とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

人を敬うということ

 小中学生の頃、私はお世辞にも優等生ではなかった。

 おそらく学校の中でも上位数%に入るくらいに勉強はできたし、周りの友達よりいつもテストの点数は良かった。

 それを鼻にかけることはなかったが、心のどこかで驕っていたのは間違いない。

 その驕りは他人を軽視することにつながっていた。

 特に教師には、今思うとかなりひどい態度をとっていた。

 ただ年上というだけで偉そうにしていることが気に食わなかった。

 実際は俺より頭悪いのになんて思ったことも少なくない。

 それくらい驕っていて、それくらい他人を小馬鹿にしていた。

 

 高校に入り周りの友達も同レベルの頭になり、反抗期も次第に終息していった。

 自分より頭のいい人がたくさんいる事実を知り、絶望し、そして自分の考え方や振る舞い方が変わった。

 人間の価値は勉強だけではないことを悟り、そもそも人の価値を測れるほど自分は大層な人間ではないことを悟った。

 だから私は人の性格を見るようになった。

 人当たりのいい人とは友好的に、攻撃的な人とは敵対とはいかないまでも関わりを絶った。

 そもそも勉強のレベルについていくのに必死で全体的に人付き合いが希薄になっていったような気もする。

 だが今思うとやはりここでも多少の驕りはあったのだろうと思う。

 人を見る目はあると思い込み、表面的な人当たりだけで他人の本質を見抜いた気になっていた。

 

 

 

 大学に入り、周りは自分より優秀な人しかいない環境に人生で初めて立たされることになった。

 私が過去バカにしていた「頭の悪い人」の役が自分に回ってきたのだ。

 こうなるともう人を測るどころではない。

 しかしこうなると勉強とか知能とかそういう呪縛から解放されて人と接することができるようになった。

 解放というか自分がその尺度で戦えなくなって逃げただけなのだが。

 とにかく驕り昂りは一切なくなり、初めて人とのかかわりに敬いが生まれた。

 だがその敬いは実態がなかった。

 相手を敬うのではなく、自分を卑下することに起因する尊敬の視線だった。

 その敬いは相手を知ろうとする前に盲信する、形を変えた軽視だったのだ。

 

 

 大学生になってしばらく経った今、ようやく他人という存在を許容できるようになった。

 長所を見つけ、それをリスペクトできるほど人間はできていないが、少なくとも攻撃的な感情も全面的な拒絶せず、フラットに接することのできるくらいの余裕はできた。

 そう余裕なのだ。

 私はようやく対人関係においての余裕を手に入れることができた。

 これまでは余裕がなかった。

 勉強が多少できるというただそれだけにすがっていたあの頃も、自分より勉強できる人がこの世にはごまんといるという事実を知ったあの頃も、自分が勉強できない役回りをすることになったあの頃も、ただただ余裕がなかった。

 昔の私に余裕がなかったのはなぜだろうと考えると、やはり当時の私は何も知らなかったのだ。

 もちろん今も知らないことは多いが、少なくとも知らないことが多いと言えるくらいには知っている。

 当時は見えている世界があまりに狭く、あまりに自分本位だった(年齢的にしかたないところもあるかもしれないが)。

 世界の中心の世界の頂点で周りを俯瞰しているような錯覚にとらわれていた。

 驕りが目を曇らせ、視界の狭さに気づけないほど心が狭かった。

 

 

 私は弱い人間なのでこの驕りに再び視界を遮られる可能性は否定できない。

 なんてったって今は情報社会。調べればすぐ知った気になれるし、発言しようと思えばスマホ1つで世界に発信できる。

 世界の中心にいる錯覚はいつもすぐそばの足元に転がっている。

 さらに自分より優秀な人の存在が世界規模で把握できる。

 いつでも驕れ、いつでも絶望できるのが今の時代なのだ。

 そのときまた私は人を敬えなくなるかもしれない。

 他人を許容できる余裕と他人の深層を推し量るリスペクトがなくなるかもしれない。

 

 

 だから戒めのために記事を書いた。

 

 他人に対する余裕は自分の心の余裕に比例しているということを忘れてはならない。

 他人の見え方はいつでも己の鏡なのだ。