曰く、「効率化が余裕を滅ぼした」
前回「人生に無駄〜」では、効率化が社会の無駄を省いていることを述べた。
特に顕著なのは時間だろう。
少し前なら20分かかっていた調べ物も今では3秒で終わるし、休日自ら買いに行く必要もなくクリックひとつでほしい品物が届く。
昔なら考えられないくらい便利な社会になった。明らかに昔より自由に使える時間が増えた。
だから本来なら昔よりも時間的にも精神的にも余裕が生まれるはずだ。
だが、今の日本に本当に余裕があるだろうか。余裕を感じる力があるだろうか。
私はそうは思えない。
尤も昔をよく知っているとはとても言える年ではないが。
だが、今を生きる人達を絶対評価したとしてもとても余裕があるとは思えない。少なくとも効率化がくれた時間的余裕分をそのまま享受しているとは思えない。
もちろん余裕を失う原因は1つではないと思っている。
膨大な選択肢の可視化や情報の即時性の向上など色々あると思う。
しかしそれらと同等かそれ以上にこの「効率化を追い求めた結果の無駄な所要時間の喪失」があると思うのだ。
今の社会はあまりにも早く動きすぎている。
誰がためにそこまで無駄を省いているのだろうか。
もっとまったりした時間を過ごしてもいいと思うのだが。
まあそんなことを言ってもこの高速化・効率化の流れは止まらないだろう。
第一このブログで社会の批評批判をする気はない。
あくまで備忘録である。
なぜこんな記事を書いているのだろう。ふと思った。
最初は大学に行っている時ふと気づいたからだと漠然に思っていた。
しかし、この社会、と言っても私の主観であり続けるから、きっと社会に余裕が無いように見えるのは私に余裕が無いからなのだ。
そしてその原因が時間と感じている。
なるほど、今の私には時間的余裕があるとは言えない。
どうやら効率化に食われているのは私らしい。
今の私、未来の私、そしているかわからないがこの文を読んでくれている誰か。
もしいま余裕がないのならこれを思い出してほしい。
効率化は皮肉にも時に人の時間を奪う。
効率化、無駄の削減は必ずしも私達の時間を、余裕を増やすものとは限らない。
どうか取り巻く環境の効率化に飲み込まれないでほしい。
幸運にも余裕の無さに気づけたのなら、現状の効率的な解決を目指すのではなく、何もしない無駄な時間を確保してほしい。
人生は、多くのことをすればいいわけでも、ことを早くすればいいわけでもない。
自分たちの速さで、自分たちの量を、ゆっくり確かにすれば良い。
そこにはきっと多くの余裕が、多くの無駄があるだろう。
その余裕が他人への余裕につながるのではないか、その無駄に個人の味が、個性が出るのではないかと思う。
誰がやっても同じ効率的な生き方など、誰かにやらせておけばいい。
人生に無駄などない。もしくは人生こそ至上の無駄なのか。
テレビを見ていると、しばしば知らない言葉や事柄と遭遇する。
私はそういうのが結構気になるタチなのですぐスマホなりパソコンなりで調べることが多い。
このご時世、調べようとしたら検索によってすぐに調べられる。
実に便利だ。
暇なときにyoutubeを見んとアクセスすると、ちょうど私が見たくなるようなおすすめ動画が列挙される。
おかげで自分の見たい動画を労せずして見ることができる。
実に便利だ。
今の社会、間違いなく便利になっている。
これからもその便利さは増していくだろう。
それらによって、我々人間はより自由に自分たちの時間を使えるようになる。
なんと素晴らしい世界だろうか。
確かに便利だ。
しかし、その裏で失われているものがある。
それが「無駄」「余剰」「余裕」だ。
便利さ・効率の良さ、これらを求めると必然的に無駄が削ぎ落とされる。
手垢のついた例だが、電子辞書の登場によって紙の辞書では出会えた言葉との出会いが消えた。
子供の頃それを聞いた時、ほんとかよと思ったと同時に、本当だとしても別にいいじゃんと思った。
だが、これは大きな間違いだった。
人生を豊かにするもの、世界を広げるものは紙の辞書でのみ出会える言葉のような存在なのだ。
『生きがいを探すな』で述べたように、知識の価値は知識を得た後に決定される。
だから広く学ぶことは自分の可能性を広げるに等しい。
だが、いくら可能性を広げても使える知識・知恵は限られているのも事実だ。
ではそれらの不使用の知識(選択肢と言っても良い)は無意味だったのだろうか?
もちろん違う。
知識はあくまで点に過ぎないが、それらは互いにつながっている。
使われなかったという点では価値がないのかもしれないが、私の脳内に時点ですでに価値があるのだ。
知識・知恵は階段なのだ。
今10段目にいるからといって1段目2段目の存在価値は否定できない。
1段目あってこその10段目なのだ。
今の便利さはこの知識の連関、無駄の有用性を曇らせた。
昔の辞書なら得ることができたかもしれない周辺知識や、テレビなら偶然目に入ったかもしれないくだらない情報が、検索エンジンやyoutubeの登場によって失われた。
今の人に言わせれば「そんなの必要ない」のかもしれない。
確かに無駄なのは事実だ。
今の社会、見えている無駄や削れる余剰は許されない。殊に情報産業では。
だが私は思うのだ。
その無駄こそ面白いのではないか。
その余剰こそ趣深いのではないか。
その余裕こそ人生の余裕なのではないか。と。
今の社会に面白さが失われたと言いたいわけでは決して無い。
むしろ、楽しさを自分で見つけられる人(すでに見つかった幸運な人)にとっては今のほうが断然楽しいだろう。
私が言いたいの無駄や余剰が生み出す楽しさの受動的発見について言っている。
それらに出会える機会が間違いなく減ったのだ。
便利に慣れると、不便を悪役にしてしまいがちだ。
しかしあってもいい不便さ・非効率さというのもあると思うのだ。
その不便さはどこか味わいがあって人生を少しいい方向に変えてくれる可能性があるからだ。
第一人生自体結構無駄が多い。
(人生に効率を本気で求めるなら今すぐ自殺したほうが良いまである。)
趣味、失敗、遊び、挫折、道楽、絶望。
人生に無駄はつきものである。
いや、主観で眺める無駄的期間を人は人生と呼ぶのかもしれない。
曖昧な境界線の上で
他者と話すとき、納得できないことを主張されることが多くある。
しかもそういう相手に限って強く主張してきたりするからタチが悪い。
その時ついその人の主張を、その人自身を否定したくなるがそれは危険なことであるということに気がついた。
ここで「否定」という行為の難しさについて触れたい。
実は否定はなにかを主張するのと同等なほど思慮が必要である。
ある意見を否定するということはその意見を否定するに足る思考がなくてはならない。
円周率を4と主張してくる意見ならその否定は容易に主張できる。
円周率の定義を説明し、円周率が4未満であることを証明すればいい。
しかし、人との会話は答えがひとつではないものが大半である。
気に食わない意見を受け入れろといいたいのではない。
否定するためにはそれなりの体力が要ると言いたいのだ。
思考の浅い人の意見を聞いた時わざわざ自分でその人の意見を質す必要はないのだ。
しかも答えのない会話の答えには、その人なりの人生経験と思考プロセスが多分に含まれている。
これらを否定することは根本的に不可能だ。
その人の人生がどうなろうが私には関係ない(ことが多い)
なんとなく聞き流すくらいでいい。
抽象的な話なので断定はしないが、すれ違いが生まれた会話の相手は、自分の人生にそこまで影響がないことが多い。
人の意見なんて話半分で聞いているくらいが精神的にもいいし、無駄な体力を使わなくてすむ。
あっているかもしれないし間違ってるかもしれないなあなんてくらいの軽い気持ちで聞けばいい。
なんてことは未来の私もわかっているだろう。
ここからが本題である。
この「曖昧な線引き」というのは人生のあらゆることに適応できることが重要なのだ。
私は私を通して世界を知っている。
しかし私という判断基準すら非常に流動的なものだ。
今ここで偉そうにブログに書いていることも何年後かには戯言に感じられる可能性がある。
私の判断、価値観、理は総て曖昧なものなのだ。
だがさっき言った通り私の世界は私によって感受されている。
つまり世界は総て曖昧なのだ。
なにもかもが曖昧な境界線の上に成り立っているのだ。
実はこの考えがあっているか間違っているかはそこまで大切なことではない。
この考えのもと生きると、全てのものの変化を、予想外を、期待はずれを受け入れることができるのだ。
世界は理不尽だ。
だいたい自分の思う通りに動かない。
その時、どれだけ落胆するか、どれだけ絶望するかは、世界への期待の大きさや想定の度合いに比例する。
それらの大きさや度合いは何で決まるだろう?
それらの確信の大きさで決まるのだ。
この馬が絶対勝つと信じる大きさに比例して、その馬が負けた時の怒りが大きくなる。
だから確信はやめよう。
決め付けはやめよう。
レッテル貼りはやめよう。
すればするほど、裏切られる。やればやるほど絶望する。
全ての意見を、あらゆる事態を脳に置くとき、結論・断定・感想とともに記憶するのはよくない。
万物は曖昧なラインにいるのだ、グレーゾーンにいるのだ。
それらに結論をつけるほど、私は人間としての経験が足りていない。
それくらい世界も私も曖昧なのだ。
曖昧な私を、色即是空の世界を、そのまま受け入れよう。
これがまとめだと壮大すぎる気がするので
「発言者の好き嫌いと、内容の肯定否定・断定は別問題。どんな意見も、自分の意志も、断定は難しい。だから結論を出さず曖昧なまま受け入れよう。」
くらいをこの記事のまとめとしたい。
世界は極めて簡潔である
大学の講義にはまったくもって面白くないものがいくつかある。
私の理解力のなさか、私の知識の乏しさか、教授の話術のなさか、とにかく退屈な講義がある。
そうなると自然にサボることを考える。面白くもない授業を受けるために朝から起きるのは虚無でしかない。
しかし、だからといってすぐに「よしサボろう!」とはなかなかならない。
ほんとに休んでいいのだろうか、単位は大丈夫か、親に怒られないか、教授に呼び出されないか等々、色々なことがよぎる。
結局めんどくさがりながら講義に出るのが常である。
これに類することは日常で結構あると思う。
何かをしたい時、行動の前に、他の人にどう思われるとか家族に迷惑がかかるんじゃないかとか既存の人間関係に亀裂が入るんじゃないかとか考えてしまう。
これは人間が集団を形成して群れで生活しているゆえの思考だろう。
口では他人を気にしないと言っている人が居たとしても、他人を気にしないと発言している時点で相当他人を気にしている。
できるだけ自由に、人間関係の柵(しがらみ)のない生活ができたら楽かもしれないが、それを実現するのはかなり難しい。出来るとしたら世を知らない子供か世を捨てた老人くらいだろう。
だが、この人間関係に代表される「思考の柵」とでも言うべき自分の行動を阻害する諸事項を正しく捉えると本来の世界の在り方が見えてくる。
前述の講義の例だと、本来考えるべきことは「私」と「つまらない講義」の関係のみでいい。換言すると、私の行動を決めうるものは私の意思と講義の存在のみである、ということである。
世界の総体とは極めて簡潔なのだ。
私がいる、講義がある、他人がいる、それだけで(私の)世界は構成されているのだ。
実際に感じる社会はそうじゃない?
確かにさっきの「思考の柵」のように人間関係の柵があるように感じる。
しかし、それらは実体として存在しているだろうか?
本当に私の世界を構成していると言えるだろうか?
それらには実体がないことに気がつくだろう。
人間関係の柵を生み出しているのは他人ではない、自分なのだ。
世界を複雑にしているのはいつだって人間である。
これからの人生幾度となく岐路に立たされるだろう。
人は岐路に立った時たくさんのことを必ず考える。
こっちのメリットは何かとか、あっちのリスクは何だとか、こっちを選んだら誰かに後ろ指を指されるかもしれないとか、あっちを選んだら誰かに迷惑がかかるかもしれないとか。
その時に今一度考えてほしい。
「その悩みのいくつかは自分で生み出した虚像ではないか」と。
世界はこれまでもこれからも永遠に単純で明快で簡潔なもので在り続ける。
走れ、食え、寝ろ
平日は忙しい。文字を書く暇も考える暇もない。
しかしきっと社会に出たらもっと忙しくなるだろう。
一生社会人になりたくないという思いが日々強くなっているが、現状の日本ではそういうわけには行かなそうだ。
AIには是非とも頑張ってほしい。
なんて言うのは冗談だとしても、きっと今以上に忙しく精神が参る時が残りの人生のうちに必ず訪れるだろう。
その時、私の性格だと無意味に無駄なことをたくさん考え、杞憂し、絶望して、死にたくなる状態に陥る可能性が大いに考えられる。
そうなったときのために今の通学生活で気がついたことを記す。
気が滅入った時、精神が参った時、切羽詰った時、まず運動をしろ。そしてうまいものをたくさん食べて一度ぐっすり寝ろ。
運動を軽視しているなら必ず考えを改めたほうがいい。
魂は肉体に宿る。どうしても私は私の体からは逃れられない。生まれたときから死ぬまで一生仲良くしなければならない。
健全な精神は健全な肉体に宿るというが、これは真理であって、私の思考は私の体に支配されていると言っても過言ではない。
死ぬほど腹が痛いときに数学の問題など考えられるわけがないように。
この例は極端だとしても、体調が悪かったら考え方も暗くなるものだ。
この事実は人間として生まれた以上変えることは出来ない。
だから利用してやればいい。
死ぬ気で走れば何も考えられなくなる。
どんなパソコンも電力がなければ動かない。
人間もそうだ。
体力がなければ脳は動かない。
無駄な思考を一掃して再起動するという意味でも運動は有用だ。
そしてその体を労るのは食事と睡眠の他ない。
衣食足りて礼節を知るではないが、衣食が足りなくては精神に余裕が生まれない。
一度自分の肉体と思考と精神を再起動するためにも運動と食事と睡眠は大切にしたほうがいい。
自分に余裕がないと自覚するのは簡単なことではない。
余裕が無いことにも気づけないから余裕がない状態に陥っているのだから当然である。
しかし、私はこのブログを用いて余裕がない状態の想定を完了した。
それだけでも余裕が無い中では余裕となりうる。
こんな使い方がブログの正しい使い方かどうかは微妙なところだが、まあ今の私が満足できているのだからいいだろう。これからも思考・想定(・愚痴)の置場として利用したい。
なんの話だがわからなくなったが、とにかく今回のまとめは、
運動と食事と睡眠は脳を強制的にシャットダウンさせる効果がある
ということで。
感情の仮託
私はあまりSNSをする方ではない。なんとなく慣れないまま数年が経ち、結局慣れないまま今に至る。
だが世間はそうではないらしい。ツイッターだのインスタグラムだの、気づけばテレビからもそんな単語が毎日聞こえてくる。
私もSNSの使い方に慣れていれば楽しかったかもなぁなんて思ったり思わなかったりしている。
「このスイーツがインスタ映えすると話題になっています!」
リポーターがこんなことを言っているのを聞かない日はない。
なるほど美味しそうなお菓子だ。人気になるのもわかる。
だが味は問題ではないらしい。どうやらそれを写真に撮ってシェアをすることのほうが重要だと世の若者は言う。
私は常々こういう若者に違和感があった。
なぜ「自身の感情を自身の感覚で決めることをやめたのか」という違和感である。
美味しくて写真に映えるならまだわかる。
しかしそうではない。自身の感覚より他者の賛同を優先している。
変だとは思わないのだろうか、おかしいとは思わないのだろうか。
まあ思わないのだろう。
インスタ映えを求めて何時間も並んだり休日を費やしたりしているのだから。
私は現状のそういった若者を小馬鹿にしているわけではない。
そもそも私も若者である。
ただ単純にこの行動原理が未知の感覚なのだ。
だから考え甲斐がある。
私ならそんなこと頼まれてもしない。
誰ともわからない、わかっていたとしても、SNSのいいねなどというなんの価値も権威も名誉もないものを求めて休みの日を浪費できない。
だがきっと違うのだろう。
若者にとっては名誉も価値もあるのだろう。
これに価値を見出している時点で自分の感情に他人の賛同という変数が含まれていることがわかる。
美味いからシェアするのではない、シェアできるからおいしいのだ。
自分の感情すら他人に影響されることが当然、とは言わないまでもおかしいとは言われないくらいには受け入れられているのが現在の日本だ。
これの原因はひとえにSNSのいいね機能だ。
なんの価値もない(と私は思う)数値だが、間違いなく数値として表示される。
まるで自分の評価のように。
この数字が感情の拠り所を曖昧にした。
気づけば感情すら自分の感覚だけでは決められない人種が登場した。
何度も言うがこういった若者を揶揄する目的はない。
そういう生き方もあっていいと思う。
ただこのブログは備忘録である。
現状そういう状態ではないのでフラットに分析できている。
将来私もいいね稼ぎに奔走する日々が来るかもしれない。そうなってはこの記録はできない。
というのは冗談だとしても、社会に出たら今よりも自由がなくなる確率が高い。
その時、気づけば自分の喜びも自分で決められないほど疲弊してしまうこともあるだろう。
いいね稼ぎの若者はもしかしたら時代に即した新人類の可能性もある。今の若者はある意味無我の境地である。
無限の横の拡がりが個人の感情を無意味にする時代が到来するかもしれない。
私達の細胞に感情がないように。
そうなった時にもこの備忘録が役に立つかもしれない。
その時個人の感情に改めて向き合うきっかけになる。
しかし2019年の私はこう言いたい。
感情を他人に仮託するな。
『逆』を愛せ
もし、今なにか大切なものを失いそうになっているなら、何が大切なのかわからなくなりそうなとき、一度それとは『逆』を考えてみてほしい。
ものの分析には客観性が必要不可欠である。
しかし分析するのは人であるため完全な客観性の排除は不可能である。
この事実はしばしば人の思考を妨害する。
その時『逆』の立場は有用である。
実はこの技法は文学でよく見られる。
友情を描くために喧嘩を交える、家族の絆を描くために一家離散の危機を挟む。
そうすることで主人公がそれらの大切さに気がつくというストーリーを何度も見てきた。
同じことを自分でもすればいいのだ。
現状に苦悩があるなら現状の逆を考えてみればいい。
そうすれば本当に必要としているものに気がつくだろう。
なんて綺麗事を言いたいのではない。
もっと重要なものことは、「逆を考えた結果、現状の問題点の大きさに気がつける」ということだ。
テスト、業績、人間関係。
色々な悩みの種があるだろう。
ではその種を捨てた自分を考えてみると良い。
実は無くてもどうにかなることが多いのではないか?
自身で気をもんでも仕方のないことが多いのではないか?
『逆』の状態のほうが幸せなのではないか?
『逆』の立場は悩みの種の選別をしてくれる。
確かにその種は簡単に捨てられないのかもしれない。社会とはそういうものだ。
しかしだからといって自分の幸福を捨てる方がよほどおかしい。
その種にはそれだけの価値しか無いと思えば気も楽だろう。
それでも残る種がある。
人はそれを試練と呼ぶ。
人生を豊かにするのは試練であっても悩みではない。
不要な悩みの種はいくら育ててもなんの果実ももたらさないだろう。
万物を想定せよ
幼少期、祖父がこんなことを言っていた。
「どんなことも、想定内にすれば怖くない」
当時この言葉の深さはわからなかったが、今や私の座右の銘になっている。
人は、というか動物は、自分の想定していないことが不得手である。
パニックになって適切に対処できなくなる。
これはもしかしたら何かしらの方法を取れば改善する性癖なのかもしれないが、残念ながら私は知らない。
だが仮にそれがあったとしても簡単なものではないのだろう。
そのことは学校の避難訓練の存在が示している。
簡単なら子どもたちにそれを実践させればいい。
そうではなく、授業を潰してでも避難訓練をするということは恐らくそのような裏技は存在しない。
つまり人間は想定外そのものは克服できない生物なのだ。
では想定外にどう対処すれば良いのだろうか。
この答えがまさに私の祖父の言葉なのだ。
つまり『想定外』を無くせばいい。
だがそんな簡単に想定外をなくすことができないことはわかっているだろう。
なぜお化け屋敷が怖いのか。
いつ、どんなお化けが出てくるかわからないからだ。
これらが完璧に推定できればそれに越したことはない。
しかしそれは机上の空論であろう。
現実社会に比べたらお化け屋敷のほうがよっぽど良心的である。
それくらい現実は想定できない。至るところで多くの蝶が羽ばたいている。
故に漠然とした不安に襲われ、鬱になる。
だから想定外を無くせばいい、というのは理想論であり目標であるのだ。
そうできるくらい努力しろ、という含みもあるし、想定内だけの世界で生きろ、とも取れるし、「世界は想定できない」という想定を持てというワイルドカードの意味もある。
どう取るかは人の自由だし、同一人物でも置かれている状態によって答えは変わることだろう。
それでもいい。
大学生の私はワイルドカードの存在を肯定している。
それでいい。と今は思っている。
ただ、すべてを想定できた世界、それは存外つまらないものなのかもしれない。
それを想定することもまたできない。
当たり前などない
ここ数年でスマートフォンは急速に普及した。
日進月歩で日々の生活が便利になっていく。
もうスマホなしの生活なんて考えられないというくらいにスマホは我々の生活に根付いた。
しかしこれだけの変化を以てしても人の適応力を超えることは出来なかった。
明らかな異物。今までになかったもの。
それがここまで急速に増加しても気づいた時にはスマホがある日々が「当たり前」になっていた。
人間の適応能力は底知れないのだ。
この適応力が人間の繁栄の要因(または結果)かもしれないし、そうではないかもしれない。そこはどちらでもいい。
この記事で言いたいこと、私の気がついたことは、この適応力が案外人を不幸にしているんじゃないか、ということだ。
私は今大学生だ。それなりに受験勉強をして試験を突破した。合格発表の時はそれはそれは嬉しかった。昔九蓮宝燈をあがった時くらい嬉しかった。
だが、それも気づけば当たり前になっていった。
あんなにも入りたかった大学も気づけば当たり前に行ける大学になっていった。
これは今の私の例である。何年後かにこれを読み直す時も(来ないほうが幸せかもしれないが)きっと似たような立場にいるだろう。
人は慣れる。それも驚くほど早く慣れる。
非日常も3日続けば日常になっている。
このことに恐れることも、嫌悪する必要もない。
ただ人はこういう生き物だという自覚があればいい。
そうすれば気がつくだろう。
この世界に「当たり前」などない。
風向きのように人生は刻々と変わり続けている。
この世には常はないのだ。
もう一度言おう。
「この世に当たり前などない」
現在を過小に評価するな。
今を軽んじていると足元を掬われる。
「当たり前」だと思っていることも僥倖にすぎないということにきっと気がつく。
イマを正当に評価しろ。
幸福は生み出すものではない、見出すものなのだ。
世界を変えようとするのではなく世界の見方を変えろ。
そうすればきっと不必要に怒ることも悲しむことも鬱になることもなくなる。
私の限界
自分の限界について考えたことはあるだろうか。
これは能力的な話でも良いし、そうでなくて「どこまでが自分なのか」という限界でもいい。本質は同じことだ。
この世界ではどこまでの範囲が『私』に属しているのだろうか。
2019年の私はこういうだろう。
私の限界は世界の限界だ、私の限界が世界の限界だ、と。
我々が属する世界とはなんだろうか。
私の場合基本京都にいる。だから世界は京都だろうか。
いやいや、京都は日本の1都市に過ぎない。ならば日本が世界だろうか。
なにを馬鹿な、世界と言っているじゃないか。では地球が世界だろうか。
今や人類は宇宙に到達している。なるほど宇宙が世界だろうか。
どれも間違っているとは言えない。しかしどれも所詮他人が「世界」という言葉に意味をつけただけだ。もっと主観的に世界を定義しよう。
この試みをしてみると気がつくことがある。
それは「世界には存在世界と主観世界がある」という事実だ。
存在が世界にいる条件の世界『存在世界』にはあらゆるものがある。
スマホもそうだし京都もそうだし外国もそうだし遠くの星もそうだ。
では『主観世界』とはなんだろうか。
これは私という個人が認識できる狭い世界である。
アフリカの国は存在はしているが、私は何も知らない。これは主観の世界の住人にはなれない。
仮にGoogleEarthで確認したとしてもアフリカの国のなんたるかは知らないままであるためやはり主観世界には属さない。
ではなにが属しているのか。
「アフリカの国の存在」という存在は主観世界に属している。
換言すると、「自分の知っている、見たことのある曖昧なアフリカの国を元に私の脳で構成された存在X」はこれに属している。
私達は本当の本当に存在しているそのものの物体を知ることはできないのだ。
以前の他人の像の話と同じである。
存在世界は主観世界を内包していない。主観は独立こそしていないが不可逆なほど変貌している。
存在と認識にはそれくらいの差がある。
これは私達が目で見て脳で処理するため避けられないことだ。
これを受けて次に考えることは「私はどっちの世界の住人なのか」という問いであろう。
私は存在しているから存在世界か?
いや、違う。
私という存在を認識しているのも私の主観である。
私は永遠にこの主観世界からは逃げられない。
それではどうすれば自分の限界を広げられるだろうか。
広げることが必ずしも幸福に繋がるかは一考の余地があるが、いくらかは世界を広げないと他人の世界との共通部分がなくなってしまう。
それも社会で生きるには問題なので自分の限界を広げる方法を考える。
しかしこれは簡単な話だ。
たくさん未知の世界と触れ合えば良い。
主観世界を理解している人は未知の領域の存在ともうまくやれるはずだ。
なぜなら主観世界を認めながら未知を否定することは自分が全知全能と言っているのに等しいからだ。
では未知とどう接すればよいか。
未知とのふれあいにも2つある。
今日の一番重要なテーマはここだ。
まずは経験的未知がある。知らない国に行ったり、色んな業種のアルバイトをしたり、人生初の食べ物を食べたり、人が新しいことに挑戦しよう!と思った時に頭に浮かぶ色々のことだ。
これは狩りに例えるなら獲物である。これがなくては始まらない。
しかしもうひとつ大切なものがある。
それは言語的未知である。
以前言語が思考を支配しているというような話をし、その時また今度詳しく話すと言っていたが(「他人に期待するなかれ」参照)今回が実はそれだった。
言語がなければ思考ができない。表現もできない。
知らない国に行っても知らない国に行ったということにしかならない。知らない国に行って何を感じたか、何を学んだかを脳内で言語として表現できなければならない。
言葉は狩りの道具なのだ。
道具がなければ獲物は素通りするだけだ。
我々は狩りに行く前に日々道具を磨かなければならないはずなのだ。
私の限界、それは私がいる主観世界の限界に等しい。
そしてその世界は言語によって画定されている。
よって、
私の限界=私の世界の限界=私の言語の限界
という結論に至ったのだ。
以上、ウィトゲンシュタインを自分なりに解釈した拙い感想文である。
幸せなバカであれ
GWももう終わりですが、私は今ハッピーな気持ちでいます。
ブログを始めた時は誰もこんなブログ読まないだろうと思っていましたが意外や意外、読んでくれる方がいらっしゃるようで嬉しい限りです。
しがない大学生の落書きですがこれからも楽しんでもらえると幸いです。
私は昔、幸せな人間はどんな状態でいるのか考えたことがある。
その時、幸せな人に見られるひとつの共通点を発見した。
それは「幸せな人は考えていない。」ということである。
この文には2つの意味がある。
ひとつは考えないほうが幸せなこともある、という意味だ。
毎日日本の将来を危惧して政治家や若者に憤怒しているおじいさんより、 田舎でのんびり暮らしているおじいさんの方が幸せに見える。
幸せの定義は個人によるので断定はできないが、少なくとも私は田舎でのんびり暮らしている老後のほうが幸せに感じるだろう。
これは人間関係にも言える。相手のことを不必要に考えて気を揉むより、飲みながらくだらない話をしている方がよっぽど楽しい。
何も考えない人生は不幸になるが、考えれば人生が幸福になるかというとそうでもない、ということなのだ。
そしてもうひとつの意味、こちらがより重要である。
ずばり「考えなくても良い、という状態が幸福の必要条件」という意味である。
定義というと語弊があるため必要条件という言い方にした。(間違っても十分条件ではない)
ある知識を学びたいと思いながらそれを勉強する人のほうが、なにをやらされているかわからないながら勉強をしている人より充実しているだろう。
自分はこの職に就くために生まれてきたんだと思えるような職がある人のほうが、何をやりたいかわからずフリーターをしている人より明るい人生を送れるだろう。
俺はこの人さえいればいいという恋人がいる人のほうが、なんとなく周りの人とつるんでいる人より幸せだろう。
つまり現状に再考の余地が状態が幸せなのだ。
これさえあれば、この人さえいれば、そういうものに出会えている状態が幸福なのだ。
だからそういうものを早く見つけられないと人生はいつまでも不満足な、幸福でないものになってしまう。
だからそれを見つけましょう。
そういうのは簡単だ、そんなことは安い自己啓発本に言わせておけばいい。
このブログはあくまで私の日記である。綺麗事を書く場ではない。
そもそもそれを見つけようとしただけで見つかるなら全人類幸せである。
そうではないのだからこれは不可能か、それに近いほど困難なものなのだ。
ではどうすればいいのか。
バカになれ。
鬱になっている鳥を見たことがあるだろうか。自殺する犬を見たことがあるだろうか。
人間は考えることができる。これは贅沢な呪いなのだ。
考えることがなまじ出来てしまうせいで、考えなくても良い不幸に苛まれる。
思考とは訓練が必要なのだ、適性が必要なのだ。
適性のない人は思考によって自らを不幸にする。
それが鬱である。
ならバカになろうではないか。
考えないことが悪とは誰も言っていない。
今目の前にある状態を自然体で受け入れる。
それだけで幸福になれたらとても幸運だ。
しかし、それで不幸になることは絶対にない。
考えることを許される人は「考えること」を考えたことがある人だけの特権である。
(そんなこと言っても色々考えちゃうけどね。)
生きがいを探すな
GWは時間がたくさんあるのでつい色々考えてしまう。
俺はなんで生まれたんだろうか。
俺はなんで生きているのだろうか。
ふとそう思う時があるだろう。
しかしこれを考えだした時、基本答えが出ず鬱になって終わる。
私はそういう経験を何度もしてきた。
ここに今の私が導いた考えを記しておきたいを思う。もしかしたら間違っているかもしれない。甘えかもしれない。逃げかもしれない。
だが大学生の私はこう考えたという事実は残しておきたいと思う。
人生のこと、未来のこと、生きがいは考えるな。
この結論に至った理由はただ一つ、世界への諦念からである。
少し長くなるが、時間への考え方・定義の話をしたいと思う。
私曰く、未来は本質的に存在しない。
過去はどうだろうというとこれもまた独立では存在しない。
全ては"イマ"の従属関係にある。
今、私が京都大学に通っているのも今日突然決定されたわけではない。
過去に受験勉強をした、その前にこの大学を志望した、その前に進学校に入学した・・・と遡ろうと思えば生誕まで遡れる。
なんなら生誕前まで遡ることができるだろう。
現在とは過去の積み重ねであるとともに現在の一部分で在り続けるのだ。
では未来はどうだろうか。
未来もまたイマの一部分である。
今の行動が未来の行動の端緒となりうる。
この記事を書いている時点で、未来に投稿されることがおおよそ決まるように。
これを突き詰めて考えると過去も未来も現在なのだ、イマなのだ。
そもそも時の流れを区切ることがナンセンスなのだ。
そう考えた時、誰が人生の意味を、生きがいを考えることができようか。
今やっていることの意義は後で気がつくものなのだ。
これだけは忘れないで欲しいのでもう一度言っていく。
現状の行動や知識の意義は後天的に決定される。
実はこれに似た経験は誰もがしている。
高校を卒業して何年後かに高校生活を振り返ると「あの時は楽しかった」と感じる。遊園地でも良い。いる間に自覚する楽しさより、その楽しさを失った後のほうがその時間に価値を感じる。
人生も同じ話なのだ。
人生は娯楽じゃない?
そういう意見もあるだろう。
では人生とはなんだ?楽しさを、面白さを、幸せを求めて送る主観時間を人生というのではないか?
人生の意義はあとから気づくものなのだ。
生きている間に生きがいを見つけるなんでちゃんちゃらおかしい話だ。
遊園地にいる途中に「今日遊園地に来た意味はこの観覧車だな」なんて誰かに言われたらその後の遊園地は興ざめだろう。
生きた意味なんて死ぬ瞬間に決まれば良いのだ。
生きがいを考えて、行動の意味を考えて現在を肯定できない奴に、肯定できる未来があるわけがない。
自分の人生を肯定できうる人はただ一人自分だけなのだ。
不自由とのつきあい方
自由になりたい
将来そう強く思う時が来るかもしれない。
だがその時は一度冷静になって考えてほしい。
「自由」の定義を。
自由を求めるということは現状が不自由と感じているのだろう。
今だってそうだ、本当にやる必要があるかわからないようなレポートに押しつぶされている。
ではこのレポートから解放されたら私は心の底から自由と感じるのだろうか。
断言しよう。その時はさらなる自由を求める。
不自由の対極に自由があるという認識は正確ではない。
人生は玉ねぎのごとしという外国の格言があるが、自由もまた玉ねぎであるのだ。
私という元は不自由集合Aという最小不自由集合に属している。これは私達が不自由と感じられる最も卑近な不自由である。
上の例ではレポートの束縛がこれに該当する。
このAの補集合が自由であるなら話が楽だが実際はそうではない。
Aを内包した不自由集合Bがある。
レポートを放り投げても。単位はどうするのか、大学という存在がAと見ても退学したらその先はどうするのか、といったように不自由の上にはもうひとつ上の次元の不自由が必ず存在している。
人生は本質的に不自由なのだ。
人間という器がそもそもの不自由であるためこれは自明のことであるが人は(私は)この事実を忘れがちである。
真の自由を手にした時、人は人生を終える。
ではこの不自由は人生をどうすれば肯定できるか。
どうすれば腐らず人生を全うできるか。
それは「工夫をし続ける」ことに尽きる。
必要は発明の母という、これに準えるなら制約は工夫の父であると私は感じている。
ゲーム業界を見るとわかる。
昔はROMのキャパはかなり限られていた。
今のゲームと比べるのも馬鹿らしいくらいの容量の少なさである。
しかし、それでも昔のゲームは面白かった。
制作側が本気で工夫をこらし、容量の制約の中、いくつもの名作ができた。
今のゲームにも名作はある。膨大なデータ量を持って、昔では考えられないグラフィックのゲームがたくさんある。
ただ私は思うのだ。本当に容量の増加分だけ楽しくなっているのかと。容量が増えた分の革新的なゲームが生まれたのかと。
このブログは論文でもレポートでもない。これはあくまで私の感想である。しかもゲームをそんなにやらない私の感想だ。
しかし今のゲームは昔ほどの革新がないと思えてならないのだ。
そんなの当たり前だ。昔は過渡期でまだ発見されていないアイデアが多かったんだから。そういう意見も承知である。
それでもやはり思うのだ。今のゲームには工夫がないと。
これはゲームをする側にも言える。
昔は一つのカセットをヘタしたら何年もやった。
隠し要素のコンプリートや縛りプレイや友達との対戦など、プレイする側にもゲームを骨の髄まで楽しもうとする心意気があった。
今はそう言えるだろうか。昔のゲームに比べてできることは圧倒的に増えた。しかし昔のゲームほどそのゲームを骨の髄まで遊びつくしていると言えるだろうか。
結論、人生に自由はない。
だから自由を求め路頭の迷うのではなく、身の丈にあった不自由さと友達になればよい。
向上心は正しい方向で、人生を賭すに値する分野で発揮すればいい。
それ以外は配られたカードで人生を楽しもうではないか。
そこに本当の意味での自由が落ちているかもしれない。
驕るな、そして欲するな。
私はなんと学ばない人間なのだろう。
これだけ自分に向けて文章を書いているのにまた同じ過ちをした。
人間、一度染み付いた癖や傾向は変わらないようだ。
先日友人と麻雀をやって大敗を喫した。
負けたことはまあいい。しかし負け方が悪かった。
欲というのはいつも自分と寄り添って存在している。
これだけ日々の生活と欲望の距離が近いのなら、自分のしたいことをするのが人生と主張する人がいるのもわかる。
しかし、欲の中でも自分の幸福を脅かす欲があるということを金輪際忘れないで欲しい。
それは驕りを伴った欲望である。
根拠もなく、努力もなく、思慮もない欲望は必ず自分を不幸にする。
前回の話に通じるが、基本人間が自由にできることなど限られている。
それなのに、そうとわかっているはずなのに、そこに何らかのきっかけ(特に偶然が続いたことによる勘違い)があると人の欲は暴走する。
「今の俺ならいけるんじゃないか」と
「この流れならきっと大丈夫だろう」と
これから常に戒めてほしい。
驕るな、欲するな。
驕りは目を曇らす。欲は心を曇らす。
私の人生の主人公は私かもしれないが、脚本家は必ずとも私とは限らないということを肝に銘じろ。