とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

Xを伴う諦め

 この人が何を言っているのか理解できない。

 この文章の言っていることは考えられない。

 どうしてそんなことが言えるのか。

 どうやったらそんな考えに至るのか。

 自分の考えの及ぶところの埒外の考えに出会った時、その瞬間には人は諦めるほかない。

 

 

 これは自分の勉強不足だ、明らかにそれを理解するために必要な予備知識、経験、頭がない。

 自らの不備を悟った時、自虐的諦めを伴い理解をやめる。

 必要な材料を揃えにいくもよし、なかったことにするもよし。

 どちらにせよ、私は比較的ポジティブな気分でその諦めを受け入れることができる。

 何と比較しているかというと冷笑的諦めだ。

 

 

 あ、この人とは話の次元が違う。見えている世界に克服不可能な決定的差異がある。話していても、読んでいても仕方がない。「これはダメだ」、そういう気分になる。

 以前も何かの記事で言ったが、お互いの持っている世界観にある程度の共通部分がないと、些細な部分ですら相互理解に支障が出る。

 この世界観の違いは自然言語の使い方(理解の仕方)を生むためどうしても会話での相互理解が厳しくなる。

 

 辛辣な言い方をするとお互いかかわらないほうが幸せなのだ。

 そういう人への諦めはしばしば冷笑を伴う。

 なにを言いたいかわからない(言っている内容のレベルが低くて)、というように心のどこかで下に見ている。

 少なくとも私はそういうことを感じたことがある。

 明らかに思慮が足りていない発言をネットで見かけたり、なぜか言わんとしていることが通じない相手がいたりする時、心の中。で見限りに近い感情を抱く。

 非常にネガティブな諦めとともに理解を投了するのだ。

 

 

 しかし諦めるのは良くない。理解しようとしないのは甘えだ。

 そう言っておくのがこういう類のブログの正解なのかもしれない。

 だがこのブログは夢物語ではない。

 あくまで今の自分の考えの備忘録である。

 だから今の考えを素直に書きたい。

 

 理解不可能と思われるものからは諦めて逃げるべし。

 

 前者のポジティブな諦めはまだしも、後者は正直理解しようと奮闘しても百害あって一利なしだ。

 人類の系と比べて自身の見識の狭さを知った時、そもそも理解できない他人がいることのほうが自然に感じられるのだ。

 確かに違う考えの人との交流は新たな知見を生む。

 しかし閾値を越えた差異がある人との交流はそもそも交流出来ているか怪しい。それはどちらかというとすれ違いに近いだろう。

 

 理解できないものもあると認めてこそ理解できるものを大切にできる気がする。

 いや、理解できるものとできないものを画定することが実は真の理解、なのかもしれない。