とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

比較からの解放

 今の時代、誰でも自分を発信することが可能になった。

 何をした、何を食べた、どこに行った、そしてどれだけ楽しかったか。

 いつでもどこでも簡単に発信できる時代である。

 そして誰もがそれを見られる時代である。

 これらの情報は自分にほぼ価値のないことが多いだろう。

 友達が旅行に行って楽しもうが、家で寝ていようが、自分の幸せの感じ方にはなんの変化もないはずだ。

 だが友達がこれらを「発信」し、それを自分が「知った」時、その情報は『比較対象』になりうる。

 

 

 SNSの隆盛による情報の氾濫は比較対象の急増と捉えられないだろうか。

 いつからか、「知りたい情報を知りに行く」時代から「知りたくもない情報すら目に入ってくる」時代になってはいないだろうか。

 

 

 

 

 SNSがない時代、私はこう感じたことがある。

 それは中学生だっただろうか。

 

 

 楽しさを比較した瞬間、それは楽しくなくなる、と。

 

 いかに自分が楽しく過ごしていたとしても、ふと他人が自分より楽しそうにしていると、今までの楽しさが雲散霧消する感覚に陥る。

 もちろん他人の楽しさと自分の楽しさは全くの無関係だ。

 

 

 それでも、楽しそうにしている他人が、自分のつまらなさを嘲笑しているように思えるときが私にはあるのだ。 

 

 

 なぜそう思うのかはわかっている。

 自分に自信がないからだ。

 だから自身の楽しさを絶対評価できない。

 心の弱さから他人と比較してしまう。

 そこに待っているのは、頽廃だ。

 足元を見ながら螺旋階段をひたすら下るしかない。

 

 

 今も多分、心のどこかで同じように感じていると思うのだ。

 ただ年をとって、自分の心を偽るのが上手くなっただけで。

 

 私はいつになったら比較から解放されるだろうか。

 いつか本当の楽しさを知ることができるのだろうか。