とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

十知るよりも一動け

 生まれて20余年、色々なことを知った。

 その一部のさらに一部はこのブログにしたためたが、それでも学びは尽きないだろう。

 大学の勉強のような専門的なもの、哲学のような普遍的なもの、人間関係のような流動的なもの、そして自分のこと。

 どれも全体の片鱗しか理解できていない。

 だからこれからも学びという知的活動は死ぬまで終わらないと確信している。

 

 

 

 これまではそう思っていた。

 しかし現状の私はまだなにも学んでいなかった。

 

 書籍・テレビ・会話を通して考えを改めることは多くあった。

 気付いたことをメモして忘れないようにもした。

 だがそこに何か行動が伴っていたことはあっただろうか。

 知っただけで学んだ気になっていたということはないだろうか。

 

 恐らく私はそのへんの人に比べて頭に知識を取り込むことに長けている。

 私自身はそう思っていないが、これまでの世間の評価を見るときっとそうなのだろう。

 だから知らないことを知ることも、知っていると思っていたことをアップデートすることも、きっと得意なのだと思う。

 だが、いや、それ故に、知ることに比重を置きすぎているように思った。

 私より知識に厚みのない人でも、私より思考が浅い人でも、私より行動している。私より結果を出している。

 私は何をしただろうか。知識を備えるばかりで知識を腐らせてはいないだろうか。

 頭にはちょっとした知識があるかもしれない。だか手は何かを掴んでいるだろうか。

 どうも今の私の手のひらは空っぽに思えてならない。

 

 知識が全て活かせるとは思っていない。むしろ活かせる一部のために行かせない大多数を受け入れているとさえ思える。

 しかしそれでも知識とは活かして初めて意味がある。

 知識をどれだけ実践知に変えられるか、それが本当の頭の使い方だろう。

 頭は保管庫ではない。司令塔なのだ。

 どれだけ四肢に有効な行動を司令することができるか、それが大事だと心の底から思う。

 「知る」ということは「学ぶ」ということの第一歩に過ぎないのだ。

 

 皮肉にも色々知れば知るほど臆病になる。

 いや、臆病だから知を求めたのだろうか。

 それはわからないが、これまでの私はあまりに頭でっかちになっていた。

 行動の伴わない学びに甘んじていた。

 今日からそれを改めよう。

 これから座右の銘は「待てば海里の日和あり」から「十知るよりも一動く」に変えたいと思う。