とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

感情の仮託

 私はあまりSNSをする方ではない。なんとなく慣れないまま数年が経ち、結局慣れないまま今に至る。

 だが世間はそうではないらしい。ツイッターだのインスタグラムだの、気づけばテレビからもそんな単語が毎日聞こえてくる。

 私もSNSの使い方に慣れていれば楽しかったかもなぁなんて思ったり思わなかったりしている。

 

 「このスイーツがインスタ映えすると話題になっています!」

 リポーターがこんなことを言っているのを聞かない日はない。

 なるほど美味しそうなお菓子だ。人気になるのもわかる。

 だが味は問題ではないらしい。どうやらそれを写真に撮ってシェアをすることのほうが重要だと世の若者は言う。

 

 私は常々こういう若者に違和感があった。

 なぜ「自身の感情を自身の感覚で決めることをやめたのか」という違和感である。

 

 美味しくて写真に映えるならまだわかる。

 しかしそうではない。自身の感覚より他者の賛同を優先している。

 変だとは思わないのだろうか、おかしいとは思わないのだろうか。

 まあ思わないのだろう。

 インスタ映えを求めて何時間も並んだり休日を費やしたりしているのだから。

 

  私は現状のそういった若者を小馬鹿にしているわけではない。

 そもそも私も若者である。

 ただ単純にこの行動原理が未知の感覚なのだ。

 だから考え甲斐がある。

 

 

 私ならそんなこと頼まれてもしない。

 誰ともわからない、わかっていたとしても、SNSのいいねなどというなんの価値も権威も名誉もないものを求めて休みの日を浪費できない。 

 だがきっと違うのだろう。

 若者にとっては名誉も価値もあるのだろう。

 

  

 これに価値を見出している時点で自分の感情に他人の賛同という変数が含まれていることがわかる。

 美味いからシェアするのではない、シェアできるからおいしいのだ。

 自分の感情すら他人に影響されることが当然、とは言わないまでもおかしいとは言われないくらいには受け入れられているのが現在の日本だ。

 

 これの原因はひとえにSNSのいいね機能だ。

 なんの価値もない(と私は思う)数値だが、間違いなく数値として表示される。

 まるで自分の評価のように。

 この数字が感情の拠り所を曖昧にした。

 気づけば感情すら自分の感覚だけでは決められない人種が登場した。

 

 何度も言うがこういった若者を揶揄する目的はない。

 そういう生き方もあっていいと思う。

 ただこのブログは備忘録である。

 現状そういう状態ではないのでフラットに分析できている。

 将来私もいいね稼ぎに奔走する日々が来るかもしれない。そうなってはこの記録はできない。

 

 というのは冗談だとしても、社会に出たら今よりも自由がなくなる確率が高い。

 その時、気づけば自分の喜びも自分で決められないほど疲弊してしまうこともあるだろう。

 いいね稼ぎの若者はもしかしたら時代に即した新人類の可能性もある。今の若者はある意味無我の境地である。

 無限の横の拡がりが個人の感情を無意味にする時代が到来するかもしれない。

 私達の細胞に感情がないように。

 そうなった時にもこの備忘録が役に立つかもしれない。

 その時個人の感情に改めて向き合うきっかけになる。

 

 

 

 

 

 

 しかし2019年の私はこう言いたい。

 

 

 

    感情を他人に仮託するな。