解釈に潜む本性
日常生活で話すとき。
テレビでおじさんが議論しているとき。
ネットで他人の意見を見るとき。
時折とんでもない解釈をしている人を見かける時がある。
それはもうまるっきりこちらの想像の範疇外の受け取り方で逆に感心するレベルのものもある。
そしてその逆もある。
例えば「日本人がノーベル賞を取った。」という報道があったとする。
学のない私だと、ああそれは良かったな、おめでとう、位の感想だと思う。
もしかしたら工学の専門家だとその研究の偉大さを理解して具体的な功績を以って礼賛するかもしれない。
しかし中にはアクロバティックな人もいるみたいだ。
曰く、個人がすごいだけで日本人どうこうは関係ないから喜んでいる奴は程度が知れる。
曰く、その人だけの功績ではない。奥さんはどうなんだ。奥さんへの賛美はないのか。
私から見たら明らかな曲解を自然に行う人もいるのだ。
ネットで見ただけなのでそれが本心なのかはわからない。
わからないが、これの小規模版はしばしば日常生活で実感するのだ。
ここまで解釈に違いが現れるというのは相手は私とどれだけ異なる人生を歩んできたのだろうかと思えるような人も稀にだがたしかに居る。
人の本質は色々なところに漏れ出すものだと思うが、私は特にこの「言外の解釈」が大きいと思う。
言外という言葉は背景とか含みとかを内包したものだと思ってほしい。
その言外には話者がいる以上明確な答えがある。
何かを意図しているか、はたまた何も意図していないか、言葉を発した人には伝えたい(いや、伝えたいと意識していないにしても)正解の言外がある。
それをどれだけ読み取れるか、それは聞き手の人生の歩み方や人間性によるが、これは聞き手に閉じていることが多い。
問題はそれからどれだけ言外を生み出したかという点だ。
これもまた人間性によるのだが、「理解が浅い」のと「理解を生み出している」のには決定的な差があると思う。
「理解の深度」は人間性の正の部分だとしたら「理解した風の被害妄想」はまさに人間性の負の部分だ。
いや、実は理解すらしていないのかもしれない。
自分の考えを言いたいだけで、その考えを言う正当性を言外に見出しているだけなのかもしれない。
SNSというものを目にする機会が増えたのだが、これがなかなか面白い。
オブラートに包んで言えば実に多様性に富んでいる。
なんというか「むき出しの人間」が垣間見える。
匿名性の妙か、個人個人が自分の理をそのまま見せている。
発言者の人間性が短い投稿に凝縮されている。
だからその人の言いたいことが何よりも優先される。
話題になっていることでも容易く自分の言いたいことの枕に変える。
故に私は思った。
きっと私の発言にも私の情報が多分に乗っているんだなと。
何かを理解し(理解した気になり)、考え、意見する。この一連の流れに自分の情報がどんどん上乗せされているのだなと。
解釈一つで人間の本性など容易にわかるのだなと。
論理的な考え方と個人の主張というものは水と油なのか、コインの裏表なのか、はたまた矛と盾なのか、それとも優等生と劣等生なのか。
それを知るためには、今の私は人間を知らなさすぎる。