とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

嫌わない、信じない、戦わない

 世の中には多種多様な人がいる。

 いい人、悪い人、優しい人、優しくない人、面白い人、面白くない人、正しい人、正しくない人、等々。

 口に出さなくても心の中では様々な尺度で他人を測る。

 これは損得勘定という意味もあるがそれだけではない。

 この人といると楽しいとか、この人ならまた遊びたいとか、そういうポジティブな意味でも他人を無意識的に測る。

 これは私だけではないと思う。

 仲良くなるにしても、そうでないとしても、とにかく他人と関わるならどこかで他人を「極めて自己中心的」に評価する。

 もっと相手を知りたいという欲望の根源はここにある。

 もっと相手を知って他人の自己評価を正確なものにしたいのだ。

 

 

 この「極めて自己中心的な他人品評」というものは、性質上知りたいと思っている相手の評価のほうが情報が多く、評価の信憑性が増す。

 逆に言えば、知りたいと思えない相手の評価はそこまで信用に値しないと言える。

 つまり他人を嫌いと評価する、敵判定することは盲目的になり実はかなり危険なことなのだ。 

 

 

 ではどうすればこの安易な品評を避けることができるか。

 これは簡単で相手を嫌いにならなければいい。

 ・・・・・・

 確かにそうだがこれが実現可能なのかが問題だ。

 私はこれがある補題を以って実現できると思っている。

 

 

 本当に敵になるような悪意を持っている人はそう多くない

 

 一見敵に思える人が本当に自分に悪意があるかは一考の余地があると思っている。

 なぜなら悪意を持つというのはそれなりに時間と体力と動機がいるからだ。

 真に悪意のある敵というのは存外少ない。

 つまりどういうことかというと気に食わない奴の多くは真の敵ではなく「気に食わないただの他人」なのだ。

 

 そう思うと「他人を嫌わない」というのはまるっきり不可能というわけでもないと思えてくる。

 相手は自分に悪意がないのだ。ただ好意がないだけで。

 反りが合わないなら関わらないのが吉だが、そうは行っていられないのが社会だ。

 だか全人間を敵か味方かに分類する必要もない。

 安易な分類をするくらいなら安易に未分類にしたほうがよほどいい。

 

 ある意味未分類とも言える「好意なき悪意なき他人」という人々。

 接することを避けられない時どう接すればいいか。

 今の私はこう考える。

 

 

 「嫌わない、信じない、戦わない」