とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

受け流すこと柳のごとし

 あけましておめでとうございます。

 社会人になるデッドラインが日々近づいている事実にただ震えています。

 

 正月ということで実家では親戚が一堂に会して宴会が行われた。

 その時は私の酒を飲んでいたので何を話したのか何を聞いたのかあまり覚えていない。

 しかしそんな中でも祖父の話はとても記憶に残っている。

 

 「どうでもいいことを聞き流せるようになるくらいには色々話を聞いておけ」

 

 前提として人の話は本気で聞く必要がない。

 理由のひとつはその発言者がどこまで深い思考を経ているか怪しいからである。

 世界の多くの人は哲学者ではない。経験談+αくらいの世間話が発言の主たるものであろう。

 それを全力で受け止めるとこちらが痛い目を見る可能性がある。

 もうひとつの理由は発言者が他人ということそのものである。

 その意見がどれだけ正しいとしてもその正しさが約束されているのはその発言者が生きる世界の中である。

 

 

 では人の話なんてまるっきり聞く価値がないのだろうか。

 決してそういうことではない。

 祖父の話はむしろこちらの主張のほうが強いと思い。

 違う世界の違う視点の話なんて面白いに決まっている。

 それをどう活かせる知識として受け止めるかが聞き手の手腕が問われるところなのだ。

 

 その知識の変換と言うか取捨選択に必要なのはなんだろうか。

 これが皮肉にも知識なのだ。

 どういう話が聞くに値すべきか、どういう人が話す意見が活用できるか。

 これらの見分け方は他人の意見とのふれあいで培われるものである。

 自転車の乗り方と同じで自分でやってみないとわからないのだ。

 

 この話を聞いて自分を振り返ってみた。

 子供の頃は全ての意見を何のフィルターも通さず受け入れていた。

 中学生になって全ての意見を受け入れない時代を経験した。

 今は受け入れるか受け流すか、自分ではバランスが取れていると思っている。

 しかしこのバランスが完璧とは思っていない。

 今や情報の取捨選択の量は夥しいものになっている。

 情報の正しさは多くの人が重要だと思っているだろう。

 だが情報の有用さはどうだろう。

 この尺度は未だ過小評価されているのではないだろうか。

 いくら正しくても受け流すべきものもあるし、世間的に正しくないと思われていなくてもそういう考えもあるという新たな視点としての有用さがある情報もある。

 

 そういった「情報の審美眼」をもっと磨いていきたいと思いこれを新年一発目の記事とした。

 今年も私の心の枝が折れない程度の穏やかな風が吹く1年になってほしいものである。