とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

当たり前などない

 ここ数年でスマートフォンは急速に普及した。

 日進月歩で日々の生活が便利になっていく。

 もうスマホなしの生活なんて考えられないというくらいにスマホは我々の生活に根付いた。

 

 

 

 しかしこれだけの変化を以てしても人の適応力を超えることは出来なかった。

 明らかな異物。今までになかったもの。

 それがここまで急速に増加しても気づいた時にはスマホがある日々が「当たり前」になっていた。

 人間の適応能力は底知れないのだ。

 

 この適応力が人間の繁栄の要因(または結果)かもしれないし、そうではないかもしれない。そこはどちらでもいい。

 この記事で言いたいこと、私の気がついたことは、この適応力が案外人を不幸にしているんじゃないか、ということだ。

 

 私は今大学生だ。それなりに受験勉強をして試験を突破した。合格発表の時はそれはそれは嬉しかった。昔九蓮宝燈をあがった時くらい嬉しかった。

 だが、それも気づけば当たり前になっていった。

 あんなにも入りたかった大学も気づけば当たり前に行ける大学になっていった。

 これは今の私の例である。何年後かにこれを読み直す時も(来ないほうが幸せかもしれないが)きっと似たような立場にいるだろう。

 人は慣れる。それも驚くほど早く慣れる。

 非日常も3日続けば日常になっている。

 

 

 

 このことに恐れることも、嫌悪する必要もない。

 ただ人はこういう生き物だという自覚があればいい。

 そうすれば気がつくだろう。

 この世界に「当たり前」などない。

 風向きのように人生は刻々と変わり続けている。

 この世には常はないのだ。

 

 

 もう一度言おう。

 「この世に当たり前などない」

 

 現在を過小に評価するな。

 今を軽んじていると足元を掬われる。

 「当たり前」だと思っていることも僥倖にすぎないということにきっと気がつく。

  イマを正当に評価しろ。

 幸福は生み出すものではない、見出すものなのだ。

 世界を変えようとするのではなく世界の見方を変えろ。

 

 

 

 そうすればきっと不必要に怒ることも悲しむことも鬱になることもなくなる。