とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

幸せなバカであれ

 GWももう終わりですが、私は今ハッピーな気持ちでいます。

 ブログを始めた時は誰もこんなブログ読まないだろうと思っていましたが意外や意外、読んでくれる方がいらっしゃるようで嬉しい限りです。

 しがない大学生の落書きですがこれからも楽しんでもらえると幸いです。

 

 私は昔、幸せな人間はどんな状態でいるのか考えたことがある。

 その時、幸せな人に見られるひとつの共通点を発見した。

 それは「幸せな人は考えていない。」ということである。

 

 

 この文には2つの意味がある。

 ひとつは考えないほうが幸せなこともある、という意味だ。

 毎日日本の将来を危惧して政治家や若者に憤怒しているおじいさんより、 田舎でのんびり暮らしているおじいさんの方が幸せに見える。

 幸せの定義は個人によるので断定はできないが、少なくとも私は田舎でのんびり暮らしている老後のほうが幸せに感じるだろう。

 これは人間関係にも言える。相手のことを不必要に考えて気を揉むより、飲みながらくだらない話をしている方がよっぽど楽しい。

 何も考えない人生は不幸になるが、考えれば人生が幸福になるかというとそうでもない、ということなのだ。

 

 

 そしてもうひとつの意味、こちらがより重要である。

 ずばり「考えなくても良い、という状態が幸福の必要条件」という意味である。

 定義というと語弊があるため必要条件という言い方にした。(間違っても十分条件ではない)

 

 ある知識を学びたいと思いながらそれを勉強する人のほうが、なにをやらされているかわからないながら勉強をしている人より充実しているだろう。

 自分はこの職に就くために生まれてきたんだと思えるような職がある人のほうが、何をやりたいかわからずフリーターをしている人より明るい人生を送れるだろう。

 俺はこの人さえいればいいという恋人がいる人のほうが、なんとなく周りの人とつるんでいる人より幸せだろう。

 

 つまり現状に再考の余地が状態が幸せなのだ。

 これさえあれば、この人さえいれば、そういうものに出会えている状態が幸福なのだ。

 だからそういうものを早く見つけられないと人生はいつまでも不満足な、幸福でないものになってしまう。

 

 

 

 だからそれを見つけましょう。

 そういうのは簡単だ、そんなことは安い自己啓発本に言わせておけばいい。

 このブログはあくまで私の日記である。綺麗事を書く場ではない。

 そもそもそれを見つけようとしただけで見つかるなら全人類幸せである。

 そうではないのだからこれは不可能か、それに近いほど困難なものなのだ。

 ではどうすればいいのか。

 

 バカになれ。

 

 鬱になっている鳥を見たことがあるだろうか。自殺する犬を見たことがあるだろうか。

 人間は考えることができる。これは贅沢な呪いなのだ。

 考えることがなまじ出来てしまうせいで、考えなくても良い不幸に苛まれる。

 思考とは訓練が必要なのだ、適性が必要なのだ。

 適性のない人は思考によって自らを不幸にする。

 それが鬱である。

 

 

 ならバカになろうではないか。

 

 

 考えないことが悪とは誰も言っていない。

 今目の前にある状態を自然体で受け入れる。

 

 それだけで幸福になれたらとても幸運だ。

 しかし、それで不幸になることは絶対にない。

 

 

 

 考えることを許される人は「考えること」を考えたことがある人だけの特権である。

 

 

 

 (そんなこと言っても色々考えちゃうけどね。)