とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

生きがいを探すな

 

 GWは時間がたくさんあるのでつい色々考えてしまう。

 

 俺はなんで生まれたんだろうか。

 俺はなんで生きているのだろうか。

 

 ふとそう思う時があるだろう。

 しかしこれを考えだした時、基本答えが出ず鬱になって終わる。

 私はそういう経験を何度もしてきた。

 

 ここに今の私が導いた考えを記しておきたいを思う。もしかしたら間違っているかもしれない。甘えかもしれない。逃げかもしれない。

 だが大学生の私はこう考えたという事実は残しておきたいと思う。

 

 

 人生のこと、未来のこと、生きがいは考えるな。

 

 

 この結論に至った理由はただ一つ、世界への諦念からである。

 少し長くなるが、時間への考え方・定義の話をしたいと思う。

 

 私曰く、未来は本質的に存在しない。

 過去はどうだろうというとこれもまた独立では存在しない。

 全ては"イマ"の従属関係にある。

 

 今、私が京都大学に通っているのも今日突然決定されたわけではない。

 過去に受験勉強をした、その前にこの大学を志望した、その前に進学校に入学した・・・と遡ろうと思えば生誕まで遡れる。

 なんなら生誕前まで遡ることができるだろう。

 現在とは過去の積み重ねであるとともに現在の一部分で在り続けるのだ。

 

 

 では未来はどうだろうか。

 未来もまたイマの一部分である。

 今の行動が未来の行動の端緒となりうる。

 この記事を書いている時点で、未来に投稿されることがおおよそ決まるように。

 

 これを突き詰めて考えると過去も未来も現在なのだ、イマなのだ。

 そもそも時の流れを区切ることがナンセンスなのだ。

 

 

 そう考えた時、誰が人生の意味を、生きがいを考えることができようか。

 今やっていることの意義は後で気がつくものなのだ。

 これだけは忘れないで欲しいのでもう一度言っていく。

 

 

 現状の行動や知識の意義は後天的に決定される。

 

 

 実はこれに似た経験は誰もがしている。

 高校を卒業して何年後かに高校生活を振り返ると「あの時は楽しかった」と感じる。遊園地でも良い。いる間に自覚する楽しさより、その楽しさを失った後のほうがその時間に価値を感じる。

 人生も同じ話なのだ。

 人生は娯楽じゃない?

 そういう意見もあるだろう。

 では人生とはなんだ?楽しさを、面白さを、幸せを求めて送る主観時間を人生というのではないか?

 人生の意義はあとから気づくものなのだ。

 生きている間に生きがいを見つけるなんでちゃんちゃらおかしい話だ。

 遊園地にいる途中に「今日遊園地に来た意味はこの観覧車だな」なんて誰かに言われたらその後の遊園地は興ざめだろう。

 

 生きた意味なんて死ぬ瞬間に決まれば良いのだ。

 生きがいを考えて、行動の意味を考えて現在を肯定できない奴に、肯定できる未来があるわけがない。

 

 自分の人生を肯定できうる人はただ一人自分だけなのだ。