私の限界
自分の限界について考えたことはあるだろうか。
これは能力的な話でも良いし、そうでなくて「どこまでが自分なのか」という限界でもいい。本質は同じことだ。
この世界ではどこまでの範囲が『私』に属しているのだろうか。
2019年の私はこういうだろう。
私の限界は世界の限界だ、私の限界が世界の限界だ、と。
我々が属する世界とはなんだろうか。
私の場合基本京都にいる。だから世界は京都だろうか。
いやいや、京都は日本の1都市に過ぎない。ならば日本が世界だろうか。
なにを馬鹿な、世界と言っているじゃないか。では地球が世界だろうか。
今や人類は宇宙に到達している。なるほど宇宙が世界だろうか。
どれも間違っているとは言えない。しかしどれも所詮他人が「世界」という言葉に意味をつけただけだ。もっと主観的に世界を定義しよう。
この試みをしてみると気がつくことがある。
それは「世界には存在世界と主観世界がある」という事実だ。
存在が世界にいる条件の世界『存在世界』にはあらゆるものがある。
スマホもそうだし京都もそうだし外国もそうだし遠くの星もそうだ。
では『主観世界』とはなんだろうか。
これは私という個人が認識できる狭い世界である。
アフリカの国は存在はしているが、私は何も知らない。これは主観の世界の住人にはなれない。
仮にGoogleEarthで確認したとしてもアフリカの国のなんたるかは知らないままであるためやはり主観世界には属さない。
ではなにが属しているのか。
「アフリカの国の存在」という存在は主観世界に属している。
換言すると、「自分の知っている、見たことのある曖昧なアフリカの国を元に私の脳で構成された存在X」はこれに属している。
私達は本当の本当に存在しているそのものの物体を知ることはできないのだ。
以前の他人の像の話と同じである。
存在世界は主観世界を内包していない。主観は独立こそしていないが不可逆なほど変貌している。
存在と認識にはそれくらいの差がある。
これは私達が目で見て脳で処理するため避けられないことだ。
これを受けて次に考えることは「私はどっちの世界の住人なのか」という問いであろう。
私は存在しているから存在世界か?
いや、違う。
私という存在を認識しているのも私の主観である。
私は永遠にこの主観世界からは逃げられない。
それではどうすれば自分の限界を広げられるだろうか。
広げることが必ずしも幸福に繋がるかは一考の余地があるが、いくらかは世界を広げないと他人の世界との共通部分がなくなってしまう。
それも社会で生きるには問題なので自分の限界を広げる方法を考える。
しかしこれは簡単な話だ。
たくさん未知の世界と触れ合えば良い。
主観世界を理解している人は未知の領域の存在ともうまくやれるはずだ。
なぜなら主観世界を認めながら未知を否定することは自分が全知全能と言っているのに等しいからだ。
では未知とどう接すればよいか。
未知とのふれあいにも2つある。
今日の一番重要なテーマはここだ。
まずは経験的未知がある。知らない国に行ったり、色んな業種のアルバイトをしたり、人生初の食べ物を食べたり、人が新しいことに挑戦しよう!と思った時に頭に浮かぶ色々のことだ。
これは狩りに例えるなら獲物である。これがなくては始まらない。
しかしもうひとつ大切なものがある。
それは言語的未知である。
以前言語が思考を支配しているというような話をし、その時また今度詳しく話すと言っていたが(「他人に期待するなかれ」参照)今回が実はそれだった。
言語がなければ思考ができない。表現もできない。
知らない国に行っても知らない国に行ったということにしかならない。知らない国に行って何を感じたか、何を学んだかを脳内で言語として表現できなければならない。
言葉は狩りの道具なのだ。
道具がなければ獲物は素通りするだけだ。
我々は狩りに行く前に日々道具を磨かなければならないはずなのだ。
私の限界、それは私がいる主観世界の限界に等しい。
そしてその世界は言語によって画定されている。
よって、
私の限界=私の世界の限界=私の言語の限界
という結論に至ったのだ。
以上、ウィトゲンシュタインを自分なりに解釈した拙い感想文である。