とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

0は1と100を見つめる

 朝、起きてスマホを開くとそこには知り合いのツイートが流れている。

 昼、大学には顔だけ知っている学部の知り合いがたくさんいる。

 夜、サークルの飲み会には仲のいい人が数人いる。

 寝る前、ツイッターにたくさんいる知り合いを見ながら独りに戻る。

 

 我々の人生の場面の多くは一対多である。

 多くの人と関わり、多くの評価をされ、多くのものに興味を持ち、多くのことを学び、多くのことを忘れ、多くの人に忘れられる。

 SNSのおかげで学部の人、それ以外の人とのつながりはそれなりにできた。間違いなく人生で最も知り合いが多い。ツイッターで呟けばいいねされることも多い。

 しかしなぜだろうか、時々そのつながりが虚しく感じる。

 その虚無感は不思議にも孤独でいるときよりも強い。

 私は考える。

 私は多くの人から何かを得ているのだろうか。それとも多くの人に奪われているのだろうか。

 

 多くの人と知り合うことはできた。それは間違いない。

 ただしそれがあまりにも希薄なのだ。

 誰が書いても同じ文字列と誰が推しても変わらないいいねしか届かない。

 人間とコミュニケーションしているのか、システムとコミュニケーションしているのか、もはやわからない。

 さらに悪いことにSNSでは他人同士のつながりも可視化される。

 希薄なつながりはむしろ孤独を浮き彫りにしてくる。

 これは私の錯覚なのだろうか。

 

 今や100人とつながることはさほど難しくない時代になった。

 ただ私はこのつながりの意味を問う。

 その100は実体なのだろうか、と。

 本当に見るべきはそこにはいない1なのではないだろうか、と。

 勉強だってそうだ。

 100個の分野の窓は休日1日でもあれば余裕で覗くことができる。

 だがその知識の広さに価値はあるのだろうか、「何でも知っている何も知らない人」になる意味はあるのかと考えだすとまた私は0に戻ってしまう。

 

 人はいつだって0だ。そして100にもなれる。

 しかし本気で愛せる1を見つけることは今も昔も未来も容易なことではない。

 

 もしかしたらその1を見つけることが人生の意味なのではないだろうか。

 その1を人は幸せと呼ぶのではないだろうか。

 それは今の私はわかるはずがない。

 

 しかし、これだけは常に感じている。

 0から見ると1を持つ人はとても輝いて見える。