とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

『自由』の囁き

 天国のような夏休みが終わり、これがあるべき姿だと言わんばかりに週5の大学生活が再開した。

 ああ自由な夏休みは終わってしまった。

 そんな嘆きを胸に毎日すし詰めの教室へ向かった10月第1週。

 

 しかしなぜだろう、週末には夏休みへの固執はすっかり無くなっていた。

 

 

 人は本質的に自由だ。

 家柄、年齢、金、時間、勇気。

 いろいろな言い訳はできるが、本質的な不自由ではない。

 意思が本能に先行している。

 人間は種が落ちたことろにしか咲けない花ということでは決してない。

 咲きたい場所から花の色まで自由に目指すことができる。

 生まれながらにして自由な存在なのだ。

 ゆりかごから墓場まで、我々の隣にはいつでも『自由』の影がある。

 

 

 しかし、この『自由』という隣人はいつでも我々と友好的なのだろうかと考えるとこれはなかなか深いテーマであると思う。

 いついかなる時も自由が至上かというとそうではないだろう。

 なにより自由というのは疲れる。

 自分で選択することが(あるいは選択肢ないという選択も)自由であり、かつ選択肢も無限大だ。

 人の持つ本質的な自由とはつまり無限大の選択肢から1つを選ばなければならないということなのだ。

 これは非常に疲れる。

 案外一度不自由に身を投じていたほうが楽だったりする。

 

 

 不自由のほうがいいとは決して思わない。

 しかし考え方が自由に囚われるのもいいと思わない。

 本質的な自由には必ず責任が伴う。

 『自由』が我々に囁きかけてくるときはいつも責任とともに現れる。

 自分で何でも選べる、だから間違えてはいけないとか、今の自分が不幸なのは環境が不自由なせいだとか、自分の幸福が自由に振り回されるのはそれこそ不幸である。

 自由による逡巡のせいで、不自由による閉塞感で、心が辛くなることはままある。

 そういう時は『自由』と距離を取ることをおすすめする。

 

 考えることを放棄することがいいとは言わないが、考えれば幸せになれるとは今の私にはどうしても考えられない。

 以前の記事でも言ったが、どうしても辛い時は、考えないことも護身術だろう。

 たまには考えずに前に飛ぶトンボになってもいいと思う。

 

 そして一息つけた時にふと『自由』の囁きを話半分で聞いてみればいい。

 

 『自由』は見えない。そのうえ近すぎても遠すぎてもダメな難しい隣人である。

 

 『自由』との正しい距離感をつかむことは幸福への一歩になるだろう。