人生、いい加減くらいが良い加減
自省録いいですね。図書館で借りれるようになったら借りたい。
あの番組を見て思ったことをまとめておきたいと思う。
まず、自省録という形態に惹かれるものがあった。
どういうことかというと自分で思ったことを自分でまとめて自分で活かしているという点が気持ちいい。
それがあの本で言っていたことに合致していることが更にいい。
私があの本で最も共感したことがまさにその「人生の”見え方”は主観で決まる。」という主張なのだ。
我々は日々他人と接し生活している。そして時折人間関係に悩む。
この悩みがどこから生まれてくるかと今一度考えてみると良い。
実はそれは他人から生まれるのではなく、他人を考えたり、恨んだり、妬んだりしている自分の中から生まれているのだ。
他者のことは想像するしかない。これはどうやっても避けられない事実だ。
しかしこれを自覚することが重要なのだ。
この事実を人はしばしば見落とす。
そしてどうしようもない他人のことを勝手に想像し勝手に苦心する。
これさえ肝に銘じておけば無駄な鬱からは幾分開放されるだろう。
人生、自分が楽観的であればいくらでも明るくなりうる。この人生を生き、この目で見ているのはいつも自分しかいないのだ。
そしてもうひとつの大きなテーマを私は見つけることができた。
それは「人生はどうしようもないことがたくさんある。」ということだ。
先ほどの「人生の”見え方”は主観で決まる。」とは決定的に違うことがわかるだろう。
本を読み感想をどう持つかは自由にできるが、本の内容が気に入らない時にその内容を書き換えることはできないのとちょうど同じである。
私の人生を見ているのは私であるが、私の人生を構成するものはむしろ私以外と言える。
そもそも私という器が人間である時点で、私の人生が私でないなにか大きなものによって決定されていることになる。
スタート時点でこれなのだから本編はもっと融通がきかない。日本というフィールドを設定され、干渉できない別プレーヤーとともにゴールのないゲームが続く。自分の人生が自分の思い通りにいく期間なんて一瞬あるかないかである。
そう考えた時、ひとつ言えることがある。
それがまさに「人生、いい加減くらいが良い加減。」ということなのだ。
人生に悲観することも楽観し過ぎることも良くない。クソゲーだと放り出せと言っているわけではないが、心を壊してまで熱心にプレイするほどのものでもないといいたいのだ。
なるたけ自然に生き、できるだけ他との関係を乱さずに死ぬことが幸福への近道なのだろう。
これを胸に明日から自然に随って生きていこうと思う。忘れそうになったらまた自省録を読むとよい。
世界の交差
「我々が生きているのは何次元か?」
この問いに多くの人は3と答えるだろう。
しかし私はこの問いに違う答えを持っている。
哲学的視点から見るとこの問いはもっと難しい。
なぜ急にこんなことを言い出したのかというと、先日知り合いの間で揉め事があり、人間関係が大きく変わる場面を見たからである。
その人たちがその後どういう関係になったとか、仲直りしたかとかは特に興味はない。
ただこの時ふと「自分」と「他者」を考えなおした。
生きていると自分以外の人間と関わる機会が多くある。
ただ物理的に関わるだけでなく、精神的なつながりを持つことも少なくない。
改めて考えてみると怖くはないだろうか。
私達は私以外の人間の何を知っているというのだろうか。
私が私以外の人Aと話す。しかし私が話しているのは本当にA本人と言えるのだろうか。
正確にいうと、話しかけているのはAと言えるかもしれないが、話をしている人、私がAと認識しているものはA本人と言えるのだろうか。
前回の境界線の話に通じるものがあるが、会話というものは「自分」と「それ以外のもの」との境界線に立つ(ふれあいを持つ)瞬間と言える。
Aの人となりや会話の内容の解釈はあくまで「私」の認識によって決定される。
Aの存在は私から見える世界に限ると私に完全に依存しているいうことになる。
それはもうA本人とはまた違う、「私が私の世界に結んだAの写像」と言えるのではないだろうか。
そうなると私は、Aでなく、私により生み出されたAの写像をAとして認識して会話していると言うことができる。
これだけなら実はむしろ怖くない。私が持つ世界(私世界)は私が知覚したものによってのみ構成されているのならば世界の完全性は保たれる。
しかしそうではない。このAの写像は私だけでなくAという存在にも大きく依存している。
これは言ってみれば完全に鎖国していた国に外国人が居座るようなものである。
我々の世界は自分の管轄下に管理できないものを受け入れながら成立しているのである。
しかし実生活でこんな面倒くさい事を考えている人はそう居ない。
もっと気軽に他人を受け入れている。
上記の考え方も否定する必要はないが、これも否定はできない。
人間関係とは何なのだろうか。
こうは言えないだろうか。
社会は「個々の世界の共通集合」であると。
人と話す時、自分が理解できるのは自分が(既に、または能力的に)理解できる世界の範疇だけである。
会話とは、人との関わりとは、自分の世界の一部と他者の世界の重なり合いなのだ。
人と会話する、それは自分と他者の世界が交差した瞬間なのだ。
そして自分の世界の奥行きが広がる。
他者との関わりの数だけ自分の世界の次元が上がる。
結局のところ、他者との関わりは、ある程度自分の世界との類似を前提として行われる。
あまりにも感覚が違う人とは世界の共通集合が足りなくて、決別する。
この教訓は、一つ、他者との関わりが自分の人生を深くする。
そして二つ、あまりにも世界観が合わない人とは永遠に話が合わない。
今後も他人のchannelとcrossしたほうが面白いかもしれない。
「識る」ことと「学ぶ」こと
私は大学生なのでほぼ毎日大学に通っている。
興味のあることやないことを勉強しているだけの生活を許されている期間である。
講義を受けているとたくさんの知らないことを学ぶことができる。
そんな時ふと思うのだ。
「ああ、俺は何も知らないんだな。」と
勉強とは皮肉なものである。
知っていることが増えるとそれだけ知らないものの存在を識ることとなる。
いつだったか人はどういう時知らないことを識るのかを考えたことがあった。
その時私は一つの結論を得た。
知らない領域の存在を認識するのは既知と未知の境界線に立った時ではないか、ということだ。
今はいい、学問として学ぶものは多いことに越したことはない。知識の価値は後から付随するものだから。
問題はそれが人生にも当てはまるものなのかということだ。
よく考えてほしい。
世界には知らないことのほうが多い。
広く浅く色々なことを知ろうとすると何も知らない人になるぞ。
大学は大きく学べばいいらしい。
人生は言うなれば深学だろう。
多く知ろうとせず、深く学べ。
そんな風に思えるものを早く見つけられるように日々を生きろ。
さもなくば、死を識るために生死の境界線をひた走るだけの人生が待っている。
正義の強要は正義といえるのか
ネットが炎上する、という言葉もすっかり人口に膾炙したように思える。
有名人や、最近では一般人でも、不適切な行動などが引き金となってネットで袋叩きされることが定期的に起こっている。
この炎上という現象には2種類の登場人物がいることを忘れがちである。
1つはもちろん炎上元の渦中の人である。
しかし私が注目しているのはもう1つの登場人物である。
それは「無関係の大人数」である。
彼らは何なのだろうか。
渦中の人物から何かしらの不利益を受けた関係者とかなら物申したくなるのもわかる。
しかし実際の炎上に参加している人の大多数はそうではない。
これまでもこれからもおそらく何ら関わりを持たないであろう人物の行動に怒り、そしてネットで袋叩きに参加する。
彼らはなぜ無関係の人たちを正しさの盾と正義の棒を手に持って叩き続けるのだろうか。
これついて私はひとつの結論を得た。
彼らはそういう人種なのだ。そういう性質の人であるというだけなのだ。
一言居士という言葉が日本語にあるように、何か一言自分で言わないと気がすまない人というのはどの時代にも存在している。
ただそこに「情報化」という要素が加わっただけで炎上に発展するまでになったと思っている。
情報社会になって人々は明らかに自分で物事を考え、自論を持つことが減った。
答えらしきものがすぐに手に入るようになったと換言してもいい。
炎上の場合、明確に「答え」が明示されている。
それは「渦中の人が悪」ということである。
ここに情報社会の「意見表明の容易さの向上」が相まって、「思考の深さにかかわらず誰でもそれなりの声の大きさで意見を言える空間」が完成した。
それがSNSである。
もちろん良識のある人、冷静に物事を見定め意見する人は今も多くいる。
しかし言い方は悪いが「何も考えていないが、何かは言いたい人」にとって今の時代は天国だろう。
無関係の人が正義の棒を持って特定の人を叩いている、つまり炎上が定期的に発生しているのはこれにあるのではないだろうか。
ここからまた見えてくるものがある。
はっきり言って炎上なんてそうするものではない。まっとうに生きていれば叩かれる側になることのほうが難しい。
しかしこの一言居士とその亜種は身近にいる。
自分の意見を言っておかないと気がすまない人や、もう一歩進んで自分の正義を相手もわかってくれないと我慢できない人は結構簡単に遭遇する。
この人たちはある哲学的テーマを投げかけてくる。
それは「正義を強要することは正義なのか」ということである。
確かに言っていることは世の中的には正しいかもしれない。自分が間違っているのかもしれない。
しかしだからと言って他人の正義に従う必要はあるのだろうか。
これが犯罪とか他人に迷惑がかかることとかなら従うべきだろう。
だが、日常ではそうではないとこでも他人の正義を理解することを強要される場面がある。
このブログはあくまで私の独り言であり備忘録である。
だから最後にいつかの自分に向けて言っておく。
人間世界には、絶対に従うべき普遍的絶対正義など存在しない。
他人に期待するなかれ
初日にこれだけというのも寂しいので最近、特に強く感じたことを書いておく。
それは
「他人には期待するな。」
ということである。
これは相手のことを軽んじろとかそういうことを言いたいわけではない。
しかし、人間という生物は思考方法に想像以上の個体差があると感じる。
SNSの普及で特定の話題についての不特定多数の意見が容易に見られるようになった。
その時、自分の考えがとても及ばないほど違う感想・感覚を持っている人に出会ったことはないだろうか。
同じ国の同じ言語を使用しているとは思えないほど解釈が違う人が結構いる。
まあ、これは顔も知らない赤の他人だ。
しかし、この現象は程度の大小の違いがあるが家族内でも見ることが出来る。
それなりに生き方(生活様式や教育レベル)が一致していても人間の思考というものは個体ごとに大きく違っている。
私はこの事実をとても怖く感じると同時に興味深く思う。
同じ言葉を使っている人の間でも実は受け取り方が違うのではと思うと、会話という行為すら狂気の沙汰に思えてくる。
この恐怖から自分の伝えたいことが正しく伝わっているかについて非常に懐疑的になってしまうことがたまにある。
しかし、現実はかなりの確率で意図した伝わり方をする。
これは非常に興味深い。
ただ同じ言語を使用しているだけで生き様も環境も違う個体と意思疎通が出来るとは。
言語って素晴らしい。
そう考えると言語自体への怖さも感じられる。
私達は日本語で考えているのか、日本語に考えさせられているのか怪しくなってくる。
まあその話は追々するとして、私達は日本語という言語にどうしても頼らないといけない。別に英語でもドイツ語でもいいのだがとにかく何かしらの自然言語に頼って生活している。
そうなってくると怖いのはやはり相手への伝わり方である。
確かに多くの場合会話は正しく伝わっているように感じる。
しかしそれを完璧に確認するすべはない。
実はそれらの大多数は「通じている気になっている」だけで本当は通じていないかもしれない。
それすらも明確にできない。
会話は会話相手にある程度の理解力を仮定して成り立っている。
この行為自体は逃れることはできない。
ただ、程度は調整できる。
「他人に期待するな」とはこう言いたいのだ。
この人なら話が通じるだろう、これくらいの話ならわかってくれるだろう、そういう期待はあまりしないほうがいい。
考え方の差異がある閾値を超えると、もう話は通じないと思ったほうがいい。
そこまで考え方が違うと相手の考えを理解できない。
その会話は日本語のやり取りをしているだけで意見のやり取りをしていない。
どちらかが正しいとか間違っているとかそういう話ではなく、話し合わないほうがお互い幸せなのだ。
早速長々と語ってしまった。まあ私のブログなのでいいだろう。
先日あまりにも考え方が違う人と出会ってお互い不幸になってしまったのでこんなことを考えた次第である。
実生活でもこんな場面はこれからも多く遭遇すると思われる。その時はこれを胸に平静さを保っていたい。
P.S.
存在するか怪しいが、このブログで言いたいことが読んでくれる人に意図したように今後も伝わっていくことを祈るばかりである。
徒然なる日常の備忘録の開始
平成が終わるらしいのでブログを始めることにした。
幸福なことに毎日色々なことが身の回りで起こっている。それを受けて私はいつもなんの益にもならないことを考えている。
人生はわからないことばかりだ。
だから珍しく少しわかった気になれたものを書き残すことをこのブログの目的とする。
面白いかはわからない。あくまで私の自己満足である。
しかしブログとして公開する以上はこのブログが誰かに楽しんでもらえたら嬉しい。