 彼らはなぜ無関係の人たちを正しさの盾と正義の棒を手に持って叩き続けるのだろうか。

 

 これついて私はひとつの結論を得た。

 彼らはそういう人種なのだ。そういう性質の人であるというだけなのだ。

 一言居士という言葉が日本語にあるように、何か一言自分で言わないと気がすまない人というのはどの時代にも存在している。

 ただそこに「情報化」という要素が加わっただけで炎上に発展するまでになったと思っている。

 情報社会になって人々は明らかに自分で物事を考え、自論を持つことが減った。

 答えらしきものがすぐに手に入るようになったと換言してもいい。

 炎上の場合、明確に「答え」が明示されている。

 それは「渦中の人が悪」ということである。

 ここに情報社会の「意見表明の容易さの向上」が相まって、「思考の深さにかかわらず誰でもそれなりの声の大きさで意見を言える空間」が完成した。

 それがSNSである。

 

 もちろん良識のある人、冷静に物事を見定め意見する人は今も多くいる。

 しかし言い方は悪いが「何も考えていないが、何かは言いたい人」にとって今の時代は天国だろう。

 無関係の人が正義の棒を持って特定の人を叩いている、つまり炎上が定期的に発生しているのはこれにあるのではないだろうか。

 

 

 

 ここからまた見えてくるものがある。

 はっきり言って炎上なんてそうするものではない。まっとうに生きていれば叩かれる側になることのほうが難しい。

 しかしこの一言居士とその亜種は身近にいる。

 自分の意見を言っておかないと気がすまない人や、もう一歩進んで自分の正義を相手もわかってくれないと我慢できない人は結構簡単に遭遇する。

 

 この人たちはある哲学的テーマを投げかけてくる。

 それは「正義を強要することは正義なのか」ということである。

 確かに言っていることは世の中的には正しいかもしれない。自分が間違っているのかもしれない。

 しかしだからと言って他人の正義に従う必要はあるのだろうか。

 これが犯罪とか他人に迷惑がかかることとかなら従うべきだろう。

 だが、日常ではそうではないとこでも他人の正義を理解することを強要される場面がある。

 

 このブログはあくまで私の独り言であり備忘録である。

 だから最後にいつかの自分に向けて言っておく。

 

 

 人間世界には、絶対に従うべき普遍的絶対正義など存在しない。

他人に期待するなかれ

 初日にこれだけというのも寂しいので最近、特に強く感じたことを書いておく。

 それは

    「他人には期待するな。」

 ということである。

 これは相手のことを軽んじろとかそういうことを言いたいわけではない。

 しかし、人間という生物は思考方法に想像以上の個体差があると感じる。

 SNSの普及で特定の話題についての不特定多数の意見が容易に見られるようになった。

 その時、自分の考えがとても及ばないほど違う感想・感覚を持っている人に出会ったことはないだろうか。

 同じ国の同じ言語を使用しているとは思えないほど解釈が違う人が結構いる。

 まあ、これは顔も知らない赤の他人だ。

 しかし、この現象は程度の大小の違いがあるが家族内でも見ることが出来る。

 それなりに生き方(生活様式や教育レベル)が一致していても人間の思考というものは個体ごとに大きく違っている。

 

 私はこの事実をとても怖く感じると同時に興味深く思う。

 同じ言葉を使っている人の間でも実は受け取り方が違うのではと思うと、会話という行為すら狂気の沙汰に思えてくる。

 この恐怖から自分の伝えたいことが正しく伝わっているかについて非常に懐疑的になってしまうことがたまにある。

 しかし、現実はかなりの確率で意図した伝わり方をする。

 これは非常に興味深い。

 ただ同じ言語を使用しているだけで生き様も環境も違う個体と意思疎通が出来るとは。

 言語って素晴らしい。

 

 そう考えると言語自体への怖さも感じられる。

 私達は日本語で考えているのか、日本語に考えさせられているのか怪しくなってくる。

 まあその話は追々するとして、私達は日本語という言語にどうしても頼らないといけない。別に英語でもドイツ語でもいいのだがとにかく何かしらの自然言語に頼って生活している。

 そうなってくると怖いのはやはり相手への伝わり方である。

 確かに多くの場合会話は正しく伝わっているように感じる。

 しかしそれを完璧に確認するすべはない。

 実はそれらの大多数は「通じている気になっている」だけで本当は通じていないかもしれない。

 それすらも明確にできない。

 

 会話は会話相手にある程度の理解力を仮定して成り立っている。

 この行為自体は逃れることはできない。

 ただ、程度は調整できる。

 「他人に期待するな」とはこう言いたいのだ。

 この人なら話が通じるだろう、これくらいの話ならわかってくれるだろう、そういう期待はあまりしないほうがいい。

 考え方の差異がある閾値を超えると、もう話は通じないと思ったほうがいい。

 そこまで考え方が違うと相手の考えを理解できない。

 その会話は日本語のやり取りをしているだけで意見のやり取りをしていない。

 どちらかが正しいとか間違っているとかそういう話ではなく、話し合わないほうがお互い幸せなのだ。

 

 早速長々と語ってしまった。まあ私のブログなのでいいだろう。

 先日あまりにも考え方が違う人と出会ってお互い不幸になってしまったのでこんなことを考えた次第である。

 実生活でもこんな場面はこれからも多く遭遇すると思われる。その時はこれを胸に平静さを保っていたい。

 

 

P.S.

 

 存在するか怪しいが、このブログで言いたいことが読んでくれる人に意図したように今後も伝わっていくことを祈るばかりである。

 

徒然なる日常の備忘録の開始

 平成が終わるらしいのでブログを始めることにした。

 幸福なことに毎日色々なことが身の回りで起こっている。それを受けて私はいつもなんの益にもならないことを考えている。

 人生はわからないことばかりだ。

 だから珍しく少しわかった気になれたものを書き残すことをこのブログの目的とする。

 面白いかはわからない。あくまで私の自己満足である。

 しかしブログとして公開する以上はこのブログが誰かに楽しんでもらえたら嬉しい。