とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

正義の強要は正義といえるのか

 ネットが炎上する、という言葉もすっかり人口に膾炙したように思える。

 有名人や、最近では一般人でも、不適切な行動などが引き金となってネットで袋叩きされることが定期的に起こっている。

 この炎上という現象には2種類の登場人物がいることを忘れがちである。

 1つはもちろん炎上元の渦中の人である。

 しかし私が注目しているのはもう1つの登場人物である。

 それは「無関係の大人数」である。

 

 

 彼らは何なのだろうか。

 渦中の人物から何かしらの不利益を受けた関係者とかなら物申したくなるのもわかる。

 しかし実際の炎上に参加している人の大多数はそうではない。

 これまでもこれからもおそらく何ら関わりを持たないであろう人物の行動に怒り、そしてネットで袋叩きに参加する。

 彼らはなぜ無関係の人たちを正しさの盾と正義の棒を手に持って叩き続けるのだろうか。

 

 これついて私はひとつの結論を得た。

 彼らはそういう人種なのだ。そういう性質の人であるというだけなのだ。

 一言居士という言葉が日本語にあるように、何か一言自分で言わないと気がすまない人というのはどの時代にも存在している。

 ただそこに「情報化」という要素が加わっただけで炎上に発展するまでになったと思っている。

 情報社会になって人々は明らかに自分で物事を考え、自論を持つことが減った。

 答えらしきものがすぐに手に入るようになったと換言してもいい。

 炎上の場合、明確に「答え」が明示されている。

 それは「渦中の人が悪」ということである。

 ここに情報社会の「意見表明の容易さの向上」が相まって、「思考の深さにかかわらず誰でもそれなりの声の大きさで意見を言える空間」が完成した。

 それがSNSである。

 

 もちろん良識のある人、冷静に物事を見定め意見する人は今も多くいる。

 しかし言い方は悪いが「何も考えていないが、何かは言いたい人」にとって今の時代は天国だろう。

 無関係の人が正義の棒を持って特定の人を叩いている、つまり炎上が定期的に発生しているのはこれにあるのではないだろうか。

 

 

 

 ここからまた見えてくるものがある。

 はっきり言って炎上なんてそうするものではない。まっとうに生きていれば叩かれる側になることのほうが難しい。

 しかしこの一言居士とその亜種は身近にいる。

 自分の意見を言っておかないと気がすまない人や、もう一歩進んで自分の正義を相手もわかってくれないと我慢できない人は結構簡単に遭遇する。

 

 この人たちはある哲学的テーマを投げかけてくる。

 それは「正義を強要することは正義なのか」ということである。

 確かに言っていることは世の中的には正しいかもしれない。自分が間違っているのかもしれない。

 しかしだからと言って他人の正義に従う必要はあるのだろうか。

 これが犯罪とか他人に迷惑がかかることとかなら従うべきだろう。

 だが、日常ではそうではないとこでも他人の正義を理解することを強要される場面がある。

 

 このブログはあくまで私の独り言であり備忘録である。

 だから最後にいつかの自分に向けて言っておく。

 

 

 人間世界には、絶対に従うべき普遍的絶対正義など存在しない。