とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

他人を思いやる優しい人たち

 ツイッターやその他SNS、ニュースサイト、掲示板などを見ていると自分とまるで関係のないであろうことにいちいちコメントしている人々を見かけることがある。

 まあこういう人がいるのは理解できる。昔からもそういう人種はいたしネット以外のところでもまま確認できた。

 しかし最近これの亜種というか進化系というかそういう人を見かけることが多くなった。

 それは「自分が当事者かのようにふるまう」人々である。

 

 

 そもそも彼らはどういう理由で何と戦っているのだろうか。

 自分のことでもないのに怒り叫ぶ理由は唯一つ、彼らにとっては自分のことだからである。

 他人のことを考える時、自分のフィールドへの持ってきかたは個性が出る。

 相手の立場に立つことに慣れている人は相手の立場で自分の思考ができる。

 また、自分のことに置き換えて考える人もいる。

 世界なんて大抵は自分以外である。

 だが人によってその世界への没入感はかなり違うということは留意すべきだと思う。

 まさに個人差、個性と言い表せるそれは、その人の世界と自己の線引きの方法の現れである。

 

 

 私ははっきり言ってあまり没入できていない。

 世界の事柄、剰え自分に関係あることでもどこか他人事で引いた目で見ている。

 ある意味で件の人種は未知との遭遇だ。

 彼らは自分のテリトリーへ他の事象を取り込む能力に長けている。

 私とは逆の意味で自分と自分以外の線引きが曖昧である。

 どれだけ関係なくても怒れるし、どれだけ他人の事だとしても忌憚なく発言できる。

 どれだけ色づいた世界が見えているのだろうか。

 

 

 彼らを見て私は2つのことを思った。

 1つは彼らのような存在に気をつけなければいけないということである。

 どれだけお前には関係ないと言っても彼らには通じない。

 そういう人とは議論をすべきではない。議論とは、冷静に、論理的に、そして対等に行うものだ。しかし彼らはもはや当事者である。当事者は当事者同士で話すべきだろう。

 その時私はおそらく当事者にはなれない。潔く身を引くべきだ。

 それが傍から見た時どれだけ対等に見えたとしても。

 

 他人を思いやる優しい人たちの一部には他人が見えていない可能性があることを忘れていはいけない。

 

 

 

 そして2つ目。

 そんな彼らの見えている世界が少し羨ましく見えた。

 

 自分に関係するイベントが起こる人生はどのような景色なのだろう。

 モノクロの世界に安住している私にいつかそんな世界が訪れるときが来るのだろうか。

 

 私はそんな出会いすら他人事のように見ていそうな気がする。