とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

世界の交差

 「我々が生きているのは何次元か?」

 この問いに多くの人は3と答えるだろう。

 しかし私はこの問いに違う答えを持っている。

 哲学的視点から見るとこの問いはもっと難しい。

 

 なぜ急にこんなことを言い出したのかというと、先日知り合いの間で揉め事があり、人間関係が大きく変わる場面を見たからである。

 その人たちがその後どういう関係になったとか、仲直りしたかとかは特に興味はない。

 ただこの時ふと「自分」と「他者」を考えなおした。

 生きていると自分以外の人間と関わる機会が多くある。

 ただ物理的に関わるだけでなく、精神的なつながりを持つことも少なくない。

 改めて考えてみると怖くはないだろうか。

 私達は私以外の人間の何を知っているというのだろうか。

 

 私が私以外の人Aと話す。しかし私が話しているのは本当にA本人と言えるのだろうか。

 正確にいうと、話しかけているのはAと言えるかもしれないが、話をしている人、私がAと認識しているものはA本人と言えるのだろうか。

 前回の境界線の話に通じるものがあるが、会話というものは「自分」と「それ以外のもの」との境界線に立つ(ふれあいを持つ)瞬間と言える。

 Aの人となりや会話の内容の解釈はあくまで「私」の認識によって決定される。

 Aの存在は私から見える世界に限ると私に完全に依存しているいうことになる。

 それはもうA本人とはまた違う、「私が私の世界に結んだAの写像」と言えるのではないだろうか。

 そうなると私は、Aでなく、私により生み出されたAの写像をAとして認識して会話していると言うことができる。

 これだけなら実はむしろ怖くない。私が持つ世界(私世界)は私が知覚したものによってのみ構成されているのならば世界の完全性は保たれる。

 しかしそうではない。このAの写像は私だけでなくAという存在にも大きく依存している。

  これは言ってみれば完全に鎖国していた国に外国人が居座るようなものである。

 我々の世界は自分の管轄下に管理できないものを受け入れながら成立しているのである。

 

 しかし実生活でこんな面倒くさい事を考えている人はそう居ない。

 もっと気軽に他人を受け入れている。

 上記の考え方も否定する必要はないが、これも否定はできない。

 人間関係とは何なのだろうか。

 

 こうは言えないだろうか。

 社会は「個々の世界の共通集合」であると。

 人と話す時、自分が理解できるのは自分が(既に、または能力的に)理解できる世界の範疇だけである。

 会話とは、人との関わりとは、自分の世界の一部と他者の世界の重なり合いなのだ。

 人と会話する、それは自分と他者の世界が交差した瞬間なのだ。

 そして自分の世界の奥行きが広がる。

 他者との関わりの数だけ自分の世界の次元が上がる。

 

 結局のところ、他者との関わりは、ある程度自分の世界との類似を前提として行われる。

 あまりにも感覚が違う人とは世界の共通集合が足りなくて、決別する。

 

 

 この教訓は、一つ、他者との関わりが自分の人生を深くする。

 そして二つ、あまりにも世界観が合わない人とは永遠に話が合わない。

 

 今後も他人のchannelとcrossしたほうが面白いかもしれない。