とある京大生の人生観

浅い思考の殴り書き

今日も私は興味のないことを勉強する

 お久しぶりです。

 学祭やら勉強やらその他やらで忙しく、いや現在進行形で忙しいのでなかなかブログを更新する時間が取れなくなってしまいました。

 しかしどれだけ細くなっても書きたいことが尽きるまで(つまり飽きるまで)は切れることはないと思うので、どうかみなさまも飽きるまでよろしくお願いします。

 

 第一こんなに忙しくなったのも理由は大学の勉強のせいである。

 高校までの勉強と違って専門的で、自分の興味がある分野を主にできるのはいいが、それでも「これ本当にやる意味あんの」という講義もある。しかもそういうのに限ってやたら難しかったり必修だったりもする。

 さらにそこで習う知識も現状正しいってだけで今後それが正しいままかというと怪しいものまである。

 私はふと思った。

 勉強や知識の正しい付き合い方・取るべき立場とはなんだろうかと。

 

 

 今の私は「わかっていることとわかっていないことの境界をなくす」のが正しい知識の付き合い方だと思っている。

 いや逆だろと思うかもしれないが私はむしろこの境界こそが全ての元凶だと感じている。

 以前何かの記事でも言及したが、多くの事柄では知れば知るほど知らない部分が見えてくるものである。

 周辺知識とは周辺に言ってみないと見えてこない。

 さっきまでゴールに見えていた地点も立ってみるとまだまだ道半ばということが多い。

 つまり何をいいたいかと言うと私は大抵何も知らない。

 しかし、かといって全てを知らないというわけでもないだろう。

 知っている・知っていないという秤は実は世界と対峙した時そこまで役に立たない。

 世界は絶対的かもしれないが我々は相対的で流動的なのだ。

 だが世界と我々もまたどこに境界があるかはまた難しい。

 やはりここでも私は暫定的で相対的な思考の迷宮に叩き落される。

 

 

 そうなったとき、私が取るべき立場は境界の画定をやめることだろう。

 知っていると思っていることも実はわかっていないし、わからないと決めつけているものも実は知れる可能性を秘めていると、常に確率を認めるべきである。

 そうすれば既知への傲慢も未知への嫌悪も軽減する。

 こう考えるとどんなに興味のない科目でもやっておくことの意義が見えてくる。

 確かに大人になってサインコサインを使う人なんて限られている。

 だかそれを習うことに意義があるのだ。

 「話したことはないけど話そうと思えば話しかけられるくらいの距離感の同期」のような、そういう絶妙な距離感をサインコサインのような知識に対しても取ることができる。

 だいたいそういう人は話さないまま卒業する。

 しかしもしかしたら困った時助けになってくれるかも知れないし、もしかしたら趣味があって心の友になれるかも知れない。

 それもまた流動的で確率的である。

 ただその同期に初めから敵対するのは得策ではないのは間違いない。

 「知らないことを知らない」ということの勿体なさや知識の(あるいは世界の)相対性を教えてくれるだけでも興味のない分野の勉強は意義がある・・・のかもしれない。

 そう自分に言い聞かせて私は今から今週〆切の課題レポートを書きたいと思う。