とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

不自由とのつきあい方

 自由になりたい

 

 将来そう強く思う時が来るかもしれない。

 だがその時は一度冷静になって考えてほしい。 

 「自由」の定義を。

 

 自由を求めるということは現状が不自由と感じているのだろう。

 今だってそうだ、本当にやる必要があるかわからないようなレポートに押しつぶされている。

 ではこのレポートから解放されたら私は心の底から自由と感じるのだろうか。

 

 断言しよう。その時はさらなる自由を求める。

 不自由の対極に自由があるという認識は正確ではない。

 人生は玉ねぎのごとしという外国の格言があるが、自由もまた玉ねぎであるのだ。

 

 私という元は不自由集合Aという最小不自由集合に属している。これは私達が不自由と感じられる最も卑近な不自由である。

 上の例ではレポートの束縛がこれに該当する。

 このAの補集合が自由であるなら話が楽だが実際はそうではない。

 Aを内包した不自由集合Bがある。

 レポートを放り投げても。単位はどうするのか、大学という存在がAと見ても退学したらその先はどうするのか、といったように不自由の上にはもうひとつ上の次元の不自由が必ず存在している。

 

 人生は本質的に不自由なのだ。

 人間という器がそもそもの不自由であるためこれは自明のことであるが人は(私は)この事実を忘れがちである。

 真の自由を手にした時、人は人生を終える。

 

 

 

 ではこの不自由は人生をどうすれば肯定できるか。

 どうすれば腐らず人生を全うできるか。

 

 それは「工夫をし続ける」ことに尽きる。

 

 必要は発明の母という、これに準えるなら制約は工夫の父であると私は感じている。

 ゲーム業界を見るとわかる。

 昔はROMのキャパはかなり限られていた。

 今のゲームと比べるのも馬鹿らしいくらいの容量の少なさである。

 しかし、それでも昔のゲームは面白かった。

 制作側が本気で工夫をこらし、容量の制約の中、いくつもの名作ができた。

 

 今のゲームにも名作はある。膨大なデータ量を持って、昔では考えられないグラフィックのゲームがたくさんある。

 

 ただ私は思うのだ。本当に容量の増加分だけ楽しくなっているのかと。容量が増えた分の革新的なゲームが生まれたのかと。

 このブログは論文でもレポートでもない。これはあくまで私の感想である。しかもゲームをそんなにやらない私の感想だ。

 

 しかし今のゲームは昔ほどの革新がないと思えてならないのだ。

 そんなの当たり前だ。昔は過渡期でまだ発見されていないアイデアが多かったんだから。そういう意見も承知である。

 それでもやはり思うのだ。今のゲームには工夫がないと。

 これはゲームをする側にも言える。

 昔は一つのカセットをヘタしたら何年もやった。

 隠し要素のコンプリートや縛りプレイや友達との対戦など、プレイする側にもゲームを骨の髄まで楽しもうとする心意気があった。

 今はそう言えるだろうか。昔のゲームに比べてできることは圧倒的に増えた。しかし昔のゲームほどそのゲームを骨の髄まで遊びつくしていると言えるだろうか。

 

 

 結論、人生に自由はない。

 だから自由を求め路頭の迷うのではなく、身の丈にあった不自由さと友達になればよい。

 向上心は正しい方向で、人生を賭すに値する分野で発揮すればいい。

 

 それ以外は配られたカードで人生を楽しもうではないか。

 

 そこに本当の意味での自由が落ちているかもしれない。