とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

他人に期待するなかれ

 初日にこれだけというのも寂しいので最近、特に強く感じたことを書いておく。

 それは

    「他人には期待するな。」

 ということである。

 これは相手のことを軽んじろとかそういうことを言いたいわけではない。

 しかし、人間という生物は思考方法に想像以上の個体差があると感じる。

 SNSの普及で特定の話題についての不特定多数の意見が容易に見られるようになった。

 その時、自分の考えがとても及ばないほど違う感想・感覚を持っている人に出会ったことはないだろうか。

 同じ国の同じ言語を使用しているとは思えないほど解釈が違う人が結構いる。

 まあ、これは顔も知らない赤の他人だ。

 しかし、この現象は程度の大小の違いがあるが家族内でも見ることが出来る。

 それなりに生き方(生活様式や教育レベル)が一致していても人間の思考というものは個体ごとに大きく違っている。

 

 私はこの事実をとても怖く感じると同時に興味深く思う。

 同じ言葉を使っている人の間でも実は受け取り方が違うのではと思うと、会話という行為すら狂気の沙汰に思えてくる。

 この恐怖から自分の伝えたいことが正しく伝わっているかについて非常に懐疑的になってしまうことがたまにある。

 しかし、現実はかなりの確率で意図した伝わり方をする。

 これは非常に興味深い。

 ただ同じ言語を使用しているだけで生き様も環境も違う個体と意思疎通が出来るとは。

 言語って素晴らしい。

 

 そう考えると言語自体への怖さも感じられる。

 私達は日本語で考えているのか、日本語に考えさせられているのか怪しくなってくる。

 まあその話は追々するとして、私達は日本語という言語にどうしても頼らないといけない。別に英語でもドイツ語でもいいのだがとにかく何かしらの自然言語に頼って生活している。

 そうなってくると怖いのはやはり相手への伝わり方である。

 確かに多くの場合会話は正しく伝わっているように感じる。

 しかしそれを完璧に確認するすべはない。

 実はそれらの大多数は「通じている気になっている」だけで本当は通じていないかもしれない。

 それすらも明確にできない。

 

 会話は会話相手にある程度の理解力を仮定して成り立っている。

 この行為自体は逃れることはできない。

 ただ、程度は調整できる。

 「他人に期待するな」とはこう言いたいのだ。

 この人なら話が通じるだろう、これくらいの話ならわかってくれるだろう、そういう期待はあまりしないほうがいい。

 考え方の差異がある閾値を超えると、もう話は通じないと思ったほうがいい。

 そこまで考え方が違うと相手の考えを理解できない。

 その会話は日本語のやり取りをしているだけで意見のやり取りをしていない。

 どちらかが正しいとか間違っているとかそういう話ではなく、話し合わないほうがお互い幸せなのだ。

 

 早速長々と語ってしまった。まあ私のブログなのでいいだろう。

 先日あまりにも考え方が違う人と出会ってお互い不幸になってしまったのでこんなことを考えた次第である。

 実生活でもこんな場面はこれからも多く遭遇すると思われる。その時はこれを胸に平静さを保っていたい。

 

 

P.S.

 

 存在するか怪しいが、このブログで言いたいことが読んでくれる人に意図したように今後も伝わっていくことを祈るばかりである。