とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

単純に、純粋に、まっすぐに、

 先日、テレビをつけるとフィギュアスケートを中継していた。

 しばらく見ていなかったので見てもいいかなとなんとなく視聴していた私は驚いた。

 当たり前のように画面に今のジャンプの名前や点数、難しさなど、たくさんの情報がリアルタイムで表示されたのだ。

 これまでフィギュアスケートといえば素人目線でなんかすごいジャンプに驚き、なんかすごい点数が出て喜んでいた記憶があった。

 しかしそれも今は昔。どれだけの難易度の技がどれだけの出来栄えでなされたか、技の名前とともに正確にわかった状態で観戦できるのが今のスポーツ実況なのかと感心した。

 偶然見始めた私だが、新鮮さからか好奇心からか、しっかり観戦していた。

 

 ひとりの選手の演技が終わる。

 驚きとともにチャンネルを変えた。

 そこで一つのことに気づいた。

 その選手のジャンプがほぼ頭に残っていなかったのだ。

 

 

 

 技の名前、難易度、点数、そして実況解説。

 たくさんの情報が演技をわかりやすくしていた。

 しかしそれが逆に演技そのものを覆い隠していたのだ。

 以前までの中継はなにもわからないながらも「演技だけ」を注視していた。

 今の中継はわかりやすいながらも「演技を見ていた」というより「情報を見ていた」のだ。

 真にスポーツ観戦をしていたのはどちらであろうか。

 

 

 翻ってラグビーの中継はどうだろう。

 2015年の中継では、何が反則かわからないという場面が多かった。

 しかし今年の中継は反則になるたび字幕で解説が入り、ラグビーをより楽しむことができた。

 フィギュアスケートと同じこと、つまり視覚的情報の増加が起こっているが、ラグビーは今年のほうが格段に楽しめた。

 

 情報というのは自分が思っていたより扱いにが難しいのかも知れない。

 情報は多ければ多いほど良いなんて聞くが、それはいかなる時でも正しいとは限らないと思うのだ。

 情報を通して世界を見ると、案外本質が曇っていしまう場合もあるだろう。

 ぼやけていても、裸眼のほうが意外と本質を見誤らないで済むことがある。フィギュアスケートの中継のように。

 無垢な目で見ないと忘れてしまう純粋さの存在を私ははじめて知った。

 

 とはいっても多くの情報は多いほうが良いだろう。

 情報の多さは今の時代、力だ。

 しかし、この純な存在も忘れてはいけないと思い記事にした。

 力が絶対で無いように、情報の多さが必ずしも正義でもない。

 情報によってい見えてくるものもあれば、情報によって見えなくなるものもある。

 情報に踊らされそうになった時、ふと立ち止まって情報の眼鏡を外し、自分の目で、自分の感覚で対象に触れてみることを忘れないでいたい。

 純粋な本質は純粋な目でしか捉えられない、なんてこともあるだろう。

 

 知ればいいわけでも、わかっていれば偉いわけでも、賢ければ幸せになれるわけでも決してないということを実感した。